2013年1月2日水曜日

サミエル・ウルマン詩 『青春』 から思うこと

青  春

           
原作 サミエル・ウルマン
邦訳 岡田 義夫 
青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相ようそうを言うのだ。 
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦きょうだを却ける勇猛心、安易を振り捨て冒険 
心、こう言う様相を青春と言うのだ。 
年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに初めて老いが来る。 歳月は 
皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。 
苦悶や狐疑こぎや、不安、恐怖、失望、こう言うものこそあたかも長年月の如く人を老いさせ、 
精気ある魂をもあくたに帰せしめてしまう。 
年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。 
曰く、驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる事物や思想に対する 
欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興 
味。 人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる、 
人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる、 
希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる。 
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして偉力の霊感を受ける限り、人 
の若さは失われない。 これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつ  
くし、皮肉の厚氷あつごおりがこれを堅くとざすに至れば、この時にこそ人は
全く老いて、神の憐れみを乞うる他はなくなる。


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この詩を何年も前に見た。
一昨年の正月2日目、長女がインフルエンザになって夜間診療所を訪れた時、病院のロビーに毛筆で大きな上質の和紙に書かれていたものを再度観て、感銘を受けた。

まさに、青春とは、若者の特権的な価値観ではない。
寿命が訪れるその時までの心の有様そのものだ。

好奇心や挑戦し続ける、自分との在り方を失わず、天命を全うするその日まで駆け抜ける。
その姿こそ 『青春』 そのものであろう。

2012年12月15日土曜日

無意識の中の意識とは

私と親しく交流して下さっている方のブログ記事に大変興味深い文章がありましたので、そこから精神分析学、臨床心理学としての私見解をご紹介します。

An onymous氏 Blogger / 十字架の現象学
http://office-maria.blogspot.jp/2012/12/6.html
ニーチェ箴言散策集・私家版 (6) より引用 
ハイデガー現象学 未完の大著『存在と時間』第一部第一篇第十三節に、次のようなくだりがあります。
或るものを忘却したときには、以前認識されたものとのあらゆる存在関係が一見消え去ってしまうように思われるが、そうした忘却さえ、根源的な内存在の一つの変様として概念的に把握されなければならないのであって、すべての錯覚やあらゆる誤謬も同様なのである。(原佑訳)
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フロイトの人格構造論では、意識されている自分の中心的まとまりである 「自我」、抑圧されて意識されない無意識的な欲動の集積である 「エス」、そして自我から派生し、自我を監視する相対的に独立した内的人格である 「超自我」が設定され、それに 「現実的外界」 を加えた四要素の相互関係から理論が展開された。
※山中康弘氏、名取琢自氏執筆(臨床心理学:馬場謙一氏編より)Ⅱパーソナリティ論 p.12より抜粋引用
人格とは、自分自身の中にある3つの 『自分』 と外的要因によって存在する 『自分』 この4つから形成されているということだ。
更に、本著者馬場謙一氏は、 『3 異なる学派と本書の立場』 の中で次のように述べている。
③対人的かかわりの重視
人間の精神現象は、自然現象と違って、純客観的に観察することは不可能である。(中略)
自己の行動のみならず、自分が無意識的にもらす私的な感情や考えが、相手にどのような影響を与えているかをたえず内省してみることが大切である。
④症状の意味の重視
力動的な臨床心理学は、症状のもつ隠れた意味を重視する。つまり、症状の背後には、本人も意識していない意図や動機が潜んでいると考え、表面的に現れた症状よりも、それらを探っていくことに大きな関心を向ける。(中略)人間から切り離された症状ではなく、症状の背後の人間それ自体であるといえるであろう。
※臨床心理学:馬場謙一氏編 Ⅰ臨床心理学とは何か p.7より抜粋引用 
これは、あくまで治療者と患者を前提とした文書ではあるが、セルフコントロールと云う自分自身との対話によって自分と上手く付き合う方法としても現場で用いられているものであり、且つ日常生活に於いて何らかの問題に多少なり向き合う場面で大いに役に立つ知識のひとつでもある。

さて、ハイデガーによる現象学の内容を臨床心理学的に解説すると、忘れる事と覚えている事には内在する 『自分』の中にすべてはあるということであろう。
それがたとえ、錯覚であれ、勘違いであれ、何であれ、本人が感じた事は原因や理由よりも確かな事だと言えよう。


人は、 『見る・聞く・嗅ぐ・触る・味わう』 この五感によって自分を解っていると思っている。
所謂、視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚だが、それが必ずしも正しい情報として機能し生存しているのではなく、実は曖昧な感覚の中で割りとあっさりとした判断をしながら日常を過ごしているのだ。
社会学では、ステレオタイプと言うが直感や主観といった 『感覚的判断』 あるいは 『感情』 によって選択し、自分が感じた事や他者からの行為や動向をいちいち検証していては一向に物事が進められず、また神経も疲れてしまう為に 『適当な判断』 で精神的に丁度良い状況で居ようとする傾向がある。
故に、馬場謙一氏が著書の中で 『純客観的に観察することは不可能である』 と解説しているのだ。



そこで無意識の中の意識とは一体、どのような状態なのか説明しよう。
フロイトは夢分析で広く一般的にも知られているが、人間は目覚めている時だけ意識がはっきりしているのではなく、寝ている状態でも脳波動によって仮覚醒意識があることで夢を見る。
それと同じく、目覚めている状態でもふと意識がなくなったかのような感覚や眠っていたかのような 『空白の一瞬』 がある。
それを一般的な感覚では、 「ぼーっとしていた」 とか 「ふっとした時」 のように感じ表現している。
ナルコレプシーや睡眠時無呼吸症候群といった病気だけでなく、疲労やストレス、あるいは脳の疲れ、全身の血流によって変動している場合、生理的・身体的反応として自分の意識とは別の無意識で起こる現象である。
精神分析や心理学的な無意識とは意味が違う。

深層心理と言えば、ピンとくるかもしれない。
深層心理は自分の潜在的な心理を意味し、生い立ちや育った環境、幼少期の体験や与えられた概念、集団生活下の中で受けた疑いなき観念などがそれに相当する。
幼い頃に受けた影響は意識的に記憶することはなく、潜在的に精神の核(自我)へ記憶され、殆どの場合、覚えては居らず、ぼんやりとした触感にも似た感覚で宿っている。

人は視覚からの情報が脳へ伝達され、長期記憶と短期記憶へ振り分けられるが、その時他の感覚や感情も取り込まれる。
この感情が記憶としては一番強く印象的に残っており、脳の記憶箱から呼び起こされる時に思考は 『事実を言語化』 して動くのだが、言語よりも感情の方が根深くあるにも関わらず思い出しにくいものなのだ。
フロイトが精神分析に用いた 「お話療法」 というものは、ある物語(出来事)からその時抱いた感情を引き出そうと試みたものだ。
そして、現に抱える患者の困難の根源を探り当て、語り手本人に気付きを与えようとする方法であり、今日でも精神科で行われる心理療法や森田療法もそういった手法が取られている。


「あの夢は何だったのだろう?」 とか 「自分はどうして?」 と悩んだり、考えても、本来は答えは見つからない筈のものを人々は知りたがる。
それは実感し難い潜在意識が気に掛かるからだ。
また挫折や失敗を経験すると、それは心の痛みとなって精神的に回避出来る方法を習得しようとする情動から生まれることであり、 「あの時、何故あんなことに…」 と考えるのは本能的学習なのかもしれない。
それは恐怖心や猜疑心といった得体の知れない事への不安から湧き上がる当然の感情であり、人は常に恐怖心の中に居るのだ。

高等動物である人間は、物事を言語的に捉えることで実感しながら確認し、是か非かを判断しなければならないような複雑な思考作業を絶えず行っているにも関わらず、実の所、是か非かの二者選択的思考に惑わされている。
生まれてきた時、人間は視力が弱く嗅覚の方が発達している為、敵か味方か、危険か安全か判断する能力が非常に高く、赤ん坊はまず最初に 『嫌』 の箱を脳に備えている。
未経験・未発達な問題に対し、危機回避能力を発揮しなければならず 『きらい・嫌だ』 という感情が芽生えることから始まる。
約生後1年で、その嫌いを経験し、同時に好きを体験して行く。
生後3年に達する頃には、その好きと嫌いの箱が約50%ずつ完成される。
この頃 『自我』 が芽生え、振り分け作業が開始し、生後5年には大方の概要が形作られる。
外的要因によって振り分けられた 『概念』 というものは約10歳で完成し、自己理想像の決定もこの頃形成されている。

これが人格形成の基盤となり、外見的には性格として、自己・他者の両方から判断されるものとなる。

この生後10年間によって作られた、好き(善)と嫌い(悪)の箱は生涯、殆ど形が変わることはない。
それが深層心理であり、潜在意識なのである。



無意識の中の意識は、訓練しなければ意識することを獲得出来ず、曖昧な判断や意識によって揺れ動いているかのような錯覚の中にしか意識することは出来ない。
ハイデガーのいう、
根源的な内存在の一つの変様として概念的に把握されなければならない
と一致するまたは合致し得る点なのではないだろうか。


私の見解では、人の精神構造は感情論が約90%を占めていると考えている。
しかし感情は本能とは全く異なるものというのを踏まえて頂きたい。



〔参考文献〕 臨床心理学(弘文堂入門双書):馬場謙一 編(平成7年11月30日初版/弘文堂)

『学校に行く理由』~学ぶ意味とは

最近、また連鎖反応のようにいじめが問題で子供の自殺が増えている。
そもそも義務教育は何のために在るのか、子どもたちに教える教師も親も少ないと感じる。

何時の時代でも子どもの口から 「学校に行かなきゃいけない理由が解らない」 や 「勉強しなきゃいけない意味が解らない」 を耳にしてきた。
長く生きていれば、人生は楽しい事よりも苦しい事の方が多い事が理解できるのだが、まだ未発達で未経験の多い子どもたちには、楽しくない事を苦しんでまでやらなければいけない理由など解れという方が無理だ。

勉強とは、点数を取ることではなく、生きる知恵や生活するうえで最低限必要なものを身に付けること。
学校とは、自分の好きな仲間や楽しみだけでなく、社会の仕組みそのものを体験する場である。
故に、人間関係の練習の場であり、先輩、後輩、同級生の縦社会の人間関係や教師とのやり取りの中で大人社会を実体験するものであり、そこに 『楽しいこと』 だけがある訳ではない。

それらの問題への取り組み方を教えながら、気付かせながら、誘導していくのが私たち大人の役割だ。
しかし、実際の教育現場や家庭では、それら子どもたちの考えている事に耳を傾け、心の中で何を思い、日々を過ごしているのか観察してはいない。
教育指導要領に従って、とにかく授業に遅れが出ないよう、まるで大学の講義かのような速さで進め、テストによって点数をつけ、高校受験へと押し出すことしか学校では行われていない。

中学は国が定めた義務なのだから、教師は問題なく生徒を卒業させるのではなく、社会に出るに当って、どう生きる必要があるのか教える義務がある。
生徒は、義務である前に 『教えて貰う』 権利があるのだから、どんどん疑問を投げかけ解決していけるように助けて貰う義務がある。
そうは言っても、どちらとも関わりあいたがらない ウザイ関係 では、どうしようもない。


高校進学率が98%と、世界的にも高い水準でありながら、その実態は内容のとても薄い物で、唯高卒の資格を得ることでしかない。
その一方で、中退者率は何%に及ぶのだろうか。

文部科学省 平成21年12月22日発表の
平成20年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する 調査」等(小・中学校不登校の確定値及び高校長期欠席、 高校中退の数値の訂正値)の公表について
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/21/12/__icsFiles/afieldfile/2009/12/25/1288459_1_1.pdf
を読まれると良い。

この中で、公立、私立共に在籍者数に対し、不登校者率1.5%、そこから中退者率は全体の約2%と統計が出されている。
この結果をどう捉えるかが問題だが、たった2%しか中退者がいないとは、到底思えない。


私立に於いては、入学金や入学支度金、授業料に高額な金銭が必要で、それは学校運営の大切な資金であるのは言うまでもない。
それでいて、最初に徴収したものや退学するまでに収められた授業料分に見合うだけの教育や相談を与えていたのかと正直に問いたくなる。

いまや高校は世間的に義務教育と同じく、アルバイトをするにあたっても 『高卒以上もしくは高校在籍中』 が条件になっている。
それでも退学を望む子どもたちに、何故必要なのかを教えられないのだろうか。

上記の文部科学省発表の文章一つでも、 『読める』 のだろうか?
『読める』 とは、内容を理解出来ることであり、状況を知る、実感することである。


そもそも義務教育期間の9年間は、友だち作りや思い出作りの期間ではなく、それらは余禄なのであり、高等教育を受ける高校進学のためや大学入学、果てはブランド企業就職のプロセスに利用するものではない。それらは結果であり、余禄に過ぎない。
義務教育で教えられる科目を真に理解し、記憶し、応用出来たならば高校進学は必要ではない。
それ程までに基礎学力は、社会へ出てどのような職業に就いたとしても、起業したとしても重要なものであって、必ず 『読み・書き・算数』 は必要なのである。

ある小学校教諭が、テストのクラス平均点が悪かった時に、
『お前ら、このまま勉強出来ないでいると道路作業員とか現場作業にしか就職出来なくなるぞ!』
と、発言したことがある。
これは大きな間違いだ。

例えば、現場作業員と云えども、その職種や役職は様々あり、現場監督になった場合作業工程を確実に把握していなければ納期に遅れが生じる。
その時に、作業員を取りまとめ、年齢や経験、性格などを考慮し配置を考え、作業を進める計算をしなければならない。
また、従事者側もある程度の寸法や重さ、時間などの計算、支持される言葉の理解、材料の調達の分量計算、注文書・納品書・領収書など最低限必要な文字も読めなければいけないし、伝票や報告書・日課票への記入など書けなければ困るのだ。
言葉は汚いが、彼らは教師が思うような 『脳なし』 ではない。

日本の計算式や寸法の取り方には独特のものがある。
『尺』 がそのひとつだ。
家屋の間取りが最近では洋風にはなって来たものの、やはり図面を引く際に 『三尺六尺』 で計られている。
三尺=90cm、六尺=180cm。
畳一枚がその寸法であり、6畳間は縦3m60cm×横2m70cm。これが原型となる。
押入れは、ふすまが2枚であれば一間、1枚であれば半間と言うのだ。

※注:この寸法は、京間、江戸間と呼ばれる計算で若干地方によって誤差がある。

今では鉄筋コンクリートや2×4方式と云った建築様式によって、柱を自由に設計し、このような寸法でなくともワンルームやバリアフリー構造住宅の建築も可能になった。
しかし元来日本式の床に座る、畳の生活に長年馴染んでいるため家具などの調度品もそれらの寸法に合うように未だ造られているのだ。
布団は畳同様の寸法、シングルならば約90×180、ダブルは約145×180で製造されベッドも同様だ。長身の人が増え欧米化した体格に合わせて、長さだけが190cmや210cmも多く普及している。


こうした生活の中だけでも計算は簡単に必要なものだ。
そういう日々の生活から体験し、算数である 『縦×横×高さ』 を知ることはとても大切な事であり、算数や数学が苦手な子どもたちに興味を持たせる手立ては、実は身近な所にあり、脳の中に 『好奇心』 を沢山持ち合わせている小学生に何も難しく黒板やプロジェクターなど使用せずとも教えられるのだ。
体積や容積、立方体そんなものは、いくらでも身の回りにある。
ただ、教師になった人たちがこう云ったことを知らなければ、また興味を持たず教師になっていれば、マニュアル通りの勉強の仕方しか伝授出来ないのはしようがなく、また残念な限りだ。




子どもたちが将来どのような道を歩むかは、本人にも親にも、教師にも判らない未知の世界だ。
ならば、点数や評価主義ではなく、もっと中身のある身に付く勉強を与えてやらなければならないし、どの様な職業を選択したとしても可能なように導けるよう、私たち大人は世間を知らなければいけない。
与えられるがままの教育で育ってきた現代の大人たち。
子どもよりも世間知らずで、無知な大人たち。


『知恵は財産なり』
これを今からでも学ぼうと思う大人が居るのならば、きっと子どもたちに、子どもたちの目線に立って、学校に行く理由や勉強する意味を教えてあげられるのではないだろうか。

最後に一言。
一万円札ばかり勘定したり、眺めたり、宝くじで当たりはしないかと夢ばかりバクのように見て居らず、そこに描かれた人物福沢諭吉の有名な著書 『学問のすすめ』 をしっかりと読みなさい。
何故、人は学ぶ必要があるのか?
それは金持ちになるためではないと、ハッキリ書いてあります。
『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』
誰でも殆どの人が知っている言葉の本当の意味を、是非学び直して欲しいと願う。

生涯学習をするなら、まず自分の子、他人の子分け隔てなく、自分たち大人が全員で育てるのだと云う意識を持てば、必ず低学力やいじめなどの問題を解決する道は開ける。
まず、大人が学びなさい。
そして、子どもたちから現代史を教えて貰い、古臭い時代遅れの概念や固定観念を置いておき、古き良き日本の言葉や教え 『道徳』 を言い伝えなさい。


あなたが子どもだった頃、親や教師や周囲の大人が何を教え、与えてくれたのか、思い出して欲しい。

2012/10/23書きかけ項目だった記事です。

2012年11月14日水曜日

心理学、精神医学、精神分析学に於ける考査の視点

心理学、精神医学、精神分析学等の分野に於いて、ここ最近気になる点が多い。
各分野で、提唱された学術や文献にどうも 『派閥的思想・傾向』 を感じるのだが、研究されている方々にひとつご紹介したい。


大変古い本だが、
アドルフ・ポルトマン著/高木正孝訳による 『人間はどこまで動物か~新しい人間像のために~』
初版1961年10月30日、1974年4月10日第17刷発行(現在絶版)
この本の第1頁目に書かれている文章をご紹介しよう。
『この本を読む方へ』
 まずはじめに、 「日本版へのまえがき」 から、本文の 「Ⅰ 生まれたての人間」 以下 「Ⅵ 老衰」 までよんでいただきたい。それから、編集者による解説 「現代の人間研究における生物学の役割」 をよんでいただければさいわいである。
 そのあとで 「序」 と 「結び」 にもどっていただきたい。というのは、この 「序」 は第二次世界大戦中にナチス・ドイツを対象にした著者の立場の哲学的表明であり、そこには、キリスト教文化圏であるヨーロッパの思想と、生物学を学んだ読者でなければ理解に苦しむことがらがくどいほどもられているからである。
 ひとことでいえば、ヨーロッパにおけるキリスト教という文化的支柱の大きな役割と、それを土台とする思想が直接ヨーロッパ人の生活にどんな力をもっているか、そして、 「人間論」 がひとびとの日常生活にまでどんなに深い関係をもつのか、があらためてみなおされる。それにくらべてわが日本では、宗教といっても、その大部分はこの地上の人間関係を主体とする文化圏であって、思想・考え、つまり 「人間学」 なしにすませていること、わたしたちの生活や、道徳も、みんな目さきの人間関係だけにかかわっているのがわかる。
訳者

この文章の中で書かれているように、文化圏や宗教等の違いから、物事の捉え方がそれぞれに違いがあり、人間の根底にある心理は国によって観点を変えなければいけないことが覗える。

心理学・精神分析学を創造した人物の育った環境や国、時代などの違いから、今日では合致し難い観点も多く、新たな見直しが行われているがそのどれもが、目先の問題解決に捉われるばかりなのではないだろうか。

この訳者による解説のように、学説の検証をするにあたり本質は何処にあるのかをまず見極め、採り上げる論点を選択しなければならない。
学徒にとってもっとも大切なことは、それらを踏まえた上で 『ひとつの学説』 に捉われず、tetra-cycle brain を持って挑むことである。

学術書の読み方では、もくじから起承転結を追って読む必要のあるものと、そうでなく、この解説のように、追う順序を変えて読まなければ、視点・論点を繋ぎ合わせるのが難しいものがある。
しかし、日本での精神医学は英国を始めヨーロッパ諸国と早くから協力体制がとられ、その情報は大変多く、学術書も国内には多数保存されている有難い状況だ。
それらをどのように活かし、発展させるかを今一度、研究者、学生、臨床家は考えなければ宝の持ち腐れになってしまう。
学会大会を学説論争の場にするのではなく、それこそ 『価値観の共有』 にしなければ、何の意味もない。
論文を沢山発表するだけでなく、その先に何を追及し、探求していくのか当事者は明確な到達点のヴィジョンを抱いて研究に取り組まなければならないのは言うまでもない。


診察や研究をする際、その患者(対象者)の何を診ているのか?
『症状』 なのか?
『病名』 なのか?
『現状』 なのか?
『適した薬剤』 なのか?
『治療法の模索』 なのか?

自分は、何を見ているのか考え直してみると良い。
患者が敢えて語らない、見えない真実があることを忘れてはいけない。
それは、教科書には書いていない。
日本は島国であるが故に、多国籍人種があまり存在しない。
最近でこそ、ハーフタレントや国際結婚によって、見た目に解る外国人風の日本人が多くなったが、しかし中には日本生まれ、日本育ち、日本語しか話せない 『見えない外国人』 が存在する事を把握しておかなければならない。

つまり 『人を見た目の先入観で判断しない』 ことが必要なのだ。
理解し難いかもしれないが、その人の生い立ちの背景に日本文化ではない文化の価値観が存在するのだ。
人々には何らかのルーツがあり、小林隆一氏(現:鹿児島国際大学経済学部教授/専門は社会学)が書かれた 『県民性』 という論文では、日本人の国民性を詳しく地域の人間学として紹介されている。
血は争えないという諺があるが、まさに本人が敢えて意識していない無意識の先祖代々によるDNAに刻まれた記憶が存在する。
患者の親の教育方針や家庭環境は、その親すらも無意識の中で行っており、自己と他者を比較する事もなく、当たり前に 『日本人』 だと思っている場合があり、結果として 『敢えて語らない、見えない真実』 がそこに存在するのだ。
それこそが 『常識』 という曖昧な自己同一性の価値観である。


研究者や医師が当然と疑いなく見過ごしている中に、解明の糸口は隠されている。






2012年9月7日金曜日

メタリック・ワールド

私の記憶では、日本に於いて 『近未来』 という言葉が現れたのは鉄腕アトムの時代ではないかと思う。

昔、私の父が話してくれた事があった。
父が中学生の頃、少年誌に鉄腕アトムが連載され、夢中になって読んでいたそうだ。
父が言うには、その頃は 『ただの夢物語』 であって、「まさか、そんな時代が来るわけないだろう」 と思いながらもワクワクしていたが、本当に町並みの風景がそうなったと語るのだ。
何の事なのかと聞けば、父の時代に町中の道路の上にクネクネと道路が作られ、その上を車が沢山走ったり、高層ビルがその合間を沢山建つなど考えられなかったのに、いま本当にそうなって、驚いていると言うのだ。


いまも尚、映画やアニメ、科学技術の世界でまさに誰もが、まだ 『近未来』 という言葉を何のためらいもなく発言する。

近代(いつからが近代なのかが、やや疑問だが)になって、想像(イメージ)される近未来のヴィジョンとは、ターミネーターからだろうか(私はSF映画に詳しくないのでタイトルを忘れたがダースベーダーの映画)からなのか、人間が皆同じ形の銀色の服を身にまとい、カプセル型の透明な寝床で、食卓は銀色の食器に囲まれ、家具も全て、居住空間が銀色の世界一色だ。


人には、何かを想像する時に必ず脳裏に何らかの映像化された世界がある。
メディアや様々な外的なモノによって、疑う事無く映像化された近未来のヴィジョンが、銀色の世界。
それは、ある種の他者からの影響によって与えられ、刷り込まれたヴィジョンであると感じる。

個々人が、各々の自由な発想によって生み出されたものではない。


しかし、私がそれよりも更に疑問に感じるのは、既に私の父が語ったように、未来は実現・実用化までされているにも拘らず、まだ 『近未来』 というキーワードが使われる事にある。
一体、いつになったら真の近未来は実現され、未来が現在になるのかと思うのだ。


理屈っぽいかもしれないが、高度経済成長期から40年以上経っても、まだ未来はやって来ていない。
テクノロジーの進歩は、父の時代とは違い、こうしてコンピューターが発達し、人との連絡も殆どがGPSやクラウドと云ったインターネットを介して行われるようになったのだから、もう人力は殆ど必要のない時代になった。
これが目指してきた近未来であり、現在であるのに、まだそれ以上の宇宙的未来を開発している。
それは、人類の欲する処である事を否定はしない。


だが、どうしても腑に落ちないのは、ここまで一般人もハイテクノロジーを日常生活の中で利用していながら、イメージする未来像が、相も変わらない銀色の世界である処だ。
何故なのだろう。


そう考えている内に次第に感じてきたのは、SNSなどのソーシャルコミュニケーション上や生活圏での人間関係の中で、人々の心がアルミ製なのか、他の金属性なのかはさて置き、銀色の金属素材のように冷ややかな感覚に思えてきた。

洋服や家具などは、モノトーンが流行り、逆に絵の具を無作為に混ぜ合わせたかのようなカラフルの域を超えたバラバラの色彩が好まれる一方で、索漠とした人間関係はまるで金属のように冷たい。

例えば、ネットコミュニケーションでは離れた場所の会った事もない人と 『友だち』 になり、チャットやメールで仲良くなっては、何かの行き違いでブロックしたり、削除したり、時にはオフ会で対面してもその後疎遠になる現象は未だに続いている。
『リアル』 と言われる実際の地域社会での友だちとも、ネット上の書き込みによって人間関係にひずみが生じて、いじめ問題へと発展して傷つけ合ってしまう事も後を絶たない。
それは何故だろう。


私には、地方社会に未だ残る、村八分文化の方がまだ優しく感じられる。


結論的には、電波を介した人間関係には、村八分という猶予的時間がなく、無理をして神経をすり減らして、挙句には精神まで病めるほど我慢を強いられてまで繋ぎあう必要が電波社会には必要がないからだ。
電源を切ってしまえば、それまで会話をしていた相手は居るのか居ないのかも確認できない。
それを逆手に、簡単に削除やブロックをして、断ち切ってしまえば悩んだり、解決する労力を次の楽しみへと即座に移せるからである。


それが、人々を金属化してしまう原因なのだ。

しかし、そのネット上の出来事に一喜一憂し、翻弄させられ、悩まされ、心は一分一秒左右され続けている、この現実は、『夢見る近未来』 の人々が得たい真実の世界なのだろうか。
私は違うと思う。



本当は、心の底から何の遠慮もなく、他愛なく笑いあい、時には悩みを共有しながら、本音で語り合いたいと人は望んでいる筈だ。
それなのに、どんどん反比例していっている現実に気が付いていない。


この世の中は
『メタリック・ワールド』

2012年9月6日木曜日

平和になる瞬間を観られなくなった子どもたち


毎日テレビやニュース、映画といった映像の中では、殺人や戦争など事件事故、天災による自然災害、それと領土問題など争いや嫌なものばかりだ。

ふと思った。
今の時代では、誰かやどこかの国で平和になるような歴史的瞬間を観られなくなったんだ。


東西ドイツの長い争いが終わり、分断の象徴のベルリンの壁がなくなった。

天安門事件で、一人の大学生が戦車の前に紙袋を片手に立ち向かい、抗議する姿。
その後彼は戦車にひき殺され、それによって一気に市民が立ち上がり武力弾圧と戦かった。
そして今の民主的な中国になった。

ソビエト連邦が崩壊し、支配下にあった小さな国々が次々と分離・独立し元の自国に戻った。
チェコも昔はチェコ・スロバキアだったが、それぞれが独立した。
そしてソビエトもロシアという元々の名前に戻った。

日中国交正常化40周年を迎えるというが、私は幼かったためにその瞬間は知らないが、何回か田中角栄元首相の白黒の映像を観て、平和になった瞬間を観てきた。

沖縄が日本に返還されたり、香港がイギリスから中国へ返還されたのを観てきた。

そうした中でアメリカ主導の下、湾岸戦争が勃発し 『多国籍軍』 と云う新しい戦争の形が出来、日本も自衛隊が初めて海外での戦闘に参加する瞬間を観た。
その時、自衛隊では他国の軍服に見習うかの様に制服一式が一新され、ベレー帽、スカーフなど今までにない物が採用され、迷彩服はアメリカ軍の形が採用されるなど変更された。
C-130輸送機の塗装は海外使用に塗り替えられた。


そんな平和へと変わっていく世界の姿をこの時代の子どもたちは観る事がなくなった。
唯一、先頃のミャンマー(旧名ビルマ)での民主化運動指導者アウンサン・スー・チーさんが自宅軟禁から解放された映像くらいしかないのではないだろうか。

しかし、その瞬間をテレビで観ても、子どもたちには平和へ向かう第一歩とは感じる事も理解する事も出来ないだろう。
それは経緯を何も知らないからだ。
教科書で見たか、学校の歴史の授業で聞いたか、その程度でしかないからだ。

私の子どもの頃にはビルマは既にミャンマーと国名が変わっていたが、それでも私の記憶にはビルマとあった。
同じ様に、現在はスリランカと国名が変わっているが、昔セイロンという名前だった事も知っている。
セイロンは、紅茶の国だ。セイロン人だ。




これから世界はどうなっていくのだろう。
シリアでの内戦が悪化し、遂には国連の人や車、海外メディア人をターゲットにした殺害まで起き、撤退する事態にまでなってしまった。
幾ら、国の治安正常化をしようと努力しても、難民キャンプでの国際協力医師団が必死で治療や支援をしようとしても、次々と中東諸国は荒れていく。
中東に限らず、世界各国様々な所で戦争や内乱は続き、病害や飢餓は収まらず、自然界も同じ様に砂漠化が止め処もなく進み続け、北極や南極の氷は融け続けていく。

世界的な経済不況は、次々と起こり、円もユーロも下がる一方で、アラブ首長国連邦、中国では急激な経済成長によってバブル状態が起きている。



地球や人間が荒れていく姿しか観られない子どもたちは、何を感じているのだろうか。
この日本でも、震災や豪雨被害、原発問題、韓国、中国との領土問題、いじめによる自殺など沢山の荒れる映像ばかりだ。
テレビで観るのは、そんな事件・事故かお笑い番組。
ネットの中では、SNSの書き込みで一喜一憂する言葉のやり取り。

希望を持ってと言われても、何が 『希望』 と言えることなのか理解出来なくて当然だ。
『個性的に』 や 『オンリー・ワン』 と言われても、出る杭は打たれることを知っている子どもたちは自己主張をしない。
また自己主張の仕方も知らなければ、自己主張と自己中心の違いも解らずに 『主張』 の意味そのものを履き違え、勘違いしている。
それをキッパリと、説明の出来る大人が居なくなった。
今時は、『説明』 を 『説教』 といきなり決め付け、心にシャッターを降ろしてしまい聞く耳を持つ余裕も持っていない。

そもそも、説明とは事実や事情を明らかにすることであり、説教とは嫌な話や嫌味を味合わせるものではなく、先人の経験からその時々に応じて教えることである。
言葉の本来の意味もあやふや、気持ちもあやふや、生活すらもあやふや、その中で育ち生きる子どもたちが抱く思いは、人生始まって間もないにも係わらず 『人生』 という言葉を使い、『生きる意味』 を探す不安ばかりだ。

挫折と言えるような挫折でもなく、それは失敗や経験の一つであるのに、絶望を語り、死にたいと簡単に言う。
裏返しに、すぐに自分を否定や非難したり、自分が好きでないものに対し、『死ね』 と言う。
妙な事に、『神だ』 という極端な言い方の賞賛や 『天才だ』 とすぐに絶賛する傾向も異常だと言える。

結局は、こんなに治安の良い日本でありながら、実際の日常生活での人間関係では敵か味方でしかない。
それは意とも容易く、いつでも逆転する危うい人間関係になっている。
昨日まで、いや、ほんの数分前までは味方や仲間だった人間が何の予告もなく敵に変わっているのだ。
マンガ、アニメ、ゲーム、映画の題材が、そのまま現実の世界に反映され、その現実がまたフィクションの題材に利用されている。

ゆとりやら、グレーゾーンなどと曖昧な概念、価値観を抱くことと反比例して、是か非かのオール・オア・ナッシング的思考しか選択しない現代社会。



大人や国政が揺らいでいる背後で、子どもたちは大人の知らない絶対的価値観を極端なまでに持ち生活していることに気付かなければならない。
世の中を動かしている大人たちの足元は、その子どもたちによって、まるで融けて漂流する小さな北極の氷の欠片のように見える。


※平和になったイコール是にて一件落着というような単純なものではなく、ここで書いた 『平和になった』 という表現は、争いから放れて友好的関係や互いの平和を目指してということであり、好転を意味しています。



2012年9月2日日曜日

パラリンピックが放映されないことについて

今回のロンドンオリンピックは、開催3回目ということもあって、色々注目された。
時差の関係から放映時間は、生中継でみるには日本では夜中だった。
それでも夏休みと重なったのもあって、録画や生中継で見た人は多かっただろう。


いつもオリンピックを見るたびに、知らない人が 『ああ、終わったね』 という声を聞いてきたが、「いやいや、閉会式はやってもまだ、やるよ」 と言うと必ずと言って良いほど 『えー、そうなの?』 と返事が返ってきた。

パラリンピックは、オリンピックが閉会した2週間後に改めて開会式が行われ、障害者競技が開催される。
そもそもオリンピックとパラリンピックが分けられているのは、差別ではない。
健常者としての技量を競い合うのがオリンピック。
障害の程度やそれぞれを考慮し、障害者としての技量を競い合うのがパラリンピックだ。
その歴史は1948年のロンドンオリンピックに始まる。
詳細はウィキペディアを読まれると良い。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF

それ故に、今回のパラリンピックは特別な意義があると言える。

しかし、毎回開催されるオリンピックの後、テレビでは結果しか報道されない。
あれだけ日常の企画を変更してでもオリンピックは放映されるのに、ニュースやワイドショーの一部でしか取り扱われない事に、とても違和感と不満を抱いてきた。

今回、東京に於いてメダリストたちの凱旋パレードに集まった人は、50万人にも上った。
毎度の事だが 『勇気をありがとう!』 や 『感動した!』 『パワーをもらいました!』 そんな言葉が沢山選手たちの貢献に対して寄せられる。
少なからず誰もが、超人的能力と日々の訓練に賞賛する気持ちがあるから、そう素直に言えるのだろう。

それならば、障害を背負いながらハンディを持った人の日々の努力や、精神力は想像を超えるほどのものに対し、メディアは知らせる代理人ではないのか?


健常者でもオリンピックに出場するまでの道のりは長く、故障や怪我によってリハビリでトレーニングに専念しなければならなかったり、候補者協議会に出場できず断念する人も沢山居る。
その中で選ばれた人が出場できるのだ。
パラリンピックも同じく、選手選考会があり、選ばれた人だけが出場できる。
しかし、健常者と障害者の選手の違いは、身体障害だけの問題ではない。

障害者は、先天性の人も居れば、事故などによって人生の途中から障害者になった人も居る。
その挫折感や失望感を乗り越え、障害者スポーツに出会い、人生の生きがいを見つけた人が日々練習に励み、自分との戦いの中にある。
日常生活で思うようにならない、自由にならない問題を抱えつつ、スポーツをするということは、不自由な身体を更に不自由な中で動かさなければいけない。
その精神力は、健常者にはきっと想像すらできない世界があり、日々忍耐、努力、自分の目指す自己理想像に近づこうとする貪欲なまでのものがある。


オリンピック選手がどんな練習を毎日し、競技に臨んでいるのかを健常者が体験した時、その難しさを知る。
それならば、障害者が同じく挑んでいる競技はどの様な難しさがあるのか、考えてみて欲しい。



報道は公正・平等を元に、もっと広く人々に知らせる義務がある筈だ。
24時間チャリティー番組で、この時とばかりに障害者を取り上げ企画する事に違和感を抱く人は多い筈だ。
それは、障害者を 『ネタ』 に、わざと感動や涙を誘う番組構成に辟易しているのではないだろうか。
敢えて 『ショウガイシャ』 と銘打つようなことは、心理的に共感することよりも、『触れ込み』にしか感じられないのは、誰もが無意識の内に 『差別』 と脳裏に感じ取っているからだ。

もっと普段から色々な番組の中で、障害者の生き様を紹介して行く必要がある。
障害者は、特別な人ではない。
身体的に不自由なだけであって、『人』 に変わりはない。
特に、肢体不自由者は車椅子を使用していても、上半身は何ら健常者と変わりなく、その車椅子を自力で漕ぐにあたっては、むしろ健常者(健常選手と比較するのではなく一般人と)よりも筋力が発達している。
その姿を見て欲しい。
そして、障害者の人たちにもそのひたむきに、ひたすら自己理想像に近づこうと努力している姿を見て欲しい。


断片的な 『頑張る姿』 だけを見ても、何も伝わらない。
どんな経緯があって、いまこの姿になれたのか、それを見ることで、知ることで、健常者、障害者双方に 『賢明に生きる』 とは何かを感じて欲しいと思えてならない。

『心が折れた』
『モチベーションが上がらない』
『どうせ自分なんか何も出来ない』

そんな愚痴を毎日吐いて生き辛さばかりを嘆くのなら、生きる価値など見つからない。


どうか、放映されないパラリンピックであっても、断片的に結果論だけを放映されても、それを見てでも、『あの人たちが、あれだけ頑張れるのだから自分にはもっと出来ることがある』 そう考えて欲しいと思う。



東日本大震災によって、いま日本には 『頑張る勇気』 が必要と誰もが言う。
『絆』 と誰もが口にするのなら、障害者とも手を繋ぐ方法を見出すべきだ。
口だけでなく、心底から勇気や感動、生きる意味を見出す必要が、ここにある。

パラリンピックの放映が、オリンピックと同じ様に放映される日が来ることを願うばかりだ。