これは、私がツイッター上で連続ツイートしたものをまとめた内容です。
そして、この文章の後に、短編的でない思うところを書きます。
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『親学推進』に関する意見:核家族化が進んで、どうやって子育てをしたら良いのか戸惑う親は沢山居る。しかし 『親』 というものに確固たる像は画一的に表現出来ない。
それは各々が育った環境や生い立ち、親から受けた価値観の影響が大いに関係しているからだ。正しい子育てなんて何処にも存在しない。
しかもこの親学推進協会が主催するセミナーには受講料として14680円(テキスト代込)が必要。更に親学アドバイザー認定などと民間資格を与える講座もある。
親学を学んでアドバイザーになって『私は親育てのプロです』と講義する、この構図どこか矛盾している。
それならば児童心理学や発達心理学、児童精神医学は必要ないのか?また青年心理学や行動心理学などあらゆる心理・精神科系の学問は学ばざるとも『親学』のみで子育てのプロになれることになってしまう。
破格の受講料を徴収し『アドバイザー資格』を対価として与え、戸惑う親たちに「~であるべき論」を唱え、その通りに成長しない親子が存在するような結果になったらどう説明するのだろうか?
世の中にもっと劣等感や失望、絶望感を抱える親子を増やすだけの結果になるのは火を見るより明らかだ。
「親学を勉強したのに、私には出来ない」そんな事を感じさせた責任を関係者はどう取るのか?
結局、本人の能力不足として責任転嫁するのがオチとしか考えられない。
背景としては政府や児童相談所関係者が 『虐待』 や 『こどもの自殺』 に対応しきれない現状をどうにか対応しようとしている焦りと努力をしている言い訳の舞台を作り上げたに過ぎないのではないかと感じられてならない。故に専門的な分野の講師が役員名簿に殆ど居ない。
それを大阪維新の会が条例に発達障害者にまで含めようとした事は浅はか以外の何者でもないと児童精神学会が要望書を提出したのも当然のことだ。
育児ノイローゼは、少なからず誰もが経験し通る道でもある。
また産褥期うつも多かれ少なかれ経験する。
しかし問題はそれが長く続き抜け出せない結果、親自身が精神的に追い詰められてしまうことにある。親が鬱状態で自傷行為をするかこどもを傷つけてしまうか。
そうなれば、もはや 『親学』 の領域では解決する手段はない。
そうなる前にアドバイザーが予め学ばせようと言うのがこの趣旨だ。
しかし金銭を支払い 「親になること」 を学ばなければ親の自覚を持てなかったりするのは、どうしても違うと思えてならない。
※文中の講座費用は、このつぶやいた時点での情報であり、現在掲載されている金額とは違います。
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その親学推進協会のホームページを一覧してみた。
http://www.oyagaku.org/#
そこに親学アドバイザーの活動というタブがあり、内容を読めば、
『親学アドバイザーとは、親学(親としての学び・親になるための学び)の基本と基礎的なコミュニケーション・スキルを修得し、親学勉強会の運営や、子育て・親育ちに関して適切なアドバイスができると親学推進協会が認定した方のことです。』(親学推進協会HPより引用)
と、書かれてある。
一体 『親育ち』 とは何だろうか。
そんな日本語はない。
人として、一般的な社会的立場や、いわゆる常識と云われるものや大人として、また上に立つ者としてのある程度確立された価値観を持っていなければ、親にはなれない。
既に、子を持った時点で、その年齢が何歳であろうと社会的立場は親権者であり、すべての保護監督責任者として生きなければならず、誰でも 『親』 にならなければならない。
それを、育っていないから 『親育ち』 などと、造語を作り上げるのならば、この世の中、大人が居ないと云う事になる。
では、親学推進協会に所属する人や親学アドバイザー認定資格を有する人だけが 『大人』 なのだろうか。
未熟な親になりきれない親を育てようとする意向は、理解できる。
しかし、それがたとえ傍から見て未熟であれ、世間の価値観からしたら非常識であったとしても、それはその個々の親となった人の自由な価値観であり、教育方針でもあるのだ。
また、誰が叫ばなくとも法が 『親権』 を定めているのであって、その法に反すれば罰せられる。
『親権』 とは、衣食住を与え、身の清潔を与え、健康管理に努め、自立を促すために生活の中からあらゆる事を教え、教育を受けさせ、社会の一員として生きる方法やルールを教え、守らせ、それらの事に従わせる義務があり、責任があることを云う。
そして、その親権は自らの個人的な利益のために乱用してはならない。
成人に達していない子が犯した罪は、法によって裁量され、親権者も同じく、適切な指導・監督を怠っていなかったかどうか判断され、問題があれば罰せられる。
時に、裁判でなくとも生活の中で、子が犯した罪は親の責任として、償う必要がある。
更に 『世界子どもの権利条約』 では、子が親から不当な扱いをされないように、子も一人の尊厳を持った人間として人権を保障する法律もある。
しかし、親権に関する法律を調べていくと、親は絶対的な国よりも大きな権力を持ち、そして併せて義務と責任が課せられている。
それに、子は絶対的に従わなければならない事がよく解る。
それは、親権者から子に対する親権を放棄する法律はあっても、子から親を放棄できる法律は、親がその子が 『生きる事=生命』 にとって、明らかな危険性や不利益があると立証された時以外には存在しない。
このように、詳細な法律を学ばなくとも、生活の中で人々は守らなければならないルールを身に付けている。
親学の目的は、こうした法律と一般常識論との間に立って、『親とは大体こうあるべき』 を言おうとしているのだろう。
しかし、それには何らかのヴィジョンとして模範像を示さなければならない。
ならば、その模範像はどう作り上げるのか?
それぞれが育った環境や生い立ち、土地柄や風習、先祖代々からの受け継がれてきた価値観は皆違う。
故に 『こうあるべき模範像』 は、誰にも作れない。
そして、生まれてくる子も皆十人十色育ち方が違う。
生まれてくる我が子が 「五体満足で母子共に健康で在りますように」 と願うのは何故だろう。
その中で、知的障害、発達障害、ダウン症、口唇口外裂、四肢欠損、先天性内臓障害と様々な状況で生まれてくる子どもたちが居る。
その親は、大変な絶望感を最初抱きはしても、「私が助けなければ他に誰が居る」 と自分を奮い立たせて必死で生かそうとする。
成長と共に増えだす問題は多く、時には疲れきってしまい 「もう嫌だ、うんざり」、「いつまで続くの?」 そう思ってしまう事もあるだろう。
それでも親は自分の良心に従い、また世話をする。
そう、親は子がどんな状態であっても皆同じ様に、また世話をするのだ。
その子が独り立ちするようになるまで。
親学推進論の中で、何故こと発達障害児の親だけに的を絞って、親の育て方の問題が招いていると轟々しているのだろう。
発達障害は、まだ何も解明出来ていないに等しい分野であり、大方の概要が示された指標に基づいて、今のところは児童精神科医も少なく、ごく少数の研究者たちによって対処療法が施されているに過ぎないのが現状だ。
皆、思い出してみると良い。
たった10年程前までは、 『子どもがうつ病になんてなる訳がない』 と、世間もどの医者も言っていた。
30年前には、 『子どもが頭痛になんてならない』 と、どの医者も偏頭痛を無視していた。
それが、今では大発見をしたかのように 『なる』 と言って、小児科も思春期外来もこどもの患者が殺到しているではないか。
それで?本当に真実の実態やメカニズムが解明されたのか?
答えは、NOだ。
小児科領域も精神に関わる問題においては、最も未開の領域であり、また他疾患に於いても未解明な問題が沢山ある。
性同一性障害は、DNAの突然変異によって引き起こされた発達障害である。
しかし性同一性障害は50年以上前に解明されてはいたが、これといった社会的問題が明るみに出ず、またその障害者自身や家族の適応の仕方に任されていた。
この時代になって、急激に問題視され、患者が増え、メンタルクリニック(精神科)の医師が対応し始めた。
しかし私はその診察を受ける子と医師に疑いを持つ。
ある子は、身体は女性で中身(精神)は男性だと悩み、学校も不登校ぎみで友達と馴染めない事を苦にしているという。
カウンセリングを受けていくうちに、友達と関わろうとある日、女の子たちを遊びに誘って、彼女はそこで聞いて欲しい話があると 『カミングアウト』 した。
一瞬、友達の女の子たちはビックリするが、「そういうことって関係ないよ。アタシたちは友達なんだから」 と言われ、告白した彼女は安心した。
その日から、明るさが徐々に出て笑顔が増えるようになり、学校にも行きだした。
しかし、メル友は全員女の子。
彼女の願いは、性転換手術を受けたいだった。
私はこの状況に立会い、疑問を抱いた。
本当の性同一性障害であるなら、本来、男友達を欲しがる筈だ。
男友達としか共有や共感できないものがあるにも関わらず、彼女の身の回りにはそう云った男性的嗜好の物がない。あると云えば、衣服か持ち物(例えばカバンなど)しか見当たらない。
彼女は、何らかの男性的嗜好傾向や願望を抱く問題点はあっても、同一性障害ではない。
その証拠が、生理用品を買いに行くのも、それに対処するのも違和感を感じていなかったからだ。
人には 『変身願望』 というものがある。
そして、男っぽい人、女っぽい人がいる。
性的嗜好も人それぞれに価値観が違い、同性愛者もいる。
しかし、そうした人たちの全員が同一性障害なのかというと、厳密には嗜好的なだけであって、障害者ではない。
このように、親の育て方だけで、こどもが変わるのではない。
子どもは、子どもの描く、自分の理想像や願望に率直に従っているだけなのだが、願望を遂げる為に障害を装ったり、それを受容してはならない。
その時、最も身近に生活し観察している親が、子どもの願望や欲望を見抜けずに、あやふやな記憶で誘導され、「そういえば、そうだったかもしれない」 などと思い込まされてはいけない。
そのためにも、専門医は、親子関係を客観的に観察し、真実の問題点を導き出す役割がある。
上記に書き上げた様々な発達障害をすべて 『親学』 で解決出来るものでもなく、また親の育て方一つで変えられるものではない。
最後にキーワード検索のトップにあったHPを紹介しよう。
名古屋市教育委員会事務局 生涯学習部 生涯学習課
http://www.manabu.city.nagoya.jp/about.html
この中にある、親度チェックを試してみると良い。
具体的な回答は出されず、すべて人それぞれの価値観だとしか答えは出てこない。
それならば、何のためにチェックするのかと感じ、『親度』 という尺度はどこにあるのか、まったく無意味としか考えられない。
こんな曖昧な定義しか立てられずに、『親育て』 とは、随分乱暴で、報酬まで受け取る一般財団法人を有識者と言われる人が得る、そのメリットとは一体何だろう。
胡散臭い民間資格認定講座は、山とある。
この法人が受け取った報酬は、単純計算上で、
H22年度650人が認定資格を取得したという掲載だから、全6講座で25,000円(税込、認定審査料5,000円を含む。別途テキスト代)×650=16,250,000円となる。
これを高いと思うか、安いと思うかは個人の価値観だが、25,000円を払いその他諸経費、時間を費やさなければ 『親』 になれないのならば、この国の義務教育の在り方に問題があると言わざるを得ない。
親の適性検査をされる時代がやって来た。
それは法と親権者に対する冒涜であり、母性や父性と云った本能から生まれる愛情を否定し、愛着形成の本能をもコントロールしようとする行為だ。
2012年6月12日火曜日
2012年6月7日木曜日
生活保護をめぐる問題について
自分のTwitterで思うところを呟いたものを下記リンクにまとめました。
【生活保護問題 - 河本氏に関する意見】まとめ@tgetter
数年前から生活保護に関しては、役所による受給申請拒否や路上生活者支援に始まり、今日では不正受給者問題も浮上し、国会で保護費削減が検討されるなど様々な局面が問題になっている。
人気芸人 河本準一氏の母親が保護受給者であったことから、河本氏の援助に関する問題が不正受給問題へと今、テレビやネットで大きく取り上げられている。
しかし、それ以前から私が問題視してきた事がある。
路上生活者が急増し、ネットカフェ難民という言葉も出るほど、生活保護受給に関わる問題は様々だ。
元々、法律上で家族・親族は相互扶助が義務づけられている。
相互扶助とは、生命保険、国民健康保険等の仕組みでもあるように、自分が困った時の備えに保険料を払い、それを困っている人に分配し、互いに助け合うというものだ。
家族・親族に於いては、互いに助けられるものをそれぞれが出し合い、生活をしなければいけない。
それは、金銭的なものだけでなく、たとえば家事を手伝う、知恵を出し合ってお互いを助ける、また健康状態が悪ければ、健康な者が病院に連れて行くことや、犯罪被害に遭遇した場合に相談し合うようなことも含まれている。
要するに、金銭、物資だけでなく生きることに必要な問題を互いに助け合いなさいという事だ。
故に、親子関係者だけでなく、兄弟、姉妹、祖父母も同居、別居に関わらず、親族はみな助け合って生きなければいけない。
しかし、孤立無援社会や核家族化が進む中で、同居家族もまた自分一人が生きるのに精一杯と云った実情は溢れるばかりなのが現実ではないだろうか。
そうした背景に、路上生活者が世の中に増える原因がある。
自分の家族が、いま、どこで、どうやって、生きているのか、死んでいるのかすら知ろうとも、知らせようともしない、また出来ない社会状況がある。
本来、家族がある日突然、音信不通になったら 『心配』 をするのが当たり前だろう。
しかし、今はうっかり心配をして捜索願を出そうものなら、多重債務から逃れるために社会から消えた振りをしていたのに、警察によって発見され、悪徳な取立て者に追われてしまうような問題があったりして、家族全員の生存権すら危うくなりかねないといったケースも少なくはない。
また、単身赴任で勤めていた会社からある日突然解雇され、離れて暮らす家族に言うに言えない問題から路上生活に至った人も沢山居る。
そして、家族と協調できず、自ら孤立を選んだり、家族から見放されたりした人も多く、職を転々とし、失った人も居る。
そうした人々があまりに多く、公園や高架下などの公共の場を生活拠点にし、自治体から追放され、行き場を失う問題が起こり、援助団体が立ち上がった。
しかし、その援助団体の中にも悪質な団体があり、居住地を提供する変わりに、生活保護費を全額徴収・管理し、こづかい程度の現金しか渡さず、劣悪な環境に体裁よく軟禁しているような状況もある。
生活保護は、まず、申請時に失業または疾病などによって働けない実態が示めされることが前提条件であり、その申請しようとする管轄区域に住民登録がされていなければならない。
住む家がなければ、申請すら出来ず、その住まいの家賃なども細かく条件化されている。
生活保護法の具体的内容は、その職に就いている人でなければ公開されず、暗黙の処理が多数存在している。
そこに詳しい人が支援団体を立ち上げ、真面目に助けようと支援活動を行っている。
生活保護ビジネスという言葉がある現在、それは分野が多方面に拡がっている。
行き倒れる前に助けようという支援団体
受給できる裏技と銘打つ書籍著作者
援護しようとする弁護士
受給者が得た、金銭、処方薬から利益を上げる裏社会
受給者を自立させる糸口のための社会活動の舞台を提供する会社
ワークグループ
挙げればキリがない程、この世には生活保護者に関わるビジネスが、表裏一体で存在する。
本当に自力で生きられないほどの理由に直面し、生活に困窮している人は何%いるのだろう。
それを援助出来ないという、生活保護を受給している人たちの家族・親族は何%いるのだろう。
これらを事実明白に世間に公表しようとか、統計を採ろうというのは不可能だ。
むしろ、それらの問題に群がるかのような社会の実態を調査し、円グラフに表面化する方が、まだ簡単なのではないだろうか?
社会福祉事務所のケースワーカーが、浮上する問題点を箇条書きでまとめ、生活の実態調査を現に受給している生活保護者からアンケートで回答して貰えば、ある程度の実態の統計が具体的に調査できる。
何故、国や各自治体はそれらの統計を具体的に計ろうとしないのだろう。
そして、メディアを通じて、国民に公表しようと試みないのだろうか。
ある市長や一部の国会議員の意見を、何秒間かのインタヴュー映像で公開したり、ネット上で公開しても何も真実は見えてこない。
聞こえ、見えるのは、断片的な一部分でしかない事に翻弄され振り回されてはいけない。
人それぞれに、生活観や価値観、家族問題を何かしら抱えているのだ。
最後に扶養義務に対して、ある成人女性に問題点を的を絞って、一つ問題定義したい。
彼女は幼く物心も着かない頃に両親は離婚し、父親に引き取られた。
父親は、毎日パチンコや競馬などギャンブルに興じ、アルコール依存症のため朝から晩まで酒を飲んでいた。
父親はアルコール依存を治療するために精神科に通院しながらも、時々お呼びのかかる日雇いの仕事をしていたが、生活費のほとんどを酒代とギャンブルに使ってしまい、娘の学校費や給食費は滞納していた。
彼女が小学校に上がった頃から、父親から性的暴力の被害に度々遭う様になった。
彼女は、酒を飲んで、気に入らない事を言えば暴力を振るわれ、性的暴行を誰かに話せば殺すと脅されて育ったため、誰にも相談できず、18歳まで過ごした。
高校卒業と同時に、父親には内緒で寮付きの会社へ就職し、家を出た。
それ以来、父親とは音信不通となり、疎遠関係になった。
職場で知り合った人と結婚をし、一児の母親にもなった彼女の所へ、見知らぬ住所の福祉事務所から戸籍を辿り、父親が生活保護を受けるようになったので援助を求める通知書が届いた。
さて、このようなケースの場合、あなたならどうしますか?
父親は、ネグレクト、身体的虐待、性的虐待、精神的虐待を与え、親権者としての義務を果たして来ていません。
父親の兄弟は、元々疎遠だった上に勘当され出て行った人間の面倒を見る気はないし、本人も関わりあいたくないと拒否している状態です。
そのような経緯があって、一親等である娘さんに扶養義務として連絡が来ました。
このような立場の人であっても、絶対的に扶養義務を断固として、『義務がある』 と強要しますか?
考えてみて下さい。
※注意:これは一つの実態に基づく仮説として、例を挙げたものですので、個人を特定するものではありません。また、私個人の体験によるものでもありませんので、誤解しないで下さい。
【生活保護問題 - 河本氏に関する意見】まとめ@tgetter
数年前から生活保護に関しては、役所による受給申請拒否や路上生活者支援に始まり、今日では不正受給者問題も浮上し、国会で保護費削減が検討されるなど様々な局面が問題になっている。
人気芸人 河本準一氏の母親が保護受給者であったことから、河本氏の援助に関する問題が不正受給問題へと今、テレビやネットで大きく取り上げられている。
しかし、それ以前から私が問題視してきた事がある。
路上生活者が急増し、ネットカフェ難民という言葉も出るほど、生活保護受給に関わる問題は様々だ。
元々、法律上で家族・親族は相互扶助が義務づけられている。
相互扶助とは、生命保険、国民健康保険等の仕組みでもあるように、自分が困った時の備えに保険料を払い、それを困っている人に分配し、互いに助け合うというものだ。
家族・親族に於いては、互いに助けられるものをそれぞれが出し合い、生活をしなければいけない。
それは、金銭的なものだけでなく、たとえば家事を手伝う、知恵を出し合ってお互いを助ける、また健康状態が悪ければ、健康な者が病院に連れて行くことや、犯罪被害に遭遇した場合に相談し合うようなことも含まれている。
要するに、金銭、物資だけでなく生きることに必要な問題を互いに助け合いなさいという事だ。
故に、親子関係者だけでなく、兄弟、姉妹、祖父母も同居、別居に関わらず、親族はみな助け合って生きなければいけない。
しかし、孤立無援社会や核家族化が進む中で、同居家族もまた自分一人が生きるのに精一杯と云った実情は溢れるばかりなのが現実ではないだろうか。
そうした背景に、路上生活者が世の中に増える原因がある。
自分の家族が、いま、どこで、どうやって、生きているのか、死んでいるのかすら知ろうとも、知らせようともしない、また出来ない社会状況がある。
本来、家族がある日突然、音信不通になったら 『心配』 をするのが当たり前だろう。
しかし、今はうっかり心配をして捜索願を出そうものなら、多重債務から逃れるために社会から消えた振りをしていたのに、警察によって発見され、悪徳な取立て者に追われてしまうような問題があったりして、家族全員の生存権すら危うくなりかねないといったケースも少なくはない。
また、単身赴任で勤めていた会社からある日突然解雇され、離れて暮らす家族に言うに言えない問題から路上生活に至った人も沢山居る。
そして、家族と協調できず、自ら孤立を選んだり、家族から見放されたりした人も多く、職を転々とし、失った人も居る。
そうした人々があまりに多く、公園や高架下などの公共の場を生活拠点にし、自治体から追放され、行き場を失う問題が起こり、援助団体が立ち上がった。
しかし、その援助団体の中にも悪質な団体があり、居住地を提供する変わりに、生活保護費を全額徴収・管理し、こづかい程度の現金しか渡さず、劣悪な環境に体裁よく軟禁しているような状況もある。
生活保護は、まず、申請時に失業または疾病などによって働けない実態が示めされることが前提条件であり、その申請しようとする管轄区域に住民登録がされていなければならない。
住む家がなければ、申請すら出来ず、その住まいの家賃なども細かく条件化されている。
生活保護法の具体的内容は、その職に就いている人でなければ公開されず、暗黙の処理が多数存在している。
そこに詳しい人が支援団体を立ち上げ、真面目に助けようと支援活動を行っている。
生活保護ビジネスという言葉がある現在、それは分野が多方面に拡がっている。
行き倒れる前に助けようという支援団体
受給できる裏技と銘打つ書籍著作者
援護しようとする弁護士
受給者が得た、金銭、処方薬から利益を上げる裏社会
受給者を自立させる糸口のための社会活動の舞台を提供する会社
ワークグループ
挙げればキリがない程、この世には生活保護者に関わるビジネスが、表裏一体で存在する。
本当に自力で生きられないほどの理由に直面し、生活に困窮している人は何%いるのだろう。
それを援助出来ないという、生活保護を受給している人たちの家族・親族は何%いるのだろう。
これらを事実明白に世間に公表しようとか、統計を採ろうというのは不可能だ。
むしろ、それらの問題に群がるかのような社会の実態を調査し、円グラフに表面化する方が、まだ簡単なのではないだろうか?
社会福祉事務所のケースワーカーが、浮上する問題点を箇条書きでまとめ、生活の実態調査を現に受給している生活保護者からアンケートで回答して貰えば、ある程度の実態の統計が具体的に調査できる。
何故、国や各自治体はそれらの統計を具体的に計ろうとしないのだろう。
そして、メディアを通じて、国民に公表しようと試みないのだろうか。
ある市長や一部の国会議員の意見を、何秒間かのインタヴュー映像で公開したり、ネット上で公開しても何も真実は見えてこない。
聞こえ、見えるのは、断片的な一部分でしかない事に翻弄され振り回されてはいけない。
人それぞれに、生活観や価値観、家族問題を何かしら抱えているのだ。
最後に扶養義務に対して、ある成人女性に問題点を的を絞って、一つ問題定義したい。
彼女は幼く物心も着かない頃に両親は離婚し、父親に引き取られた。
父親は、毎日パチンコや競馬などギャンブルに興じ、アルコール依存症のため朝から晩まで酒を飲んでいた。
父親はアルコール依存を治療するために精神科に通院しながらも、時々お呼びのかかる日雇いの仕事をしていたが、生活費のほとんどを酒代とギャンブルに使ってしまい、娘の学校費や給食費は滞納していた。
彼女が小学校に上がった頃から、父親から性的暴力の被害に度々遭う様になった。
彼女は、酒を飲んで、気に入らない事を言えば暴力を振るわれ、性的暴行を誰かに話せば殺すと脅されて育ったため、誰にも相談できず、18歳まで過ごした。
高校卒業と同時に、父親には内緒で寮付きの会社へ就職し、家を出た。
それ以来、父親とは音信不通となり、疎遠関係になった。
職場で知り合った人と結婚をし、一児の母親にもなった彼女の所へ、見知らぬ住所の福祉事務所から戸籍を辿り、父親が生活保護を受けるようになったので援助を求める通知書が届いた。
さて、このようなケースの場合、あなたならどうしますか?
父親は、ネグレクト、身体的虐待、性的虐待、精神的虐待を与え、親権者としての義務を果たして来ていません。
父親の兄弟は、元々疎遠だった上に勘当され出て行った人間の面倒を見る気はないし、本人も関わりあいたくないと拒否している状態です。
そのような経緯があって、一親等である娘さんに扶養義務として連絡が来ました。
このような立場の人であっても、絶対的に扶養義務を断固として、『義務がある』 と強要しますか?
考えてみて下さい。
※注意:これは一つの実態に基づく仮説として、例を挙げたものですので、個人を特定するものではありません。また、私個人の体験によるものでもありませんので、誤解しないで下さい。
地域医療と医療現場
本日2012年6月7日付けのWeb さいたま新聞の記事
全小児科医が退職の意向 さいたま赤十字病院
http://www.saitama-np.co.jp/news06/07/10.html?utm_medium=twitter&utm_source=twitterfeed
この記事によれば、ハイリクス妊婦の受け入れや高度先進医療が必要な小児が問題となっており、常勤医師が全員退職した内容が書かれているが、その詳細は明かされていない。
しかし、ハイリスク妊婦や生まれてきた乳児を対応する小児科医不足の問題は後を絶たない。
その上、全国的に 『医師不足』 は問題となっている。
果たして、本当に医師はそんなに居ないのだろうか?
国民総人口あたりに対し、一体何人の医師で医療を支えているのだろうか?
私の住む地域は大都市圏であるが、焼く10年以上前に市立市民病院が7箇所あったうち、5箇所が医師不足、経営赤字などを理由に閉鎖された。
残る2箇所でも、同じく医師不足や看護師不足、経営上の問題から、診療科目や入院病棟が一部閉鎖されている。
昔この市民病院は、高度医療の窓口として、町のかかりつけ医と大学病院や専門医とのパイプ役を担っていた。
構図としては、
保健所 → 近所の開業医 → 市民病院 → 大学病院・専門医
と、段階を経て、患者に適切な病院を見つける事が出来ていた。
ところが、この構図は患者の医療負担や検査料、検査による心身的な負担が多いという事やこれがドクター・ショッピングに繋がる弊害になりやすい事が指摘された。
市民病院閉鎖の背景には、開業医から直接(連携医療機関として)大学病院へ紹介されるシステムが構築された事と、看護師の希望勤務病院が勤務条件や給与面で率のより高い私立病院へ就職してしまうところにある。
医師不足とは言うものの、私が命名した 『ホスピタル・ストリート』 という地域が数多く存在する。
そこは、新たな土地開発によって出来た新興住宅街に多く、一般内科、歯科、耳鼻科、眼科、皮膚科、整形外科、そして院外薬局が隣接し、メインストリートの両端に点在している。
この科目は、ほとんどが医学部・薬学部で専攻し多額の大学費用を費やす分野であり、その開業医の経歴の多くが少数の大きな病院での研修期間を修了した後に、現在に至ると云った具合だ。
恐らく、入学した大学病院で教授(医局)での勤務体制や人間関係に労を費やすより、法定で定められた修了期間をクリアし、財力のある人が開業した方が早く、学費の回収に繋がるという理由が見受けられる。
そして、医者はボランティアではなく、病院経営の経営者であり、事業主でもあり、これは立派なビジネスとして成り立っている。
故に、医薬分業となった現在では、大抵開業医の隣に処方箋薬局が隣接しており、医師と薬剤師と製薬会社は連携してビジネスを展開し、その頂点に立つのが院長先生なのだ。
高齢者と小児科児童(0歳~15歳まで)は、病気に罹りやすく、風邪が流行れば抵抗力の少ない年齢層でもあり、患者(お客様)は必ずやってくる。
併せて、予防注射の摂取対象年齢層でもある。
そこから、資力と着眼点の鋭い院長先生は、高齢者介護ビジネスを一つ、また一つと展開し、周辺に開業されている他科開業医に紹介をし、紹介料と診療報酬を得るという需要と供給を展開するのだ。
こうなると、公立の市民病院の存在意義や医師の人気は激減するのも当然だ。
上記の 『ホスピタル・ストリート』 に唯一存在しないのが産科・婦人科であり、開業されている産科・婦人科も今ではハイリスク妊婦の受け入れを公然と断っている。
母子共に健康で生まれてくるのが当たり前ではない時代を物語っている。
原因は一部に、医療機器が高性能になった事によって、胎児検診の時点で高率に問題を発見し易くなった事にある。
早い段階で異常が発見できることは、その後の経過や生んでからの対応の仕方に対して心構えを整えられる利点の方が優位であるにも関わらず、それが故に医師は 『万が一の事態』 命に関わる事に恐れをなしてしまう。
医療事故は、故意に起こす問題も明るみに出ない問題点も確かにあるが、誰もがわざと起こしているのではなく、ほとんどが過失によるものである。
しかし、患者感情としては、故意であれ過失であれ、そんな事よりも一生背負う事に問題がある。
医師は神様ではない。
けれども医師には倫理と照らし合わせ、真摯に対応しなければならず、いかなる間違いも許されないのは、『命』 の裁量を預かる存在である。
産科医の立場になれば、まだ未開の医学である現状で、敢えてハイリスクは負いたくない。
ハイリスクを抱えた患者の立場になれば、それが未開であったとしても藁をもすがらねば、生きてゆけない現状。
その両者の橋渡しをしていくのが、医療コーディネーターの役割であろう。
しかし残念な事に、その医療コーディネーターは病院に雇われた、病院側の人員であって公正中立な立場とは表向きの綺麗事なのが実態である。
両者の事実を知りつつも、病院側に不利益となるような事は患者に伝えられない。
もし、伝えなければならない事態に遭遇した場合は、医師の判断によって医師自身から患者へ伝えることが原則だ。
見えてくる地域医療と医療現場の問題点が、お金であることが分かる。
残念ながら、命=財力であることは紛れもない事実なのだろう。
公立病院が倒産する背景には、私立大学病院の事業拡大、有能で有益な医師の獲得もある。
儲けるため、食べていくため、地位を築くため、それぞれの思惑の中にある医師たち。
果たして、置き去りにされる患者たちは、誠実に、純粋に、命を助けようと思っている医師にどうすれば辿り着き、巡り会えるのだろうか。
すべては、倫理観と価値観に懸かっている。
全小児科医が退職の意向 さいたま赤十字病院
http://www.saitama-np.co.jp/news06/07/10.html?utm_medium=twitter&utm_source=twitterfeed
この記事によれば、ハイリクス妊婦の受け入れや高度先進医療が必要な小児が問題となっており、常勤医師が全員退職した内容が書かれているが、その詳細は明かされていない。
しかし、ハイリスク妊婦や生まれてきた乳児を対応する小児科医不足の問題は後を絶たない。
その上、全国的に 『医師不足』 は問題となっている。
果たして、本当に医師はそんなに居ないのだろうか?
国民総人口あたりに対し、一体何人の医師で医療を支えているのだろうか?
私の住む地域は大都市圏であるが、焼く10年以上前に市立市民病院が7箇所あったうち、5箇所が医師不足、経営赤字などを理由に閉鎖された。
残る2箇所でも、同じく医師不足や看護師不足、経営上の問題から、診療科目や入院病棟が一部閉鎖されている。
昔この市民病院は、高度医療の窓口として、町のかかりつけ医と大学病院や専門医とのパイプ役を担っていた。
構図としては、
保健所 → 近所の開業医 → 市民病院 → 大学病院・専門医
と、段階を経て、患者に適切な病院を見つける事が出来ていた。
ところが、この構図は患者の医療負担や検査料、検査による心身的な負担が多いという事やこれがドクター・ショッピングに繋がる弊害になりやすい事が指摘された。
市民病院閉鎖の背景には、開業医から直接(連携医療機関として)大学病院へ紹介されるシステムが構築された事と、看護師の希望勤務病院が勤務条件や給与面で率のより高い私立病院へ就職してしまうところにある。
医師不足とは言うものの、私が命名した 『ホスピタル・ストリート』 という地域が数多く存在する。
そこは、新たな土地開発によって出来た新興住宅街に多く、一般内科、歯科、耳鼻科、眼科、皮膚科、整形外科、そして院外薬局が隣接し、メインストリートの両端に点在している。
この科目は、ほとんどが医学部・薬学部で専攻し多額の大学費用を費やす分野であり、その開業医の経歴の多くが少数の大きな病院での研修期間を修了した後に、現在に至ると云った具合だ。
恐らく、入学した大学病院で教授(医局)での勤務体制や人間関係に労を費やすより、法定で定められた修了期間をクリアし、財力のある人が開業した方が早く、学費の回収に繋がるという理由が見受けられる。
そして、医者はボランティアではなく、病院経営の経営者であり、事業主でもあり、これは立派なビジネスとして成り立っている。
故に、医薬分業となった現在では、大抵開業医の隣に処方箋薬局が隣接しており、医師と薬剤師と製薬会社は連携してビジネスを展開し、その頂点に立つのが院長先生なのだ。
高齢者と小児科児童(0歳~15歳まで)は、病気に罹りやすく、風邪が流行れば抵抗力の少ない年齢層でもあり、患者(お客様)は必ずやってくる。
併せて、予防注射の摂取対象年齢層でもある。
そこから、資力と着眼点の鋭い院長先生は、高齢者介護ビジネスを一つ、また一つと展開し、周辺に開業されている他科開業医に紹介をし、紹介料と診療報酬を得るという需要と供給を展開するのだ。
こうなると、公立の市民病院の存在意義や医師の人気は激減するのも当然だ。
上記の 『ホスピタル・ストリート』 に唯一存在しないのが産科・婦人科であり、開業されている産科・婦人科も今ではハイリスク妊婦の受け入れを公然と断っている。
母子共に健康で生まれてくるのが当たり前ではない時代を物語っている。
原因は一部に、医療機器が高性能になった事によって、胎児検診の時点で高率に問題を発見し易くなった事にある。
早い段階で異常が発見できることは、その後の経過や生んでからの対応の仕方に対して心構えを整えられる利点の方が優位であるにも関わらず、それが故に医師は 『万が一の事態』 命に関わる事に恐れをなしてしまう。
医療事故は、故意に起こす問題も明るみに出ない問題点も確かにあるが、誰もがわざと起こしているのではなく、ほとんどが過失によるものである。
しかし、患者感情としては、故意であれ過失であれ、そんな事よりも一生背負う事に問題がある。
医師は神様ではない。
けれども医師には倫理と照らし合わせ、真摯に対応しなければならず、いかなる間違いも許されないのは、『命』 の裁量を預かる存在である。
産科医の立場になれば、まだ未開の医学である現状で、敢えてハイリスクは負いたくない。
ハイリスクを抱えた患者の立場になれば、それが未開であったとしても藁をもすがらねば、生きてゆけない現状。
その両者の橋渡しをしていくのが、医療コーディネーターの役割であろう。
しかし残念な事に、その医療コーディネーターは病院に雇われた、病院側の人員であって公正中立な立場とは表向きの綺麗事なのが実態である。
両者の事実を知りつつも、病院側に不利益となるような事は患者に伝えられない。
もし、伝えなければならない事態に遭遇した場合は、医師の判断によって医師自身から患者へ伝えることが原則だ。
見えてくる地域医療と医療現場の問題点が、お金であることが分かる。
残念ながら、命=財力であることは紛れもない事実なのだろう。
公立病院が倒産する背景には、私立大学病院の事業拡大、有能で有益な医師の獲得もある。
儲けるため、食べていくため、地位を築くため、それぞれの思惑の中にある医師たち。
果たして、置き去りにされる患者たちは、誠実に、純粋に、命を助けようと思っている医師にどうすれば辿り着き、巡り会えるのだろうか。
すべては、倫理観と価値観に懸かっている。
2012年5月27日日曜日
NHK 未解決事件オウム真理教を観て
私は去年、東北大震災について、
20011年5月3日
不謹慎と自粛解除の政府発表が与えた悪影響 という記事を書いた。
そこにちょうど、オウム真理教ー地下鉄サリン事件に於ける、山梨県上九一色村の一件を取り上げている。
今日放送されたNHKドキュメンタリー番組 『未解決事件~オウム真理教』 を観て、現在の上九一色村を初めて見た。
1995年は、年明け17日に阪神・淡路大震災が起こり、愛知県小牧空港にて大韓航空機墜落事故、そして地下鉄サリン事件が起こるような日本中があらゆる事件や事故の大惨事に見舞われた年だった。
記憶が曖昧なのだが、サカキバラセイトという少年犯罪に翻弄されたこともあった。
何重にも未曾有、前代未聞の出来事が重なったこともあり、忘れられない年でもある。
今日の放送を観ていて感じたのは、構成や時間の関係、制約上の問題があってなのか、
教団の年表をただ見ているような気がした。
サリン製造から、松本サリン事件、そして地下鉄サリン事件に至るまで、どれだけの日数が経過し、
警察が強制捜査に踏み切るまで何ヶ月掛かっていたのか、その間、あらゆるマスコミやテレビにどれだけ教団関係者が出演し、テレビ局全体で報道していたのか、それらが放送されなかった。
その時代に、偶像化、虚像化され、連日のようにテレビで報道されたり、出演して自らを正当化する発言をどれだけ取り上げて来たのかを実際に観ていた私は、いまでも鮮明に覚えている。
あれから17年経って、今の若者の知らない、信じられない出来事が実際にあった事。
それをマスコミが追い掛け回して、ワイドショー化していた現実。
第二部を明日、放送するようだが、警察VS教団と予告していた。
700本を越える生録音テープの内容を、公開しても、『年表まがい』 の構成では、一体何がどういった経過を経て、大事件にまでなったのか概要しか解らないような内容だったことを考えると、明日の放送もその程度の 『真実』 しか放送されないように思った。
地下鉄から運び出される人々、誘導する駅員の人々、その映像に残された人たちは命を失った。
遺族の事を考慮して、解説もテロップもなかったのは理解出来なくはないが、当時の被害者リストの報道を覚えている私は、「いま写っているこの人たち、みんな死んだんだよ」そう、独り言をつぶやいた。
『いま明かされる真実』 と銘打つならば、当時の報道内容も織り交ぜなければ、私たちが見せられ、知らされてきた事が、それらを知らない人々にとっては理解出来ない。
ある側近幹部が、とても聡明で弁の立つ利口な人で、教団が叩かれ出した時にスポークスマンとして、多くのメディアに対応した。
それまで、国内ではあまり耳慣れない言葉を巧みに使って、国民は意味を知る事になった言葉。
『ディベート』
『マインド・コントロール』
群集心理とは怖いもので、メディアへの露出が多くなればなる程、悪人が英雄に見えてきてしまう錯覚が起きた。
彼の容姿、話し方、パフォーマンス、すべてが個人的な錯覚によって、偶像と虚像を招き、一時期、ファンクラブまで発足し、彼と結婚したい、彼のこどもを産みたい、そう言って若い女性が、事件とは無関係に恋をし、入信者まで現れた。
その後、地下鉄サリン事件が起きたのだ。
この手の錯覚は、いつの時代にも起こっており、アメリカでの大量・怪奇殺人事件では、有名なところでマンソン事件などあり、1994年映画 『ナチュラル・ボーン・キラーズ』 の中でも取り上げられた。
一種の錯覚には間違いなく、誰もやったことのない大事件では誰もが最初は恐怖を抱く。
しかし、テレビで他人事のように連日放映され、また本人が露出すればするほどに、人々の意識は好奇心へと変わり、やがて間違った憧れを抱く。
これを、集団心理の合理化、同調心理という。
今回の震災の津波映像や福島原発事故の映像も、当時連日のように放映され、ある種の刷り込みがあった。
それから一年が過ぎ、「復興、支援」ばかり聞こえるが、瓦礫の受け入れ反対で逮捕者が出たり、原発反対デモで押し問答の放映がされている。
人々が、「それは嫌だ」と主張している事が、まるで事件を起こしている人のように騒ぎ立てるメディアは、正しいのだろうか。
逆に、強引なまでに原発推進を進めようとしている人々が穏やかそうな表情で会見に応じているように見せるメディアは、間違っていないのだろうか。
放送の中で、元信者が言っていた言葉が、とても印象的で真実のように思えた。
「何が正しくて、何が間違っているのか、何もわからない」
「自分たちは、本当はどうしたかったのだろう」
「本当は何を探していたんだろう」
こんな問いは、安保理闘争の学生運動の時代から、ずっと未だに変わらず誰もが抱いていることだ。
時代と共に、事件は強烈で凶悪化しているように言われるが、実は何も変わってはいない。
ただ言えることは、年々映画の題材がノンフィクションを元に作られ、映像や音響効果が過激になっている。
それらが、人々の麻痺した刺激を求める麻薬になり、事件を模倣する題材として無意識になっているということだ。
教団の印象は、マンソンファミリーやナチス独裁に何故かどことなく似ている。
教祖の姿は、独裁者そのものに見えた。
是非はさて置き、フセイン大統領、カダフィ大佐等の独裁者と言われるその誰もが最後捕まる前に、洞穴や狭い隠れ部屋で金を片手に隠れていた。
そっくりだ。
『教祖が本当は何をしたかったのか、理解出来ない』 と精神科医や分析官らが番組の中で言っていたが、それは真実ではない。
番組中、何度も信者が証言していた。
『サリン製造量は約70億人分を最初から計画、想定していた』
それで、はっきり目的が理解出来るではないか。
この地球上に居る人口数ではないか。
教祖の最終目的が、世界征服だったことは明らかだ。
マンガやアニメにも出てくる簡単な理由であり、英雄になり、独裁者の誰もが思い描いた世界だ。
今でも忘れられない光景は、上九一色村の村長が最後まで行政に、
『あそこの施設はおかしい、絶対に何か悪い事が起きているから調べてくれ!』
そう訴え、村人たちと一丸となって、
『オウム出て行け!』 と自分たちの力で戦っていた姿だ。
一つの村を死に追いやり、野次馬見物した人々。
罪の重さだけでなく、私たちの誰もが、悪人の一人でもある、それを忘れてはいけない。
そう思えてならなかった。
2012年5月23日水曜日
憂い
何も出来ないのなら、何もしなければ良い。
何か出来るのなら、やれば良い。
出来ない事を嘆くより
やれる事が当たり前だと思えば、それだけで十分。
所詮、人に出来る事など
すべて当たり前のことくらいしかないのだから。
何も特別でなく、威張るものもない。
偉業だと語るのは、他者にとって不可能であったから評価された結果なのであり、
当人にしてみれば当然であり、可能だった結果に過ぎない。
たった それだけのことだ。
何か出来るのなら、やれば良い。
出来ない事を嘆くより
やれる事が当たり前だと思えば、それだけで十分。
所詮、人に出来る事など
すべて当たり前のことくらいしかないのだから。
何も特別でなく、威張るものもない。
偉業だと語るのは、他者にとって不可能であったから評価された結果なのであり、
当人にしてみれば当然であり、可能だった結果に過ぎない。
たった それだけのことだ。
2012年1月28日土曜日
診療履歴
私は10年ほど前から思っていた。
年を経る毎に病気が増え、初診時の問診表に既往歴を書くのに一苦労する。
最近では診療科目の細分化やかかりつけ医、専門医とあちこちの診察券がまるでトランプのように増える一方だ。
しかも違う診療科で予診を受ける度に、同じ事を説明しなければいけない。
電子カルテの導入によって、一つの病院内で自分の病歴や通院歴を医者に見てもらえるのは良いが、お陰で医者は患者の顔よりもパソコンの画面ばかり見て、キーボード操作ばかりしている。
面倒なのは、病院が違うと何も共有していないため結局は手書きの問診表と説明。
診察券にICチップを入れて、一度打ち込んだ記録を国内どこの病院にかかってもみられるようにすれば、既往歴が一目瞭然で分かるようにすれば時間も患者の負担も医者の理解も節約できる。
問題はインフラ作りだが、全医療機関共通のドクターソフトを開発すれば良いだけだ。
今やクラウドの時代なのだから、病歴の一括管理が出来ない訳がない。
多分、個人情報を悪用してそのサーバーにアクセスされたら、医者の守秘義務が保てず、病院を語った詐欺が横行する危険があるから、踏み出せないのだろう。
しかし、小さい頃からの病歴が分かればそれこそ『総合診療』として、その人の経緯が探れるのではないだろうか。
中年も超えてくると、一桁の時に何があったのか覚えていなかったり、知らなかったり、年表を作るのも難しくなってくる。
大体、人間なんて40を超えて来たら何かしらの病気になって当たり前。
それが運よく老年期になるまで、これといった大病を患わなかったとしても、それから思い出すのも記憶力だけが頼りになってしまう。
その年になれば親も生きていたとしても記憶は曖昧だろうし、もしかすれば他界している可能性もある。
私のように子供の頃から、度々病気ばかりして未だに病気が増えて行くと、もうお手上げになる。
そう思いながらずっと来たが、今日テレビのコマーシャルで富士通がその診察券を開発してフィンランドで使用されているのを知った。
日本は遅れている!とつくづく思った。
「だから言ってたでしょ、診察券一枚と保険証一枚持って行けば良いようになればいいのに!何で誰も思いつかないの?って」
次は今まで溜まった診察券にバーコードを読み込むなり、そのIDを打ち込むなりすれば自分だけの医療専用カードが作れるようになる機械を作ることだ。
作成時にパスワードを患者が設定できるようにして、銀行やコンビニのカウンターと同じように使う時に患者がキー操作を医者の前でする仕組みにすればいい。
あくまで医療機関ではブラウジングするだけで、カルテに書き込んだ後は上書きの際に患者が同意のエンターを押すだけ。
患者はいつでもカルテを自分で見れるようになればいいのかもしれないが、情報操作を勝手に出来ないようにするにはカルテの書き込みをした医療機関のコード番号とパスワードがなければ見られないようにすればいいのではないだろうか。
細かいセキュリティーの構築は分からないが、必ず出来るはずだ。
何せ、住民登録番号を国が勝手に作って、日本全国共通で分かるようにしたのだから。
人間番号を作れたのだから。
年を経る毎に病気が増え、初診時の問診表に既往歴を書くのに一苦労する。
最近では診療科目の細分化やかかりつけ医、専門医とあちこちの診察券がまるでトランプのように増える一方だ。
しかも違う診療科で予診を受ける度に、同じ事を説明しなければいけない。
電子カルテの導入によって、一つの病院内で自分の病歴や通院歴を医者に見てもらえるのは良いが、お陰で医者は患者の顔よりもパソコンの画面ばかり見て、キーボード操作ばかりしている。
面倒なのは、病院が違うと何も共有していないため結局は手書きの問診表と説明。
診察券にICチップを入れて、一度打ち込んだ記録を国内どこの病院にかかってもみられるようにすれば、既往歴が一目瞭然で分かるようにすれば時間も患者の負担も医者の理解も節約できる。
問題はインフラ作りだが、全医療機関共通のドクターソフトを開発すれば良いだけだ。
今やクラウドの時代なのだから、病歴の一括管理が出来ない訳がない。
多分、個人情報を悪用してそのサーバーにアクセスされたら、医者の守秘義務が保てず、病院を語った詐欺が横行する危険があるから、踏み出せないのだろう。
しかし、小さい頃からの病歴が分かればそれこそ『総合診療』として、その人の経緯が探れるのではないだろうか。
中年も超えてくると、一桁の時に何があったのか覚えていなかったり、知らなかったり、年表を作るのも難しくなってくる。
大体、人間なんて40を超えて来たら何かしらの病気になって当たり前。
それが運よく老年期になるまで、これといった大病を患わなかったとしても、それから思い出すのも記憶力だけが頼りになってしまう。
その年になれば親も生きていたとしても記憶は曖昧だろうし、もしかすれば他界している可能性もある。
私のように子供の頃から、度々病気ばかりして未だに病気が増えて行くと、もうお手上げになる。
そう思いながらずっと来たが、今日テレビのコマーシャルで富士通がその診察券を開発してフィンランドで使用されているのを知った。
日本は遅れている!とつくづく思った。
「だから言ってたでしょ、診察券一枚と保険証一枚持って行けば良いようになればいいのに!何で誰も思いつかないの?って」
次は今まで溜まった診察券にバーコードを読み込むなり、そのIDを打ち込むなりすれば自分だけの医療専用カードが作れるようになる機械を作ることだ。
作成時にパスワードを患者が設定できるようにして、銀行やコンビニのカウンターと同じように使う時に患者がキー操作を医者の前でする仕組みにすればいい。
あくまで医療機関ではブラウジングするだけで、カルテに書き込んだ後は上書きの際に患者が同意のエンターを押すだけ。
患者はいつでもカルテを自分で見れるようになればいいのかもしれないが、情報操作を勝手に出来ないようにするにはカルテの書き込みをした医療機関のコード番号とパスワードがなければ見られないようにすればいいのではないだろうか。
細かいセキュリティーの構築は分からないが、必ず出来るはずだ。
何せ、住民登録番号を国が勝手に作って、日本全国共通で分かるようにしたのだから。
人間番号を作れたのだから。
2011年11月15日火曜日
国民性
最近ではハーフタレントやアーティストが持て囃される時代になった。
しかし、見た目からして外国人的な人でも、一度も外国生活をしたことがなく、日本生まれ日本育ちで、日本語しか話せない人も多くいる。
逆に外国生まれ外国育ちで、日本語は話せないが顔立ちは日本人そのものの日系人も多く居る。
この日本では、あまり移民文化は発達しておらず、日本人の顔立ちをしていれば日本人だと思い込まれて当然なのかもしれないが、海外では移住や移民は大して不思議なことではない。
○○系○○人というのは多い。
前文に書いた人たちの中には、多くが色々なコンプレックスを抱いている場合もある。
しかし、もっと難しい人は、日本生まれ日本育ちだが親が外国生まれ外国育ちの人だ。
それは親は自分が育った文化が当たり前だと思い、子供を自分のお国流に育ててしまうために子供は文化や国民性に悩まされる。
見かけは日本人、言葉も日本語、でも物腰は外国人そのもの。
これは実に厄介で理解されにくく、変わり者にされやすい。
日本の国民性の多くは、あまり図星を突かず、自分の意見を主張するにも薄ら笑顔で、それとなく伝えようとする傾向だ。
たまに率直な意見を単発語で言う人がいるが、そう云う人は『毒を吐く』とか『言いたいことをはっきり言う』などと言われる。
いわゆる、今時流行りのオネエキャラの人たちのようなケース。
一方外国でも、商談などは腹の読み合いで『切り札』として、何もかもをストレートに言う訳ではないが、自己主張や意見をはっきり伝えない人は、日本とは逆に何かを企んでいると誤解される。
また薄ら笑いや愛想も同じように、扱われる。
すべての国で外国は、そうだと言っている訳ではない。
大多数の文化というおおまかな括りでという事だ。
相手を思いやる文化は、日本人は非常に繊細な心使いで扱う。
しかし、私が感じるのは、ちょっと気を使いすぎなのでは?や、人の顔色を見すぎて、事が先に進みにくいということだ。
そして、それが故に悪口、陰口、愚痴が多く、人間関係がまるで腫れ物扱いのように感じる。
人間は同類と群れ、分配能力があり、トレードオフの能力がある。
他の動物と違い、人間は広範囲で生息し、価値観や概念はそれぞれが育った環境によって作られていき、それは年齢とともに成長や変化する。
ことに『正しい』と思う概念や観念は、多様なもので、中々覆るには時間が掛かる。
国民性の違いは、いわば概念の違いといっても良いのかもしれない。
たとえ国が違っても、その人の持つ人間性が大切なのではないだろうか。
『ものは言いよう』というが、伝えたい言葉も、その言い方やニュアンス、音波などで意味は変わる。
単刀直入に言う場合でも、突き放す言い方は反発を招き、回りくどく確信を得ない言い方は誤解を招く。
ようは、自分は相手に何を伝えたいのか?
自分は相手に伝えた後、どうしたいのか?
結果(到達点)は何を目標にしているのか?
そういったことを一呼吸置いてから、対話するのは国内外問わず必要なことだと思う。
外国人の中にも、煮え切らない内気な人はもちろん居る。
自己主張ばかりして、相手の気持ちなんてお構いなしの人も居る。
人と人が会話するに当たって、大切なのは合意すること。
「そうだね」 と言える会話をどうすれば出来るのか考えるのは非常に重要なことだと言えよう。
日本の格言の中に
『自分の考えを押し付けると、人は去ってゆく』
というものがある。
もう少し、心を開いて相手と向き合う勇気を持つ努力も必要な時代ではないだろうか。
しかし、見た目からして外国人的な人でも、一度も外国生活をしたことがなく、日本生まれ日本育ちで、日本語しか話せない人も多くいる。
逆に外国生まれ外国育ちで、日本語は話せないが顔立ちは日本人そのものの日系人も多く居る。
この日本では、あまり移民文化は発達しておらず、日本人の顔立ちをしていれば日本人だと思い込まれて当然なのかもしれないが、海外では移住や移民は大して不思議なことではない。
○○系○○人というのは多い。
前文に書いた人たちの中には、多くが色々なコンプレックスを抱いている場合もある。
しかし、もっと難しい人は、日本生まれ日本育ちだが親が外国生まれ外国育ちの人だ。
それは親は自分が育った文化が当たり前だと思い、子供を自分のお国流に育ててしまうために子供は文化や国民性に悩まされる。
見かけは日本人、言葉も日本語、でも物腰は外国人そのもの。
これは実に厄介で理解されにくく、変わり者にされやすい。
日本の国民性の多くは、あまり図星を突かず、自分の意見を主張するにも薄ら笑顔で、それとなく伝えようとする傾向だ。
たまに率直な意見を単発語で言う人がいるが、そう云う人は『毒を吐く』とか『言いたいことをはっきり言う』などと言われる。
いわゆる、今時流行りのオネエキャラの人たちのようなケース。
一方外国でも、商談などは腹の読み合いで『切り札』として、何もかもをストレートに言う訳ではないが、自己主張や意見をはっきり伝えない人は、日本とは逆に何かを企んでいると誤解される。
また薄ら笑いや愛想も同じように、扱われる。
すべての国で外国は、そうだと言っている訳ではない。
大多数の文化というおおまかな括りでという事だ。
相手を思いやる文化は、日本人は非常に繊細な心使いで扱う。
しかし、私が感じるのは、ちょっと気を使いすぎなのでは?や、人の顔色を見すぎて、事が先に進みにくいということだ。
そして、それが故に悪口、陰口、愚痴が多く、人間関係がまるで腫れ物扱いのように感じる。
人間は同類と群れ、分配能力があり、トレードオフの能力がある。
他の動物と違い、人間は広範囲で生息し、価値観や概念はそれぞれが育った環境によって作られていき、それは年齢とともに成長や変化する。
ことに『正しい』と思う概念や観念は、多様なもので、中々覆るには時間が掛かる。
国民性の違いは、いわば概念の違いといっても良いのかもしれない。
たとえ国が違っても、その人の持つ人間性が大切なのではないだろうか。
『ものは言いよう』というが、伝えたい言葉も、その言い方やニュアンス、音波などで意味は変わる。
単刀直入に言う場合でも、突き放す言い方は反発を招き、回りくどく確信を得ない言い方は誤解を招く。
ようは、自分は相手に何を伝えたいのか?
自分は相手に伝えた後、どうしたいのか?
結果(到達点)は何を目標にしているのか?
そういったことを一呼吸置いてから、対話するのは国内外問わず必要なことだと思う。
外国人の中にも、煮え切らない内気な人はもちろん居る。
自己主張ばかりして、相手の気持ちなんてお構いなしの人も居る。
人と人が会話するに当たって、大切なのは合意すること。
「そうだね」 と言える会話をどうすれば出来るのか考えるのは非常に重要なことだと言えよう。
日本の格言の中に
『自分の考えを押し付けると、人は去ってゆく』
というものがある。
もう少し、心を開いて相手と向き合う勇気を持つ努力も必要な時代ではないだろうか。
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