2011年4月8日金曜日

『自分とは何か?』

R・D・レイン(英心理学者、思想家)が、母子(親子)関係の在り方から自己の確立について一つの指標を示したものがある。

シチュエーションその1
母親が子供を迎えに学校(幼稚園などの施設)へ迎えに門の外で待っている。
その時、子供は中々出てこない。
母親は黙って、子供が出てくるのを門の前で待っている。
やっと出てきた子供に、母親が「どうして遅くなったのか?」と尋ねると、子供は『母親のことが好きではない』と言った。

そこで、親は自分のことが嫌いだから遅れたのだと言う子供に対し、どのように接すれば良いのか?
(ここでのルールは、母親は門の外で待ち、子供を迎えに行くこと。子供は一人で帰ってはいけない。)

① 「そう、いいわ」と言って、一緒に帰る。
② 「生意気言うな」と怒鳴る。
③ 「でも、お母さんのことが好きなのを解ってるよ」と言って抱きしめる。

最も正しいと思われる対応の仕方を街頭アンケートしてみた結果は、どの時代や国に於いても
若い世代では③という答えが圧倒的に多く、親の世代では①か③という答えが集中した。


この時の母親の対応を解説してみよう。
①は、母親と子供の間に信頼関係の溝と言う距離を作り出す。
②は、母親自身が母親という他者を否定したことを子供に対し、ストレートに示す。
③は、子供の「嫌いだ」という意思を母親が否定する。
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母子関係は、子供の人格や性格を形成する段階において、最も身近な存在であり、社会の一員としてどのように行動するのかを学ぶ最初の他者になる。
このようなシチュエーションで適切な母親の対応は、実は②であり、これは子供が母親(相手)を嫌いだと主張し、母親は役目として迎えに行った(約束を守る)にも関わらず、待たされた挙句理由を聞いたら 『嫌いだから遅れた』 と言われたことに対し、人間の感情として当たり前の心理を伝えたからだ。

何故、このような対応が正しいのかというと、
人は自分=他者の他者であり、自分とは他者によって決められたものではなく、『私』という固体だからである。

①も③も自分が約束を『親』という役目の上であっても守り、相手(他者)からその存在を否定されたことに対して許す(許容)点に問題がある。
一見相手を許容することは包容力のある寛大な対応のように見えるが、実はそれは相手の人格を否定していることなのだ。
相手は他者であり、相手にとっては自分は他者、そして自分は他者の他者であり、すべてを受け入れる事は心理的に否定して、意見をかき消しているのと同じである。

上文をもう少し詳しく解説すると、
①の「そう、いいわ」と親が許容することは、嫌いだと主張した子供の気持ちに自分の気持ちとして何も受け答えしていない状況によって、子供はぬかに釘のような心境で、「何を言っても無反応だ」と受け取り、何故自分がお母さんが嫌いだと言ったのかというメッセージに対してまるで「別にどうでもいいわ」と返事されたかのように感じてしまい、結果的に両者が問題から目を逸らしてしまう事になる。
③の「でも、お母さんを好きなのを解っているよ」と抱きしめてしまう行為は、子供が自分の気持ちを「嫌いだ」と主張したにも関わらず親から「好きでいろ」と強要されたのと同じ状態であり、これは相手(子供)の感情を否定することである。
故に①も③も両者の立場を受け入れていない行為ということになる。

要するに、この場合相手というのは子供であり母親であって、母親からすると子供が他者である一方、子供から見た立場に於いて『自分』というもう一つの他者になる。

一方②のような母親が『自分として』傷つけられ、迎えに行く約束を破られたことに対し、『迎えに来てもらう権利』を持った子供に「好きとか嫌いとか生意気なわがままを言うな」と叱って、自分を主張することは子供にとって、『自分を大切にする』ことを教える状態である。

対立しあうことは、互いに理解を得られず認め合っていない様に思えるが、それは心を許し、相手に自分の意思をぶつけられるだけの潜在的な見捨てられないという絶対的信頼感があるから出来る事であり、その気持ちに気付きにくさがある。
この事は、他者によって自分を知ることになり、より他者と自分を理解する術となっているのだ。


エマニュエル・レヴィナス(仏哲学者)が解説したことを要訳すると、
「自分とは何か?」と考えるのは、自分に不安があるからであり、違いを分かり合うことが自己の理解に繋がる。
また、他者との出会いにより、自分を再編成し、アイデンティティーの共有によって自己と他者の関係を確立してゆく。と言っている。


自己を確立しているのは、たった一人の『自分』ではなく、社会の多くの人々との価値観の比較や共有によって行われているものである。
AC(アダルトチルドレン)は機能不全家族という親子関係によって築かれた精神活動の機能不全を指摘し、子供の発達障害に於いても親子関係の在り方や遺伝的要素が問題にされている。
その他、何らかの精神的問題や反社会行動なども家族や親子関係を重視する傾向が大多数だ。
しかし、先にR・D・レインの心理実験の例を挙げても分かるように、殆どの人の意見が相手を許容する傾向があり、ある特定の家族や親子に限られた問題でないことが理解できる。

人の潜在的な心理(深層心理)の中には、誰でも『嫌われたくない』というものがある。
それは例え自分にとって不本意なことであったとしても、嫌われるようなことをしたら孤立するのではないかという不安や愛情を与える満足を得たい思いを失いたくないという、逆反応があるからだ。
特に子供と親の関係に於いては、守る守られるの愛情や本能の関係性から、絶対に失いたくない相手であるが故に、互いに嫌われたくないのは当たり前なのだ。
しかし、子供はある意味では『守られて当然』な立場を理屈ではなく本能的に生まれた時から持っているため、次々に好き勝手な意思をぶつけてくる。
そこで親は本来『何でもしてあげたい』という本能的な部分と『社会のルールとして』や『生活事情』など様々な判断から、正しさを示さなければならない。
こうして親は日常茶飯事、葛藤の中に身を置かざるを得なくなるのだ。
もう一つ『親』である立場に付け加えると、社会人であるために社会の一員として、正しさを示す立場にも身を置いているのだから、何重にも葛藤の渦中にある訳だ。

『子育ては親育て』とは言うが、実は人間は生まれた時から、社会的立場ではなく 『一人の人間として』 自分を育てている。
それが、自分=他者の他者という考え方だ。

自分とは何か?という疑問に人生の中で一度は誰でも向き合うことだろう。
その時、見つめるのは相手ではなく、また社会でもなく、『自己』であるのは言うまでもない。
私は常々口にしているのが
「所詮、人間はエゴの塊」
ということだ。
どんなに相手のことを思い、考え、自分はどうするべきなのかを判断しようにも、実は深層心理的には『自分=自己』への思いが最優先されている。

それは何故か?
人間は本能的に自己防衛しようとするのが当たり前であり、また飛躍して突き詰めると、自分の命を守ろうとする身体的反応から精神的反応までなければ、人は死んでしまう。
肉体と精神は連動している。それが生命力という事実なのだ。

②の「生意気言うな」と怒鳴って一緒に帰る、それが最も健全な反応であり当然なのだ。
そして、そういう反応をされた子供は親である他者から自分を見つめ、自分も他者の他者だということを自然なやり取りの中で覚える。

自分を大切にすることは相手を大切にすることに繋がり、『約束』とは両者が守るルールである前に、『自分を信じるためにするもの』だということを知らなければいけない。
意外と『約束は何のためにするのか?』という意味を理解していない事が多いのだが、相手を信じる物差しなのではなく、真実は相手を決して裏切らないという自分に対する誓いなのだ。
その証拠に、人は約束を相手に破られると 『裏切られた』 や 『嘘をつかれた』 と怒りの感情が発生し、逆に自分が約束を破ってしまった時には 『取り返しの付かないことをしてしまった』 と自責の念に駆られる。
そこには、自分が『守った』か『守らなかった』かの問いに対して、登場人物の『私=自分』という主役が存在しているからである。


立場やすべての垣根(障害、人種、国など)を超えて、改めて人間とは自分とは何なのか、もっと広い視野を持って一人一人が見つめる機会をより多く作ることが大切だ。
そのためには、ある一つの団体や特定の分野の中だけで情報交換するのではなく、反比例する存在が必要になる。
一つの世界に固執してはいけない。
自己という世界に。