2011年11月15日火曜日

国民性

最近ではハーフタレントやアーティストが持て囃される時代になった。
しかし、見た目からして外国人的な人でも、一度も外国生活をしたことがなく、日本生まれ日本育ちで、日本語しか話せない人も多くいる。

逆に外国生まれ外国育ちで、日本語は話せないが顔立ちは日本人そのものの日系人も多く居る。

この日本では、あまり移民文化は発達しておらず、日本人の顔立ちをしていれば日本人だと思い込まれて当然なのかもしれないが、海外では移住や移民は大して不思議なことではない。
○○系○○人というのは多い。

前文に書いた人たちの中には、多くが色々なコンプレックスを抱いている場合もある。

しかし、もっと難しい人は、日本生まれ日本育ちだが親が外国生まれ外国育ちの人だ。
それは親は自分が育った文化が当たり前だと思い、子供を自分のお国流に育ててしまうために子供は文化や国民性に悩まされる。

見かけは日本人、言葉も日本語、でも物腰は外国人そのもの。
これは実に厄介で理解されにくく、変わり者にされやすい。

日本の国民性の多くは、あまり図星を突かず、自分の意見を主張するにも薄ら笑顔で、それとなく伝えようとする傾向だ。
たまに率直な意見を単発語で言う人がいるが、そう云う人は『毒を吐く』とか『言いたいことをはっきり言う』などと言われる。
いわゆる、今時流行りのオネエキャラの人たちのようなケース。


一方外国でも、商談などは腹の読み合いで『切り札』として、何もかもをストレートに言う訳ではないが、自己主張や意見をはっきり伝えない人は、日本とは逆に何かを企んでいると誤解される。
また薄ら笑いや愛想も同じように、扱われる。
すべての国で外国は、そうだと言っている訳ではない。
大多数の文化というおおまかな括りでという事だ。

相手を思いやる文化は、日本人は非常に繊細な心使いで扱う。
しかし、私が感じるのは、ちょっと気を使いすぎなのでは?や、人の顔色を見すぎて、事が先に進みにくいということだ。
そして、それが故に悪口、陰口、愚痴が多く、人間関係がまるで腫れ物扱いのように感じる。

人間は同類と群れ、分配能力があり、トレードオフの能力がある。
他の動物と違い、人間は広範囲で生息し、価値観や概念はそれぞれが育った環境によって作られていき、それは年齢とともに成長や変化する。

ことに『正しい』と思う概念や観念は、多様なもので、中々覆るには時間が掛かる。

国民性の違いは、いわば概念の違いといっても良いのかもしれない。
たとえ国が違っても、その人の持つ人間性が大切なのではないだろうか。
『ものは言いよう』というが、伝えたい言葉も、その言い方やニュアンス、音波などで意味は変わる。
単刀直入に言う場合でも、突き放す言い方は反発を招き、回りくどく確信を得ない言い方は誤解を招く。

ようは、自分は相手に何を伝えたいのか?
自分は相手に伝えた後、どうしたいのか?
結果(到達点)は何を目標にしているのか?
そういったことを一呼吸置いてから、対話するのは国内外問わず必要なことだと思う。

外国人の中にも、煮え切らない内気な人はもちろん居る。
自己主張ばかりして、相手の気持ちなんてお構いなしの人も居る。

人と人が会話するに当たって、大切なのは合意すること。
「そうだね」 と言える会話をどうすれば出来るのか考えるのは非常に重要なことだと言えよう。

日本の格言の中に
『自分の考えを押し付けると、人は去ってゆく』
というものがある。

もう少し、心を開いて相手と向き合う勇気を持つ努力も必要な時代ではないだろうか。

2011年7月7日木曜日

根絶治療と対処療法

あらゆる疾患に対して、どれくらい根絶治療が行われているのか考えてみた。

根絶治療とは、病気の原因を特定し、その原因の元から病気自体を治療し改善するもの。
一方、対処療法とは、原因そのものを特定せず、起きている症状のみを緩和し、現在の状態を改善しようとするもの。

現在日本の医療体制は様々な病気を細分化し、各科で診察、治療が行われている。
その中で、どれくらい根絶治療が行われているのかと言えば、ごく少数ではないだろうか。

例えば、一般的な例で
  • 歯科治療:虫歯で治療に訪れるが、虫歯菌自体は根絶できず、虫歯になった部分だけ治療する。
  • 整形外科:骨折や裂傷などの外傷などに於いては、起きた事象に対し根絶治療と言えるだろうが、神経痛や手術困難な病状に対しては、やはりリハビリテーションを施し、消炎鎮痛剤(湿布薬など)を用いて理学療法を数年に渡って、症状が軽減されるまで行う。
  • 皮膚科:あらゆる細菌感染や病変のために、皮膚症状がある場合、血液検査を行った上で原因を特定し、薬剤で治療をするが、その殆どが原因を特定できたとしても根絶するのは非常に困難で何年間も患者は治療しなければならない。
  • 内科:様々な臓器の異変を特定し、原因が判明し解明されているものに対しては、化学療法や薬物療法、手術において病態自体を根絶することは出来るが、ある疾患に於いては根絶そのものが難しく対処療法によって軽減させる場合も存在する。

中々例を挙げるのも各分野が多いため、紹介するのは難しいが、ここでは精神科領域について述べたいと思う。
そもそも精神疾患の中で、遺伝的要素が判明しているものは、ある程度存在するが、その治療は並大抵のものではない。
治療の多くは薬物療法や心理療法というアプローチが行われているが、薬剤を処方する際、現在起こっている症状に対し対応するものだ。
心理療法も同じだ。
難しいのは、原因が特定できていても、それを根絶するのは不可能と言える。


根絶治療は基本的に原因となるものを、あらゆる手段を持って排除することが目的なのだが、二次的な問題を対処しなければならない。
しかし、そこには患者の 『体質』 や 『生活環境』、『家族関係』などの要因が絡み合い、病気自体を根絶できたとしても、完治するまでの間に患者が負った 『心的外傷』 は大きく後々影響する。

そこで認知行動療法が必要となってくる。
生活指導や食事療法、病気を克服した後、あるいは闘病中の対応の仕方など患者自身にこれからしなければいけない注意点など様々な勉強を学んでもらう必要がある。
その目的は、心的外傷に陥ってしまわないようにすることだ。

最近では一般的にもトラウマという言葉はよく使われている。
このトラウマ(トラウマティック:ある特定の過去の記憶を呼び起こす現象)は、PTSD(心的外傷ストレス障害)へと移行する原因となる。
しかし、ほとんどの場合に於いてトラウマは病的な症状にまでは発展しない。

認知行動療法とは、病気や事故によって記憶された痛みや恐怖体験など、事象自体は和らぎ完了しているにも関わらず、脳に刻まれた過去の体験を再現してしまう(実際には痛みや苦痛は解消され科学的根拠を示さない)患者に対して、それらは脳の誤認が引き起こしていると認識させる方法の一つ。
この療法がもたらす効果は、患者が「痛みがまた襲ってくるのではないか」や「あの時の恐怖がまた繰り返されるのではないか」といった恐怖感を心理的に取り除く事によって、自分には可能なのだと自信を与えることにある。
たとえ、以前とまったく同じように思考や作業が出来なかったとしても、心の中に可能性を見出す事によって、積極性を持たせることに意義がある。

それは、多くの場合、パニック発作に代表されるような「また起きるかもしれない」前駆心理によって消極的になり、憂鬱感を抱え、自殺願望(意図的、非意図的)の危険性を持っているからである。
患者の訴える、耐え難い苦痛は患者本人にしか実感する事は出来ない。
しかし、「耐え切れない」と言う思いは確かなものである。(作為的、あるいは演技性障害は除く)
その訴えを受容しつつカウンセリングと作業療法を行っていく。

たとえば、癌疾患を患った患者は心理的に『癌は転移する』 『治らない』 といった不安感や恐怖感を持つ。また胃・十二指腸潰瘍などの患者も日常的な痛みから、もしかしたら『癌になるかもしれない』 『手術で切り取らなければならないかもしれない』 と同じように不安感を抱えやすい。
化学療法によって、疾患自体は和らいだり完治しているにも関わらず、警戒心は増大する。
そのような時、「気の持ちようだ」とか、「精神的な問題だから」と家族や周囲の人は励ますつもりで説得しているのだが、患者自身は「だれも解ってくれない」と突き放された気持ちになる。
経過観察の受診の際にも、医師に執拗と感じさせるほど「本当に大丈夫なのか」と確認を繰り返してしまう。

こういった場合に有効的なのが、認知行動療法なのだ。
その患者の性格や傾向を観察しながら、必要であれば放射線画像を見せ、本人が納得の行くように丁寧に説明し、安心させる。
また、身体症状を訴える場合には具体的な内容を聞き取っていく。
食事をすると痛むような気がすると言えば、軟らかい物や食べやすいと思う物を少しづつ食べてみてはどうかと提案し、新陳代謝が悪くなると、どのような弊害が起きてくるのかといった予測的な問題も提案してみる。

患者は非常に自分の体に対して過敏になっている場合があり、その不安を解消させ、達成感を味あわせる事によって自信を持たせていく。
そして、一つ、二つと不安や恐怖感から開放され、やがて警戒心が消えていくのだ。

医療従事者にとっては、誰が説明したとしても同じ内容なのだが、訴えによく耳を傾け、具体的かつ有効的な提案を根気よく続けてくれる人が、患者にとっては最も信頼の置ける『医者』なのだ。

臨床心理士は、医師ではないが患者にとってはとても大切な存在であるのは間違いない。
そして、どんな化学療法や薬剤よりも有効な手立てであり、患者や家族にとって生活の向上が見込める方法であると言っても過言ではない。
それくらい、心理的な問題は負担が大きく、医師、患者双方にとって負担が軽減し、最短での回復を目指すためにも認知行動療法を広く活用されるよう期待する。

化学療法、薬物療法、心理療法、認知行動療法、各々持ち場は違っても、目指す最終地点は出来得る限りの根治治療であって、医学界の古い垣根を取り除き、各分野の専門家の連携をもっと緊密に図れたならば、それは正に全人的総合診療と云える。


最後に、患者にとって最もつらいと感じる医師からの一言は、 「精神的な問題ですよ」 であるのを常に覚えておくと良い。

2011年6月16日木曜日

言葉の使い方

私は正しい日本語を知りつつ、会話を楽しむための 『言葉の言い回し』 は良い事だと日頃から考えている。

造語が氾濫している現代で、もっと楽しくなるような、友好的で更に効果的な使い方の出来る造語があると思う。

大抵の造語は、言葉そのものに意味を持たないものや人を誹謗中傷する意味を隠した単語、確信を隠した曖昧語だ。
しかし、それらは面白い事に殆どが意味の解る、隠されていない言葉でもある。

例えば、「意味分かんない」や「イタイ」のような若者言葉は通じる言葉だ。
沢山の意味を含み、その意図も皆、伝わり理解出来ている。
故にストレートな言い方でないにも関わらず、傷付いたり、笑ったり、共感する。


私は仕事に於いては、造語も略語も業界用語も殆ど使わない。
それは、いい加減な言葉の表現から相手の受け取り方が錯誤したり、的確に伝わらず、
『行き違い、勘違い、食い違い』
このような間違いを失くすためだ。
正しい日本語で、外来語を殆ど含めなければ日本全国、通じて当たり前であり、外国人であれば尚更適切に通じる言葉でなければ支障がある。

しかし言葉は通じても、意図が通じない問題は後を絶たず、相手の心理や理解力を観察しながら、一つの用件に一体何単語使っているのか、時々疑問に感じることも少なくない。


言葉は便利なものだ。
私は家事や家庭生活のことを 『おうち活動』 と表現する。
おかしなことに家族や家庭などというと、それはそれは大変な心境になるのだが本来、家庭は安らげる場である筈だ。
その安らげる場所を整える事に疲れて、家事を疎かにし、『豚小屋』にしてしまうのは何故か。
あるいはその逆に徹底的に部屋の何処かしこも、整理整頓されていなければ許せないほどにしてしまうのは何故か。
それは、すべてその人の社会活動の反動が反映されていると言える。

いわゆる『人間関係』というものに始終心が奪われていると、何をしても 『心此処にあらず』 となりがちだ。
人間関係は他人との関係だけでなく、同じ家の中にも家族という人間関係もある。
家族は自分の欠点や汚点と云われるものを隠せない存在であり、それだけに親密な関係でもあれば、見られたくない自分の嫌な一面も見られてしまう存在だ。
だからこそ、心を必要以上にさらけ出せる、またさらけ出してしまう相手でもある。
そこに遠慮会釈がない場合、許しあえるとても良い相手でもあるのだが、悪い状態は堕落することに同調しやすいといった欠点もあるのは確かだ。

外の人間関係に殆どの神経を使ってしまうと、家に帰ってきた時に家族にその遠慮がなくなってしまう。
よく聞く台詞が 『家に居る時くらい』 という言葉だ。
しかし、家族とは一人称では成り立たない状態であって、やはり一人で生活しているのではないことからすると、自分勝手な言い分はそれぞれが腹の立つ問題になってしまう。


先に取り上げた、家庭の状態は社会活動を反映しているという問題だが、外で神経を使う人=豚小屋と一概に言い切っている訳ではないが、 心が乱れている状態に変わりはない。
また、精神的に疲れている場合は往々にして肉体的にも疲れている。
それによって、家事が思うように出来なかったり、疎かになったりするのは当然といえば当然。
そこから波及する問題のキーワードは 『イライラ』 であろう。

家族関係は外因的にも人間関係の始まりであり、外の人間関係に於いて体裁をいくら取り繕えた(適応できた)としても、やはりどこかで歪が生じるのである。


家族の中で言葉が優しく交わされていると、会社や学校などの社会環境の中でも無意識のうちに反映されている。
しかし家族の規則がすべてだと、逆に生まれ、生い立ち、育ちの違う様々な人間関係と価値観の共有をするのは難しく、自分の考えや価値観に固執しがちなのも問題である。

自己の価値観、特に正しいと思える価値観を育てるには、より多くの人と接し、鵜呑みにせず、沢山のことを検証しようとする客観性が必要となるであろう。


単に、刷り込み式の道徳的概念だけを模範とせず、自分なりの正しいと思える概念を探求する好奇心を忘れないことが大切ではないだろうか。

言葉は少なくとも伝わる、それは何故か一人一人が見つめる努力が必要とされている時代なのではないかと考える。

何かが思うように行かない時、一端立ち止まって自分の身の回りを見つめて見ると、どこかが雑然としてる筈だ。また、神経質なまでに整いすぎていることもある。


それは、すべて自分の心(心理状態)が反映されている。

2011年5月25日水曜日

『心が折れる』 という言葉について

最近何かと 『心が折れた』 という言葉をあちこちで耳にする。
随分前から、人の精神に対する考え方について色々な事が気になっていた。

『癒し』 や 『人間関係』 も同じく。
そんなに人間の精神は簡単に崩壊したり、潰れてしまったりしないものであるのに何故、『心の疲労感』をあれこれと言葉を変えて表現したがるのだろうか?


心が折れるということは、精神の骨折を意味している。
肉体に当てはめて考えると、骨折はかなりの痛みを伴い、治癒するにも相当な時間を要し、忍耐も必要になる。
しかし、いくら心が折れたとしても翌日にはまた同じ日常を過ごしており、ご飯を食べているであろう。
時には本当に精神的に強烈な出来事でまいってしまい、食事がのどを通らず、眠れない思いをするほどつらいことはあるだろう。

そんな時、大抵の場合人は簡単に
『心が折れちゃって』 とは言わないと、言えないと思う。


何故こんなにも自分を甘やかすかのような自己防衛の言葉が次々と氾濫し、どこから生まれてくるのか考えた。
そんなに逃げ道がないのか?
そんなに向き合う現実は難問なのか?
そんなに人は傷つけ合ってばかりの嫌で耐え難い生き物なのか?

私にはどれもこれも単に自分から目を背けているだけのようにしか思えない。


心理学的には、人は無意識的に自分の嫌なものを遠避け、他者と対立するよりも回避しようとする自己防衛の本能がある。
しかし、それは自分なりに様々な観点から考え、悩んだ挙句、どうしようもなく答えの出しようのない問題にぶつかった場合や、一方的に他者から理由なく傷付けられるような問題に直面した場合、人は生命危機の回避から精神を一端遮断する事態を現している。

例えば、会社の上司や学校の先輩など対等でない関係の中で、自分の意に反する出来事を仕事上どうしてもやらなければいけない問題や、許容範囲を大幅に超えるような仕事を連日やらされるような問題がある。
また、いじめ問題も同じく、他者の一方的な主観的感覚で自分にはどうすることも出来ないような行為を押し付けられるような問題もある。
その他、人種や地域、障害など様々な差別や偏見に晒される問題や事故などもある。


しかし、日常的に使われている 『心が折れる』 という本当の意味は何なのだろう。
それ程までに本人を苦しめ、問題と向き合えないほど精神的に深刻な状態なのだろうか?
私は違うと思う。

一種の社会現象とも言える問題であるが、その社会現象は何故、どこが原因となっているのか。
一概に一つだけを指し示すことは難しいが、答えは便利で簡単に何でも手早く、そして使い終わったらポイっと捨てられる物が多くなった事だ。
物が溢れ、人も溢れ、誰かと助け合わなくても、一日中、家に閉じこもって居ても何でも手に入る生活が、人間関係を必要としなくなっている。

誰かに助けてもらったら、「ありがとう」。
誰かを助けたら、『ありがとう』。
逆に誰かを傷つけたら、「ごめんなさい」。
誰かに傷付けられたら、『ごめんなさい』。

この関係を作るには、必ず自分も相手も互いの心に向き合わなくてはならない。
しかし、最初から向き合うことを必要とせず、自分にとって都合よく、ごく一部の便利な存在の人間としか付き合う気持ちがなかったとしたら、「ありがとう」 「ごめんなさい」、そのどちらの言葉も使う必要がない。
イコール、心を通わせ合う温かい人間関係など生まれはしないということだ。


それでいて、『心が折れた』 や 『癒し』 を求めて毎日、何を探しているのだろうか?
それでいて、何故、事 『人間関係』 に限って悩むのだろうか?


自分を見つめる事は、自分を追い詰める事とは違う。
相手を見つめる事は、相手を責める事とは違う。
自分の本心を見つめ、相手に対し自分はどうなのか?相手の本心は自分に対してどうなのか?
自分一人でいくら考えたところで、答えは出てこない。
それは相手は他者であるからだ。
答えを見つけたければ、相手と相手の立場になって会話(対話)を納得いくまですることだ。

しかし、誤解しているようだ。
相手と対話をして、嫌な方向に話が行ってしまい自分を悪く思われたら、もっと悪い結果になるだけ。
そう思うから、誰も自分の本音を相手に話はしない。


その言い訳が 『心が折れた』 だ。


要するに面倒くさいの一言で片付く。
そうやって、どんどん人を疑い、自分を孤立させ、目的も分からず、癒されることのない誤魔化した 『癒し』 を求めるのが現代人なのだろう。
その癒しの一部に精神安定剤依存症が多いのは現実だ。

2011年5月24日火曜日

しゃっくりの止め方 実践済み

私の子供が度々、しゃっくりを起こしては自分の胸や腹部をこぶしで殴っていた。
「そんな風に殴ったら、心臓麻痺を起こすからやめなさい」 と何度言っても聞かなかった。

とうとう、ネットで検索しだし、その検索数の多いことに驚いた。
以下の文章を参考に、しゃっくりの起こるメカニズムを考えた結果、実験をした。


メルクマニュアル家庭版より  http://merckmanual.jp/mmhe2j/sec06/ch091/ch091a.html

しゃっくり:横隔膜のけいれん
しゃっくりは正式には吃逆(きつぎゃく)といい、だれにでも起こるありふれた状態ですが、れっきとした運動機能障害の1つです。しゃっくりは横隔膜がけいれんした後、声門が素早く閉じるときに出る音をいいます。横隔膜は腹部と胸部を仕切っている筋肉で、1回ごとの呼吸を調節しています。声門は左右の声帯の間の開口部で、声門が閉じると空気が肺に流れこまなくなります。しゃっくりは、速く深い呼吸(過換気)などによって、血液中の二酸化炭素レベルが下がると起こりやすくなります。

しゃっくりを治す方法として、さまざまな民間療法が知られています。多くは、血液中の二酸化炭素レベルを増やしてしゃっくりを止めようとする方法です。息を止めるのが最も単純なしゃっくりの止め方ですが、紙袋(ビニール袋は不可)を口にあてて呼吸するのも、二酸化炭素レベルを増加させる効果があります。また、水を素早く飲んだり乾燥したパンや砕いた氷を飲みこんだりすると、脳から胃へ走る迷走神経が刺激され、しゃっくりが止まります。舌をそっと引っぱったり、眼球をそっとこすっても迷走神経を刺激します。これらの方法は、ほとんどのしゃっくりに効果があります。



と、以上の内容を簡単に解説すると、速く深い呼吸(過喚起)などによって、血液中の二酸化炭素レベルが低下すると起こりやすい、横隔膜の痙攣を止めるには横隔膜の筋肉に力を入れ、強制的な運動によって痙攣できないようにすれば良いということが理解できた。


実際に試した内容を紹介しよう。

〔準備〕 座位で良し。
① 胸を張って上半身を姿勢良くする。
(姿勢が悪く猫背状態では、内臓が伸ばされず横隔膜の位置が確認できない。呼吸法によって酸素供給を効果的にするため。)

② 両手の指先で横隔膜の位置を確認し、押さえる。
(横隔膜は、みぞおちの少し上辺りにあり、割と厚みのある筋肉で指で押さえて、ハッハッと息を腹式呼吸で吐き出してみると動くのが分かる)

〔実践方法〕
腹式呼吸を2~3回し、呼吸方法を確立しておく。
できるようになったら、指で押さえたまま、 『ハッハッハ』 と息を8回、4分の2拍子のリズムで吐き出す。声は出さなくて良い。
9回目になる時、一気に 『ふーーーん!!!』 と鼻から息を吸い込む。
続けて、吐き出すと同時に、 『ハッハッハ』 と、また休まず8回、4分の2拍子のリズムで吐き出す。
この時、途中でしゃっくりが止まっていなくても続けること。
これを約4~5回繰り返す。
最後に深呼吸を1回する。

※注意が必要なのは、息を吐き出し続けることで酸欠になってしまうので必ず体調に合わせて吸い込むタイミングを自分で調節する必要がある。
息を吐くときは、力強く、横隔膜の位置とリズムに合わせて動いているかを確認しつつ、頭の中で筋肉の動きをイメージする事が良いだろう。

これで止まる。


この呼吸方法は、合唱部や声楽の腹式呼吸の訓練(こちらは声を出す)でされている事だが、内臓の動きを脳でイメージしながら実際に自分でコントロールしようと考えたものだ。
理に適った方法だと、私は実験の結果から考えているが、あくまで個人的な結果であるので、過呼吸やその他の障害が起こっても責任は取れません。
故に、実践される場合は自己責任でお願いします。

2011年5月3日火曜日

不謹慎と自粛解除の政府発表が与えた悪影響

今回の東北地震の影響で、ありとあらゆる場面で
『不謹慎』や『自粛』の言葉が独り歩きして、人々の翻弄する心理が見られる。

しかし、このゴールデンウィークを利用して、被災地へ個人的にボランティアで行く人や被災地の状況を一目見ようと出掛ける人で高速道路は大渋滞になっているという。
私はその報道を見て、ふと思い出した。

地下鉄サリン事件が起こる前、上九一色村にオウム真理教のサティアンが建設されており連日のように報道され、上九一色村へ見物しに行く人たちの大渋滞があった。
誰も知らなかった村は一気に汚名と共に有名になったが、その村は今はもうない。

あの時、どこから来たのかも分からないほどのよそ者が押し寄せたのは、村に旅行に来た訳でなく、ただの野次馬根性の人たちだった。
どこか怖いもの見たさだけで、村人の気持ちになって助けようとか、オウム真理教を排除しようとするデモが起きた訳ではない。

その時、そういう野次馬根性で村を見物する事が不謹慎だと言った人は居ただろうか?
そして、その後村が受けた風評被害によってどれだけの村人が苦しみ、村名自体がイコール、オウム真理教とされ無くなってしまった事をどれだけの人が知っているのだろうか。


今回の被災地見物も同じ事だと思う。
散々、不謹慎だの自粛だのと言っていながら、何を見に行くのか非常に嫌悪感を覚える。
連日のように津波で何もかもが無残に押し流されてゆく映像を見せられ、まだその瓦礫や残骸は撤去されては居らず、その中に埋もれた行方不明者もまだ発見されていない所で何を見たいのか。
その上、余震はまだ連日一日のうちに何度となく続いている。


そんな状況の被災地の人々はまだまだ避難所生活をしているというのに、野次馬見物とは不謹慎以外の何者でもない。

もし、また大きな地震が起こってその現地で他府県からの野次馬が被災したら、一体どうなってしまうのか考えもせず行動しているのだろう。
恐らく、平和ボケした人間が本当の悲惨な状況をただ見たいだけだ。
そして『自分たちは平和に暮らせて幸せだ』と実感したいだけだ。

所詮人は他者と比較して、自分の方がまだマシだと自分の様々な価値観を実感するために、他者の気持ちも考えずに、他者を自分のためだけに利用するエゴイストなのだ。


一年もしないうちに、福島や宮城などのその村の名前は風化してしまい、きっと被害の大きさから土地が再生できない事などを含めると、被災者の苦悩やこれから立ち上がらなければならない実情や心情など安全圏の人々からは忘れ去られてしまうだろう。

政府が何をもって 『不謹慎』と『自粛』 を解除するなどと発表したのか私には理解できない。
意図するところは、日本全体の経済活動の低迷を懸念した事からなのは解るが、被災地見物を承認したのではない。
国がそんな安易な事を公式発表し、それを鵜呑みにして何もかもを混同してあたかも
「解禁!解禁!」のような心理で国民を惑わした政府の責任も大きければ、深く物事を見極める力を失った国民自身にも責任がある。


いつでも事件や事故、災害の悲惨さは人々の心に
『悪い心』を呼び起こす。
ニュースやワイドショーで刺激的な映像をドキュメンタリーとして報道し、コメンテーターがああでもないこうでもないと他人事のように面白おかしく話題にしているのは、もう飽きた。
今や被災地の自動車や漁船、飛行機が無残に流され、その合間に人が流されてゆく、そんな映像を見る方が楽しいのではないだろうか?
それでも飽き足らず現地見物。


『人の不幸は蜜の味』
人間の根底に潜む醜い精神をもっと人は見つめなければいけない。

どうか過去に起きた悲惨な出来事を忘れず、真の意味で口先だけでなく教訓にして欲しいと思う。

2011年4月8日金曜日

『自分とは何か?』

R・D・レイン(英心理学者、思想家)が、母子(親子)関係の在り方から自己の確立について一つの指標を示したものがある。

シチュエーションその1
母親が子供を迎えに学校(幼稚園などの施設)へ迎えに門の外で待っている。
その時、子供は中々出てこない。
母親は黙って、子供が出てくるのを門の前で待っている。
やっと出てきた子供に、母親が「どうして遅くなったのか?」と尋ねると、子供は『母親のことが好きではない』と言った。

そこで、親は自分のことが嫌いだから遅れたのだと言う子供に対し、どのように接すれば良いのか?
(ここでのルールは、母親は門の外で待ち、子供を迎えに行くこと。子供は一人で帰ってはいけない。)

① 「そう、いいわ」と言って、一緒に帰る。
② 「生意気言うな」と怒鳴る。
③ 「でも、お母さんのことが好きなのを解ってるよ」と言って抱きしめる。

最も正しいと思われる対応の仕方を街頭アンケートしてみた結果は、どの時代や国に於いても
若い世代では③という答えが圧倒的に多く、親の世代では①か③という答えが集中した。


この時の母親の対応を解説してみよう。
①は、母親と子供の間に信頼関係の溝と言う距離を作り出す。
②は、母親自身が母親という他者を否定したことを子供に対し、ストレートに示す。
③は、子供の「嫌いだ」という意思を母親が否定する。
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母子関係は、子供の人格や性格を形成する段階において、最も身近な存在であり、社会の一員としてどのように行動するのかを学ぶ最初の他者になる。
このようなシチュエーションで適切な母親の対応は、実は②であり、これは子供が母親(相手)を嫌いだと主張し、母親は役目として迎えに行った(約束を守る)にも関わらず、待たされた挙句理由を聞いたら 『嫌いだから遅れた』 と言われたことに対し、人間の感情として当たり前の心理を伝えたからだ。

何故、このような対応が正しいのかというと、
人は自分=他者の他者であり、自分とは他者によって決められたものではなく、『私』という固体だからである。

①も③も自分が約束を『親』という役目の上であっても守り、相手(他者)からその存在を否定されたことに対して許す(許容)点に問題がある。
一見相手を許容することは包容力のある寛大な対応のように見えるが、実はそれは相手の人格を否定していることなのだ。
相手は他者であり、相手にとっては自分は他者、そして自分は他者の他者であり、すべてを受け入れる事は心理的に否定して、意見をかき消しているのと同じである。

上文をもう少し詳しく解説すると、
①の「そう、いいわ」と親が許容することは、嫌いだと主張した子供の気持ちに自分の気持ちとして何も受け答えしていない状況によって、子供はぬかに釘のような心境で、「何を言っても無反応だ」と受け取り、何故自分がお母さんが嫌いだと言ったのかというメッセージに対してまるで「別にどうでもいいわ」と返事されたかのように感じてしまい、結果的に両者が問題から目を逸らしてしまう事になる。
③の「でも、お母さんを好きなのを解っているよ」と抱きしめてしまう行為は、子供が自分の気持ちを「嫌いだ」と主張したにも関わらず親から「好きでいろ」と強要されたのと同じ状態であり、これは相手(子供)の感情を否定することである。
故に①も③も両者の立場を受け入れていない行為ということになる。

要するに、この場合相手というのは子供であり母親であって、母親からすると子供が他者である一方、子供から見た立場に於いて『自分』というもう一つの他者になる。

一方②のような母親が『自分として』傷つけられ、迎えに行く約束を破られたことに対し、『迎えに来てもらう権利』を持った子供に「好きとか嫌いとか生意気なわがままを言うな」と叱って、自分を主張することは子供にとって、『自分を大切にする』ことを教える状態である。

対立しあうことは、互いに理解を得られず認め合っていない様に思えるが、それは心を許し、相手に自分の意思をぶつけられるだけの潜在的な見捨てられないという絶対的信頼感があるから出来る事であり、その気持ちに気付きにくさがある。
この事は、他者によって自分を知ることになり、より他者と自分を理解する術となっているのだ。


エマニュエル・レヴィナス(仏哲学者)が解説したことを要訳すると、
「自分とは何か?」と考えるのは、自分に不安があるからであり、違いを分かり合うことが自己の理解に繋がる。
また、他者との出会いにより、自分を再編成し、アイデンティティーの共有によって自己と他者の関係を確立してゆく。と言っている。


自己を確立しているのは、たった一人の『自分』ではなく、社会の多くの人々との価値観の比較や共有によって行われているものである。
AC(アダルトチルドレン)は機能不全家族という親子関係によって築かれた精神活動の機能不全を指摘し、子供の発達障害に於いても親子関係の在り方や遺伝的要素が問題にされている。
その他、何らかの精神的問題や反社会行動なども家族や親子関係を重視する傾向が大多数だ。
しかし、先にR・D・レインの心理実験の例を挙げても分かるように、殆どの人の意見が相手を許容する傾向があり、ある特定の家族や親子に限られた問題でないことが理解できる。

人の潜在的な心理(深層心理)の中には、誰でも『嫌われたくない』というものがある。
それは例え自分にとって不本意なことであったとしても、嫌われるようなことをしたら孤立するのではないかという不安や愛情を与える満足を得たい思いを失いたくないという、逆反応があるからだ。
特に子供と親の関係に於いては、守る守られるの愛情や本能の関係性から、絶対に失いたくない相手であるが故に、互いに嫌われたくないのは当たり前なのだ。
しかし、子供はある意味では『守られて当然』な立場を理屈ではなく本能的に生まれた時から持っているため、次々に好き勝手な意思をぶつけてくる。
そこで親は本来『何でもしてあげたい』という本能的な部分と『社会のルールとして』や『生活事情』など様々な判断から、正しさを示さなければならない。
こうして親は日常茶飯事、葛藤の中に身を置かざるを得なくなるのだ。
もう一つ『親』である立場に付け加えると、社会人であるために社会の一員として、正しさを示す立場にも身を置いているのだから、何重にも葛藤の渦中にある訳だ。

『子育ては親育て』とは言うが、実は人間は生まれた時から、社会的立場ではなく 『一人の人間として』 自分を育てている。
それが、自分=他者の他者という考え方だ。

自分とは何か?という疑問に人生の中で一度は誰でも向き合うことだろう。
その時、見つめるのは相手ではなく、また社会でもなく、『自己』であるのは言うまでもない。
私は常々口にしているのが
「所詮、人間はエゴの塊」
ということだ。
どんなに相手のことを思い、考え、自分はどうするべきなのかを判断しようにも、実は深層心理的には『自分=自己』への思いが最優先されている。

それは何故か?
人間は本能的に自己防衛しようとするのが当たり前であり、また飛躍して突き詰めると、自分の命を守ろうとする身体的反応から精神的反応までなければ、人は死んでしまう。
肉体と精神は連動している。それが生命力という事実なのだ。

②の「生意気言うな」と怒鳴って一緒に帰る、それが最も健全な反応であり当然なのだ。
そして、そういう反応をされた子供は親である他者から自分を見つめ、自分も他者の他者だということを自然なやり取りの中で覚える。

自分を大切にすることは相手を大切にすることに繋がり、『約束』とは両者が守るルールである前に、『自分を信じるためにするもの』だということを知らなければいけない。
意外と『約束は何のためにするのか?』という意味を理解していない事が多いのだが、相手を信じる物差しなのではなく、真実は相手を決して裏切らないという自分に対する誓いなのだ。
その証拠に、人は約束を相手に破られると 『裏切られた』 や 『嘘をつかれた』 と怒りの感情が発生し、逆に自分が約束を破ってしまった時には 『取り返しの付かないことをしてしまった』 と自責の念に駆られる。
そこには、自分が『守った』か『守らなかった』かの問いに対して、登場人物の『私=自分』という主役が存在しているからである。


立場やすべての垣根(障害、人種、国など)を超えて、改めて人間とは自分とは何なのか、もっと広い視野を持って一人一人が見つめる機会をより多く作ることが大切だ。
そのためには、ある一つの団体や特定の分野の中だけで情報交換するのではなく、反比例する存在が必要になる。
一つの世界に固執してはいけない。
自己という世界に。

2011年3月24日木曜日

《鬱と暴力について》 10年前に書いた記事より

以下の文章は、私が10数年前に書いた記事だ。
うつ病だけに限らず、様々な病気や障害によって 『うつ状態』 に苦しむ人や介護者は大勢いる。
その世界がどのような感覚なのか、少しでも理解に繋がればと云う思いで掲載した。



アダルトチルドレン(AC)とか、トラウマという言葉を聞いたことが、皆さんもあると思います。
また、うつ病や抑鬱といった病気も、最近では一般的になってきたと思いますが、実の所はいったい、それらがどんな状態なのか、理解されていないのではないかと、色々な人と話をする度に感じます。

昔、私が訪問した、ある精神科医との話を少しだけ、ご紹介します。
鬱とは、まるで、村上春樹の小説『ノルウェーの森』の一説のようなものだ。
木々が生い茂った森をずっと進んでゆくと、広い草原に出た。
真っ直ぐ歩けば、この迷い道から出られると解っていた。
でも、そこへ、井戸があった。
覗いてはいけない、落ちるかもしれない。そう思ったのに、引き寄せられるように、覗き込んでしまった。
そうして、深い、暗い、世界へと彷徨ってしまうことになった。
これが、まさに鬱状態そのものだと、その医者は表現しました。
迷ってしまうと解っていながら、自分ではどうしようもない、世界に沈み込んでしまい、遂にはどうしたら、抜け出せるのかすらも、真っ暗で判断できない状態だと私は理解しました。


また、ある他の精神科医は、こうも表現しました。
『富士の樹海に迷い込んで、出られなくなって、彷徨っていく』・・と。
確かに、鬱という字を辞書で引くと、樹木が生い茂り、暗い様と書いてあります。
鬱とは、どうにもならないことから、離れない何かに、悩まされているような状態なのです。
だから、一般的に悩んでくよくよしてるとか、ノイローゼなんだとか、言われているような状態とは、少し状況が違います。


さて、鬱と暴力の関係についてですが、生い茂る樹海から抜け出すには、どうしたら良いか?想像してみて下さい。
彷徨って、解らなくなってしまった道を錯乱しながら歩いて行くと、どんな気持ちがするのでしょう?
きっと、不安から苛立ち、泣きたくなり、叫びたくなる、そんな心境ではないでしょうか…。
それが、周囲に対しての傷つけや、自分への傷つけになっていると、私は思います。

よく知られているのは、自傷行為と言われるリストカットですが、鬱は決して自分だけしか傷つけない、他人や物への暴力はないと誤解されているようです。
どうしようもないことへの、苛立ちは、頭を悩ませ、心を苦しめます。
誰でも、経験のあることなのに、鬱だけ特別に思われがちですが、それは、『病気だから』と一般的に分類されてしまうからでしょう。

これをよく、知っていただけたら、何故『虐待』が起こるのか、少しは謎解きが出来るかもしれません。
私が考えるには、悩ませる辛い何かから逃げたくて、どうしようもない気持ちがピークに達した時、いわゆる『爆発』が起きて、その矛先が暴力になってしまっているのではないか、ということです。
その対象が、自分であれば『自殺未遂』、『リストカット』という形に現れますし、他人であれば、『傷害』や『虐待』となるのだと思います。
しかし、対象が違っても、ココロの叫びは、どちらも同じ「助けて」というメッセージでしょうから、周囲の人が、手を差し延べてあげなければ、当人を救えません。
実際に、樹海に迷った人を見つけて、救済しない人は、多分いないと思います。
救済の方法も必死で探すでしょうし、助けられるまで、諦めることもないでしょう。
同時に救済を求める人の体や精神状態を観察して、自分一人で助けられるか、あるいは自衛隊やレスキュー隊への応援を頼むか、どうかと考えると思います。
同じように、暴力や虐待をする人、自殺未遂を繰り返す人の状態が、鬱から起こっているのだと解れば、当然、救済の仕方を考えて頂きたいと私は思います。
『病気だから』、『助け方が解らないから』ではなく、自分に出来ることはなにか?誰に?どこに頼めば助けてもらえるか?と考えてあげて欲しいと思います。
まず、出来ることは、助ける側が冷静に観察しなければいけません。
次に、相手が何を求めているのか?どうやって助けて欲しいと(何を悩んでいるのか)をキャッチします。
それには、やはり専門の人に知恵を、借りながらでなければ、少し難しいかもしれません。
でも、本当に助けてあげられるのは、助けて欲しいと思われている人なのでしょう。
鬱の場合、誰も必要ないと本人は言ったりしますが、実はその言葉を投げかけている相手だということが、多うにしてあります。
それぞれ、望む相手や方法が違いますから、これをしたら救えるとは、一概に言えませんが、一人でも多くの人たちの手が、救いになれると私は思います。
くれぐれも、中途半端な気持ちでは出来ないと、理解して頂きたいと思います。

2011年3月23日水曜日

何をもって不謹慎と騒ぐのか

不謹慎について11日以来、現況誰もが他人事とは思っていないだろう。
しかし次々に報道される死者数や惨劇映像、止まない地震速報等に困惑し心理的に萎縮している。
そして理性を保とうとする余り否定的な考えばかりが錯綜して何もかもを不謹慎と思い込んでいる。

ではNZ地震の被災者は、未だ見つかっていない事は他人事なのだろうか?

宮崎県や九州地方に於ける、霧島連山噴火の被災者や鳥インフルエンザ養鶏被害農家、こうてい疫被害農家は他人事なのだろうか?

災害の規模や被害者数が人々の関心指数なのだろうか?

どんな悲惨な災害も事件も日常茶飯事、世界中で起きている。
例えば、直近の事件ではエジプトやリビア中東諸国の独立解放デモや各国の内乱や戦争は
いつまでも治まらない。
その上、軍事国家から逃げ惑い難民キャンプや瓦礫の中で食べる物もなく、貧困や飢餓に苦しむ人々は未だに後を絶たない。

ある国では内戦が治まらず、人道支援のために先進国から軍隊を派遣し、治安統治が行われている。
そこでは産業も何もないためにお金を稼ぐ手段がない。
そして大人たちは戦争に明け暮れ、大量のストリートチルドレン(浮浪児や孤児)が国中に放り出されている。
ある子供は先進国の人々にお金を集り、ある子供は残された母親や小さな妹弟のために先進国の人々が排出したゴミ処分場に残飯を漁りに行く。
今も彼らは同じ毎日を過ごしている。

日本人はそう云う立場に置かれた世界の人々をどれくらい知っているんだろう。

それこそ、今ネット上でスローガンのように皆が書き込んでいる
「私たちには何も出来ない、小さな力」
だから、対岸の出来事と思っていないだろうか?

今回の大地震と同じく、ハイチ地震の災害規模は世界レベルの非常事態だった。
しかし、実際その時周りで見聞きしたのは「ハイチって何処の国?」や「どんな国なの?」だった。
隣のドミニカ共和国はサッカーで知られていたが、島を二分したハイチについては知られていなかった。

その時、この日本では誰か『不謹慎だから自粛しろ』と騒いだだろうか。
私は被災していない地域の人々が健全に生活出来るにも関わらず、何もかもを混同して『不謹慎』の一言で不健全な精神状態になってしまうのは最悪の事態だと思う。

それよりも、もっと前向きな言葉を真剣に一人一人が今一度考え直してはどうだろう。
健全、優しさ、思いやり、真剣、真面目など。
あるいは喜怒哀楽。
喜ぶとは何か?
怒るとは何か?
哀しむとは何か?
楽しむとは何か?

私は日常的に絶対に使ってはいけないと子供たちに教えている言葉がある。

それは3つの言葉
「ウザイ」 「キモイ」 「死ね」

ほんの軽いノリで他愛なく、相槌の様に使っているのかもしれない。
しかし決していい意味の言葉ではないことも皆、知っている筈だ。
そんな人(自他共に)を攻撃するような言葉を使うことこそ、『不謹慎』だと思う。
それを今まで誰も疑問に思わず、日常会話として吐いていたことを考え直して欲しい。

もう一つ、私がいつも本当に『不謹慎だ』と感じていたこと。

お葬式の参列者について
私は仕事上の取引先だけでなく、近所や知り合いの人のお葬式に出席する機会が子供の頃から多かった。
親族はどうにもやり切れず涙が止まらないのだが、それを出棺まで待っている人たちや受付をやっている人たちはヒソヒソと世間話をしたり、井戸端会議を笑いながらしている光景を毎回目にする。
時に周囲の反応を気にしながらキョロキョロと様子を伺いつつ私語を慎まない。
あくまでその現場は人が亡くなり、目の前で遺体が棺桶に安置されている真っ只中。
亡くなった方や残された親族とは生前からの交流があり、これからも多少なり付き合いがあるであろう。
相手の身になれば、お葬式の最中は笑える心境でない筈だ。
そのような不謹慎な人は、どんな気持ちでご焼香をしているのだろうと、私は顔を見る。
そして「所詮自分の事じゃないから、とりあえず形式的に」してるだけだと感じた。

せめて出棺を見送って、その場から離れるまでは静かにして居なさい。
それが退屈で出来ないのなら、居る事の義理を立てずにご焼香だけ済ませて、さっさと帰りなさい。
死者と遺族に対しての冒涜だと分からない人間は、そもそも参列をやめなさい。
いつも私は心の中で、この社交辞令と建前の光景に情けなさを抱く。


学校行事参加の保護者について
入学式や卒業式に参列する保護者は、非常にうるさい。
式典は時間が長いが、始まる前は勿論、式の最中にもおしゃべりが一向に絶えない。
子供たちは練習の時や日常的に『静かにしなさい』、『場をわきまえて私語を慎みなさい』と言われている。
しかし、その保護者たちも自分が子供だった時や社会に出てから『私語を慎め』と教わってきた筈だ。
いつから場をわきまえ、私語を慎まなければいけない道徳を忘れてしまったのか。
子供たちはそういう大人を見て育つ。


さて何をもって不謹慎と騒ぐのか?ということだが
重要な場にそぐわない言動、行動を慎まないこと と思う。

あまりに過剰反応をし過ぎて、何がどうなのか判断が付かなくなっている。
それは普段から自分がどの様な事が適切で、どの様な時に不適切なのかを深く考えず
曖昧な社会的風潮に流され、それが『普通』であり、自分は人並みに沿って生きていると過信してきた結果ではないだろうか。
人は先入観や固定観念も存在し、そして群集心理や間違った集団的結束は非常事態時に起こりやすい。

この災害で生存した人々にこれからやってくる苦難は計り知れない。
実務的な問題は目に見える再建、例えば住まいや実質的な生活費用の工面から失業からの復帰と分かりやすいが、精神的な問題は喪が明けるにも時間が掛かる。

PTSD 心的外傷ストレス障害は簡単には治らず、和らぐことはない。
現地被災者も災害援助者も死者の数より大幅に上回る人々が、真の意味でのうつ状態に陥ることは明らかだ。
そして、実質の体験者でない非被災地の人々も間接的に同じ様な状態に陥る可能性はある。

だからこそ、今見守っている私たちはこれからやってくる不安事態に備えて心身共に健全に
そして喜怒哀楽の五感を鈍らせず、あらゆるエネルギーを蓄えておこう。
一人でも多く健康であれば、一人でも多くの傷を負った人を助けられるのだから。
自分が元気でなければ、何も出来ないことを忘れてはいけない。

本当に必要なのは、気休めも口先だけの慰めでもなく
しっかり心の手を繋ぐことだ。
その繋いだ手が震えていたら、こちらはぎゅっと強く握り返すことだ。


色々な事を不謹慎と思い込んでいる人へのメッセージ

私たちが泣いてしまったら、相手は泣けなくなる。
私たちが笑うことや楽しむことを止めてしまったら、相手は元気でも病気になってしまう。
私たちが混乱してしまったら、相手は何も助けを求められなくなる。

それは「自分のせいで相手にまで辛い思いをさせてしまった」と罪悪感に駆られてしまうから。


私たちは負けないと強く思うなら、些細な書き込みや周りの出来事で余計な争いをしてはいけない。
地面や建物が崩れたからといって、人間関係まで地震を起こして崩してはいけない。
人のために役に立てる人間になるには、まず、自分の事を自分できちんと出来る人でなければならない。
それは自分さえ良ければ良いということではない。


誰かが 「これは不謹慎じゃない」 って言ってたからと人のせいにしないで、やって良い事と悪い事の判断を自分の責任できちんとすることが大切だ。
それこそが 『自分の事を自分できちんと出来る人』 という意味だ。