2013年6月18日火曜日

精神疾患者と精神科医について

他愛もなくテレビドラマを観ていて、ふと感じたことを書こうと思った。
『LIE TO ME』 というドラマだが今回の内容は、妹が金の為に兄を遺伝性の統合失調症患者に仕立て上げ、精神病院に生涯入院させようとしたものだった。


『17歳のカルテ』 にも似た内容だった。

精神科医は患者を目の前にし異常か正常かを判断しなければならないが、それを何で測っているのだろうか。
家族や周囲の人間が、『精神的におかしい』 と訴えると、いつ、どのように、何が変だと感じるのか精神科医は質問し、家族や周囲は何に困っているのか聴き取る。
だが、おかしいと言われている 『患者』 とされる人間には単刀直入に、「あなたは周囲からおかしいと思われ、困っていると言われていますよ」 などとは決して精神科医は言わない。
患者側には観察と問題行動とされるものへの抑制しか与えられない。


原因がどこにあるのか?
それを精神科医は観ているのだろうか。
随分と前からこの辺りが、私には喉に刺さった魚の小骨のように引っ掛かって仕方がない。

診断と治療の元となる 『原因』 それは診断基準という物差しだけしかない。
精神鑑定や精神分析を繰り返し行うことはない。
それは人の精神ほど不安定で移り気なものはなく、異常状態とされる時には明確な分析が不可能な為、一定期間の観察の後でしか行えないものだからだ。

では、17歳のカルテの少女たちは時代の風潮や常識と云った非常に曖昧な価値観によって 『人格障害』 にされ、ドラマでは策略という裏側に隠された手口によってマフィンに幻覚剤を混入された物を何の疑いもなく食べた人の実父が統合失調症患者だったと云う言い分によって 『遺伝性』 とされた、この問題をどのように精神科医は診ていたのだろう。

誰の中にでもある憂鬱感や孤独感、あるいは優越感や幸福感。
人の歩む人生に平坦な道はなく、学校の入学や卒業、恋愛や友人関係、就職や失業と様々なアップダウンの中で平穏に暮らそうとしながらも、楽しさを求め、刺激を求めながら誰もが生きている。
忙しい時期には悩みや休む間のないことも時には続き、やっとゆっくり出来ると思えば暇で仕方なくなり、常に何らかのいわゆる 『波』 のある生活をする。

当然のようにその時期が長引けば、それなりに何かを心に抱くものだ。

それらを過敏に感じてしまうのか、適当にやり過ごしてしまうのかは人それぞれだ。
そうなれば、精神科に足を運ぶという現実に至る 『原因』 はいつ?どのタイミングなのだろう。
最近、「メンタルが弱い」という言葉をしばしば耳にするが、そもそもメンタルという物差しは一体どのような目盛りなのか知りたいと思う。
以前の記事で、『心が折れる』 という言葉について書いたことがあるが、何故次々と人々は精神面のことばかり話題にしているのだろう。



私が思うところは、そんなに精神面にばかり気を取られていると本当は精神障害でも精神疾患でもないのに、暗示に掛けているようなものだと云う事だ。
時代が不安定な訳でも、経済が不安定な訳でもなく、人々の心が取り留めもなく掴み処のない漠然とした自己や他者との価値観が不安定にさせているだけだ。
100年以上経っても原因の判らない病気は未だ数多く、薬剤もあまりなかった時代に比べると新薬の開発が急速に進み過ぎていることにも大きな原因はある。

何故、傷を早急に消し去ろうとしてしまうのか?
人間には自然治癒力があることを知っていながら、何故 『精神』 に対して慌てて直そうとすぐに抗不安薬や抗精神病薬を処方し服用してしまうのか。
内臓疾患はある程度の技術で発見し、たとえそれの原因が不明であっても治療法や対処療法は必ずしもではないがある。
しかし精神に関しては、確固たる原因を突き止めるには明らかな脳疾患の異常が発見出来なければ診断することも危ういものである。

性格による傾向なのか、何らかの疾患による傾向なのか、また第三者の錯誤なのか実態なのかを見極めるには時間が必要だ。

私が考えたいのは精神科医の目だ。
その精神科医も人である以上、固定観念や先入観が全くないとは言い切れないからだ。


それからもう一つ、WHOやCDCによる診断基準や検査法だけに頼りきっていることも非常に疑問を抱く。