2012年6月12日火曜日

『親学推進』に関する問題点

これは、私がツイッター上で連続ツイートしたものをまとめた内容です。
そして、この文章の後に、短編的でない思うところを書きます。

---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

『親学推進』に関する意見:核家族化が進んで、どうやって子育てをしたら良いのか戸惑う親は沢山居る。しかし 『親』 というものに確固たる像は画一的に表現出来ない。
それは各々が育った環境や生い立ち、親から受けた価値観の影響が大いに関係しているからだ。正しい子育てなんて何処にも存在しない。

しかもこの親学推進協会が主催するセミナーには受講料として14680円(テキスト代込)が必要。更に親学アドバイザー認定などと民間資格を与える講座もある。
親学を学んでアドバイザーになって『私は親育てのプロです』と講義する、この構図どこか矛盾している。

それならば児童心理学や発達心理学、児童精神医学は必要ないのか?また青年心理学や行動心理学などあらゆる心理・精神科系の学問は学ばざるとも『親学』のみで子育てのプロになれることになってしまう。

破格の受講料を徴収し『アドバイザー資格』を対価として与え、戸惑う親たちに「~であるべき論」を唱え、その通りに成長しない親子が存在するような結果になったらどう説明するのだろうか?

世の中にもっと劣等感や失望、絶望感を抱える親子を増やすだけの結果になるのは火を見るより明らかだ。
「親学を勉強したのに、私には出来ない」そんな事を感じさせた責任を関係者はどう取るのか?
結局、本人の能力不足として責任転嫁するのがオチとしか考えられない。

背景としては政府や児童相談所関係者が 『虐待』 や 『こどもの自殺』 に対応しきれない現状をどうにか対応しようとしている焦りと努力をしている言い訳の舞台を作り上げたに過ぎないのではないかと感じられてならない。故に専門的な分野の講師が役員名簿に殆ど居ない。

それを大阪維新の会が条例に発達障害者にまで含めようとした事は浅はか以外の何者でもないと児童精神学会が要望書を提出したのも当然のことだ。

育児ノイローゼは、少なからず誰もが経験し通る道でもある。
また産褥期うつも多かれ少なかれ経験する。
しかし問題はそれが長く続き抜け出せない結果、親自身が精神的に追い詰められてしまうことにある。親が鬱状態で自傷行為をするかこどもを傷つけてしまうか。

そうなれば、もはや 『親学』 の領域では解決する手段はない。
そうなる前にアドバイザーが予め学ばせようと言うのがこの趣旨だ。
しかし金銭を支払い 「親になること」 を学ばなければ親の自覚を持てなかったりするのは、どうしても違うと思えてならない。

※文中の講座費用は、このつぶやいた時点での情報であり、現在掲載されている金額とは違います。
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

その親学推進協会のホームページを一覧してみた。
http://www.oyagaku.org/#

そこに親学アドバイザーの活動というタブがあり、内容を読めば、
『親学アドバイザーとは、親学(親としての学び・親になるための学び)の基本と基礎的なコミュニケーション・スキルを修得し、親学勉強会の運営や、子育て・親育ちに関して適切なアドバイスができると親学推進協会が認定した方のことです。』(親学推進協会HPより引用)
と、書かれてある。

一体 『親育ち』 とは何だろうか。
そんな日本語はない。
人として、一般的な社会的立場や、いわゆる常識と云われるものや大人として、また上に立つ者としてのある程度確立された価値観を持っていなければ、親にはなれない。
既に、子を持った時点で、その年齢が何歳であろうと社会的立場は親権者であり、すべての保護監督責任者として生きなければならず、誰でも 『親』 にならなければならない。

それを、育っていないから 『親育ち』 などと、造語を作り上げるのならば、この世の中、大人が居ないと云う事になる。

では、親学推進協会に所属する人や親学アドバイザー認定資格を有する人だけが 『大人』 なのだろうか。
未熟な親になりきれない親を育てようとする意向は、理解できる。
しかし、それがたとえ傍から見て未熟であれ、世間の価値観からしたら非常識であったとしても、それはその個々の親となった人の自由な価値観であり、教育方針でもあるのだ。

また、誰が叫ばなくとも法が 『親権』 を定めているのであって、その法に反すれば罰せられる。

『親権』 とは、衣食住を与え、身の清潔を与え、健康管理に努め、自立を促すために生活の中からあらゆる事を教え、教育を受けさせ、社会の一員として生きる方法やルールを教え、守らせ、それらの事に従わせる義務があり、責任があることを云う。
そして、その親権は自らの個人的な利益のために乱用してはならない。
成人に達していない子が犯した罪は、法によって裁量され、親権者も同じく、適切な指導・監督を怠っていなかったかどうか判断され、問題があれば罰せられる。
時に、裁判でなくとも生活の中で、子が犯した罪は親の責任として、償う必要がある。

更に 『世界子どもの権利条約』 では、子が親から不当な扱いをされないように、子も一人の尊厳を持った人間として人権を保障する法律もある。


しかし、親権に関する法律を調べていくと、親は絶対的な国よりも大きな権力を持ち、そして併せて義務と責任が課せられている。
それに、子は絶対的に従わなければならない事がよく解る。
それは、親権者から子に対する親権を放棄する法律はあっても、子から親を放棄できる法律は、親がその子が 『生きる事=生命』 にとって、明らかな危険性や不利益があると立証された時以外には存在しない。


このように、詳細な法律を学ばなくとも、生活の中で人々は守らなければならないルールを身に付けている。

親学の目的は、こうした法律と一般常識論との間に立って、『親とは大体こうあるべき』 を言おうとしているのだろう。
しかし、それには何らかのヴィジョンとして模範像を示さなければならない。
ならば、その模範像はどう作り上げるのか?
それぞれが育った環境や生い立ち、土地柄や風習、先祖代々からの受け継がれてきた価値観は皆違う。
故に 『こうあるべき模範像』 は、誰にも作れない。
そして、生まれてくる子も皆十人十色育ち方が違う。


生まれてくる我が子が 「五体満足で母子共に健康で在りますように」 と願うのは何故だろう。
その中で、知的障害、発達障害、ダウン症、口唇口外裂、四肢欠損、先天性内臓障害と様々な状況で生まれてくる子どもたちが居る。
その親は、大変な絶望感を最初抱きはしても、「私が助けなければ他に誰が居る」 と自分を奮い立たせて必死で生かそうとする。
成長と共に増えだす問題は多く、時には疲れきってしまい 「もう嫌だ、うんざり」、「いつまで続くの?」 そう思ってしまう事もあるだろう。
それでも親は自分の良心に従い、また世話をする。

そう、親は子がどんな状態であっても皆同じ様に、また世話をするのだ。
その子が独り立ちするようになるまで。


親学推進論の中で、何故こと発達障害児の親だけに的を絞って、親の育て方の問題が招いていると轟々しているのだろう。
発達障害は、まだ何も解明出来ていないに等しい分野であり、大方の概要が示された指標に基づいて、今のところは児童精神科医も少なく、ごく少数の研究者たちによって対処療法が施されているに過ぎないのが現状だ。

皆、思い出してみると良い。
たった10年程前までは、 『子どもがうつ病になんてなる訳がない』 と、世間もどの医者も言っていた。
30年前には、 『子どもが頭痛になんてならない』 と、どの医者も偏頭痛を無視していた。
それが、今では大発見をしたかのように 『なる』 と言って、小児科も思春期外来もこどもの患者が殺到しているではないか。
それで?本当に真実の実態やメカニズムが解明されたのか?
答えは、NOだ。


小児科領域も精神に関わる問題においては、最も未開の領域であり、また他疾患に於いても未解明な問題が沢山ある。
性同一性障害は、DNAの突然変異によって引き起こされた発達障害である。
しかし性同一性障害は50年以上前に解明されてはいたが、これといった社会的問題が明るみに出ず、またその障害者自身や家族の適応の仕方に任されていた。
この時代になって、急激に問題視され、患者が増え、メンタルクリニック(精神科)の医師が対応し始めた。
しかし私はその診察を受ける子と医師に疑いを持つ。
ある子は、身体は女性で中身(精神)は男性だと悩み、学校も不登校ぎみで友達と馴染めない事を苦にしているという。
カウンセリングを受けていくうちに、友達と関わろうとある日、女の子たちを遊びに誘って、彼女はそこで聞いて欲しい話があると 『カミングアウト』 した。
一瞬、友達の女の子たちはビックリするが、「そういうことって関係ないよ。アタシたちは友達なんだから」 と言われ、告白した彼女は安心した。
その日から、明るさが徐々に出て笑顔が増えるようになり、学校にも行きだした。
しかし、メル友は全員女の子。
彼女の願いは、性転換手術を受けたいだった。

私はこの状況に立会い、疑問を抱いた。
本当の性同一性障害であるなら、本来、男友達を欲しがる筈だ。
男友達としか共有や共感できないものがあるにも関わらず、彼女の身の回りにはそう云った男性的嗜好の物がない。あると云えば、衣服か持ち物(例えばカバンなど)しか見当たらない。
彼女は、何らかの男性的嗜好傾向や願望を抱く問題点はあっても、同一性障害ではない。
その証拠が、生理用品を買いに行くのも、それに対処するのも違和感を感じていなかったからだ。


人には 『変身願望』 というものがある。
そして、男っぽい人、女っぽい人がいる。
性的嗜好も人それぞれに価値観が違い、同性愛者もいる。
しかし、そうした人たちの全員が同一性障害なのかというと、厳密には嗜好的なだけであって、障害者ではない。


このように、親の育て方だけで、こどもが変わるのではない。
子どもは、子どもの描く、自分の理想像や願望に率直に従っているだけなのだが、願望を遂げる為に障害を装ったり、それを受容してはならない。
その時、最も身近に生活し観察している親が、子どもの願望や欲望を見抜けずに、あやふやな記憶で誘導され、「そういえば、そうだったかもしれない」 などと思い込まされてはいけない。
そのためにも、専門医は、親子関係を客観的に観察し、真実の問題点を導き出す役割がある。


上記に書き上げた様々な発達障害をすべて 『親学』 で解決出来るものでもなく、また親の育て方一つで変えられるものではない。




最後にキーワード検索のトップにあったHPを紹介しよう。

名古屋市教育委員会事務局 生涯学習部 生涯学習課
http://www.manabu.city.nagoya.jp/about.html

この中にある、親度チェックを試してみると良い。
具体的な回答は出されず、すべて人それぞれの価値観だとしか答えは出てこない。
それならば、何のためにチェックするのかと感じ、『親度』 という尺度はどこにあるのか、まったく無意味としか考えられない。
こんな曖昧な定義しか立てられずに、『親育て』 とは、随分乱暴で、報酬まで受け取る一般財団法人を有識者と言われる人が得る、そのメリットとは一体何だろう。
胡散臭い民間資格認定講座は、山とある。

この法人が受け取った報酬は、単純計算上で、
H22年度650人が認定資格を取得したという掲載だから、全6講座で25,000円(税込、認定審査料5,000円を含む。別途テキスト代)×650=16,250,000円となる。
これを高いと思うか、安いと思うかは個人の価値観だが、25,000円を払いその他諸経費、時間を費やさなければ 『親』 になれないのならば、この国の義務教育の在り方に問題があると言わざるを得ない。


親の適性検査をされる時代がやって来た。
それは法と親権者に対する冒涜であり、母性や父性と云った本能から生まれる愛情を否定し、愛着形成の本能をもコントロールしようとする行為だ。

2012年6月7日木曜日

生活保護をめぐる問題について

自分のTwitterで思うところを呟いたものを下記リンクにまとめました。
【生活保護問題 - 河本氏に関する意見】まとめ@tgetter


数年前から生活保護に関しては、役所による受給申請拒否や路上生活者支援に始まり、今日では不正受給者問題も浮上し、国会で保護費削減が検討されるなど様々な局面が問題になっている。

人気芸人 河本準一氏の母親が保護受給者であったことから、河本氏の援助に関する問題が不正受給問題へと今、テレビやネットで大きく取り上げられている。
しかし、それ以前から私が問題視してきた事がある。


路上生活者が急増し、ネットカフェ難民という言葉も出るほど、生活保護受給に関わる問題は様々だ。
元々、法律上で家族・親族は相互扶助が義務づけられている。
相互扶助とは、生命保険、国民健康保険等の仕組みでもあるように、自分が困った時の備えに保険料を払い、それを困っている人に分配し、互いに助け合うというものだ。
家族・親族に於いては、互いに助けられるものをそれぞれが出し合い、生活をしなければいけない。
それは、金銭的なものだけでなく、たとえば家事を手伝う、知恵を出し合ってお互いを助ける、また健康状態が悪ければ、健康な者が病院に連れて行くことや、犯罪被害に遭遇した場合に相談し合うようなことも含まれている。
要するに、金銭、物資だけでなく生きることに必要な問題を互いに助け合いなさいという事だ。

故に、親子関係者だけでなく、兄弟、姉妹、祖父母も同居、別居に関わらず、親族はみな助け合って生きなければいけない。


しかし、孤立無援社会や核家族化が進む中で、同居家族もまた自分一人が生きるのに精一杯と云った実情は溢れるばかりなのが現実ではないだろうか。
そうした背景に、路上生活者が世の中に増える原因がある。
自分の家族が、いま、どこで、どうやって、生きているのか、死んでいるのかすら知ろうとも、知らせようともしない、また出来ない社会状況がある。

本来、家族がある日突然、音信不通になったら 『心配』 をするのが当たり前だろう。
しかし、今はうっかり心配をして捜索願を出そうものなら、多重債務から逃れるために社会から消えた振りをしていたのに、警察によって発見され、悪徳な取立て者に追われてしまうような問題があったりして、家族全員の生存権すら危うくなりかねないといったケースも少なくはない。

また、単身赴任で勤めていた会社からある日突然解雇され、離れて暮らす家族に言うに言えない問題から路上生活に至った人も沢山居る。

そして、家族と協調できず、自ら孤立を選んだり、家族から見放されたりした人も多く、職を転々とし、失った人も居る。

そうした人々があまりに多く、公園や高架下などの公共の場を生活拠点にし、自治体から追放され、行き場を失う問題が起こり、援助団体が立ち上がった。
しかし、その援助団体の中にも悪質な団体があり、居住地を提供する変わりに、生活保護費を全額徴収・管理し、こづかい程度の現金しか渡さず、劣悪な環境に体裁よく軟禁しているような状況もある。


生活保護は、まず、申請時に失業または疾病などによって働けない実態が示めされることが前提条件であり、その申請しようとする管轄区域に住民登録がされていなければならない。
住む家がなければ、申請すら出来ず、その住まいの家賃なども細かく条件化されている。

生活保護法の具体的内容は、その職に就いている人でなければ公開されず、暗黙の処理が多数存在している。
そこに詳しい人が支援団体を立ち上げ、真面目に助けようと支援活動を行っている。
生活保護ビジネスという言葉がある現在、それは分野が多方面に拡がっている。
行き倒れる前に助けようという支援団体
受給できる裏技と銘打つ書籍著作者
援護しようとする弁護士
受給者が得た、金銭、処方薬から利益を上げる裏社会
受給者を自立させる糸口のための社会活動の舞台を提供する会社
ワークグループ
挙げればキリがない程、この世には生活保護者に関わるビジネスが、表裏一体で存在する。



本当に自力で生きられないほどの理由に直面し、生活に困窮している人は何%いるのだろう。
それを援助出来ないという、生活保護を受給している人たちの家族・親族は何%いるのだろう。
これらを事実明白に世間に公表しようとか、統計を採ろうというのは不可能だ。
むしろ、それらの問題に群がるかのような社会の実態を調査し、円グラフに表面化する方が、まだ簡単なのではないだろうか?
社会福祉事務所のケースワーカーが、浮上する問題点を箇条書きでまとめ、生活の実態調査を現に受給している生活保護者からアンケートで回答して貰えば、ある程度の実態の統計が具体的に調査できる。

何故、国や各自治体はそれらの統計を具体的に計ろうとしないのだろう。
そして、メディアを通じて、国民に公表しようと試みないのだろうか。
ある市長や一部の国会議員の意見を、何秒間かのインタヴュー映像で公開したり、ネット上で公開しても何も真実は見えてこない。
聞こえ、見えるのは、断片的な一部分でしかない事に翻弄され振り回されてはいけない。



人それぞれに、生活観や価値観、家族問題を何かしら抱えているのだ。




最後に扶養義務に対して、ある成人女性に問題点を的を絞って、一つ問題定義したい。

彼女は幼く物心も着かない頃に両親は離婚し、父親に引き取られた。
父親は、毎日パチンコや競馬などギャンブルに興じ、アルコール依存症のため朝から晩まで酒を飲んでいた。
父親はアルコール依存を治療するために精神科に通院しながらも、時々お呼びのかかる日雇いの仕事をしていたが、生活費のほとんどを酒代とギャンブルに使ってしまい、娘の学校費や給食費は滞納していた。
彼女が小学校に上がった頃から、父親から性的暴力の被害に度々遭う様になった。
彼女は、酒を飲んで、気に入らない事を言えば暴力を振るわれ、性的暴行を誰かに話せば殺すと脅されて育ったため、誰にも相談できず、18歳まで過ごした。
高校卒業と同時に、父親には内緒で寮付きの会社へ就職し、家を出た。
それ以来、父親とは音信不通となり、疎遠関係になった。
職場で知り合った人と結婚をし、一児の母親にもなった彼女の所へ、見知らぬ住所の福祉事務所から戸籍を辿り、父親が生活保護を受けるようになったので援助を求める通知書が届いた。


さて、このようなケースの場合、あなたならどうしますか?
父親は、ネグレクト、身体的虐待、性的虐待、精神的虐待を与え、親権者としての義務を果たして来ていません。
父親の兄弟は、元々疎遠だった上に勘当され出て行った人間の面倒を見る気はないし、本人も関わりあいたくないと拒否している状態です。
そのような経緯があって、一親等である娘さんに扶養義務として連絡が来ました。

このような立場の人であっても、絶対的に扶養義務を断固として、『義務がある』 と強要しますか?
考えてみて下さい。


※注意:これは一つの実態に基づく仮説として、例を挙げたものですので、個人を特定するものではありません。また、私個人の体験によるものでもありませんので、誤解しないで下さい。

地域医療と医療現場

本日2012年6月7日付けのWeb さいたま新聞の記事
全小児科医が退職の意向 さいたま赤十字病院
http://www.saitama-np.co.jp/news06/07/10.html?utm_medium=twitter&utm_source=twitterfeed


この記事によれば、ハイリクス妊婦の受け入れや高度先進医療が必要な小児が問題となっており、常勤医師が全員退職した内容が書かれているが、その詳細は明かされていない。

しかし、ハイリスク妊婦や生まれてきた乳児を対応する小児科医不足の問題は後を絶たない。
その上、全国的に 『医師不足』 は問題となっている。
果たして、本当に医師はそんなに居ないのだろうか?
国民総人口あたりに対し、一体何人の医師で医療を支えているのだろうか?


私の住む地域は大都市圏であるが、焼く10年以上前に市立市民病院が7箇所あったうち、5箇所が医師不足、経営赤字などを理由に閉鎖された。
残る2箇所でも、同じく医師不足や看護師不足、経営上の問題から、診療科目や入院病棟が一部閉鎖されている。

昔この市民病院は、高度医療の窓口として、町のかかりつけ医と大学病院や専門医とのパイプ役を担っていた。
構図としては、
保健所 → 近所の開業医 → 市民病院 → 大学病院・専門医
と、段階を経て、患者に適切な病院を見つける事が出来ていた。
ところが、この構図は患者の医療負担や検査料、検査による心身的な負担が多いという事やこれがドクター・ショッピングに繋がる弊害になりやすい事が指摘された。

市民病院閉鎖の背景には、開業医から直接(連携医療機関として)大学病院へ紹介されるシステムが構築された事と、看護師の希望勤務病院が勤務条件や給与面で率のより高い私立病院へ就職してしまうところにある。

医師不足とは言うものの、私が命名した 『ホスピタル・ストリート』 という地域が数多く存在する。
そこは、新たな土地開発によって出来た新興住宅街に多く、一般内科、歯科、耳鼻科、眼科、皮膚科、整形外科、そして院外薬局が隣接し、メインストリートの両端に点在している。
この科目は、ほとんどが医学部・薬学部で専攻し多額の大学費用を費やす分野であり、その開業医の経歴の多くが少数の大きな病院での研修期間を修了した後に、現在に至ると云った具合だ。

恐らく、入学した大学病院で教授(医局)での勤務体制や人間関係に労を費やすより、法定で定められた修了期間をクリアし、財力のある人が開業した方が早く、学費の回収に繋がるという理由が見受けられる。
そして、医者はボランティアではなく、病院経営の経営者であり、事業主でもあり、これは立派なビジネスとして成り立っている。
故に、医薬分業となった現在では、大抵開業医の隣に処方箋薬局が隣接しており、医師と薬剤師と製薬会社は連携してビジネスを展開し、その頂点に立つのが院長先生なのだ。

高齢者と小児科児童(0歳~15歳まで)は、病気に罹りやすく、風邪が流行れば抵抗力の少ない年齢層でもあり、患者(お客様)は必ずやってくる。
併せて、予防注射の摂取対象年齢層でもある。
そこから、資力と着眼点の鋭い院長先生は、高齢者介護ビジネスを一つ、また一つと展開し、周辺に開業されている他科開業医に紹介をし、紹介料と診療報酬を得るという需要と供給を展開するのだ。


こうなると、公立の市民病院の存在意義や医師の人気は激減するのも当然だ。
上記の 『ホスピタル・ストリート』 に唯一存在しないのが産科・婦人科であり、開業されている産科・婦人科も今ではハイリスク妊婦の受け入れを公然と断っている。

母子共に健康で生まれてくるのが当たり前ではない時代を物語っている。
原因は一部に、医療機器が高性能になった事によって、胎児検診の時点で高率に問題を発見し易くなった事にある。
早い段階で異常が発見できることは、その後の経過や生んでからの対応の仕方に対して心構えを整えられる利点の方が優位であるにも関わらず、それが故に医師は 『万が一の事態』 命に関わる事に恐れをなしてしまう。

医療事故は、故意に起こす問題も明るみに出ない問題点も確かにあるが、誰もがわざと起こしているのではなく、ほとんどが過失によるものである。
しかし、患者感情としては、故意であれ過失であれ、そんな事よりも一生背負う事に問題がある。
医師は神様ではない。
けれども医師には倫理と照らし合わせ、真摯に対応しなければならず、いかなる間違いも許されないのは、『命』 の裁量を預かる存在である。

産科医の立場になれば、まだ未開の医学である現状で、敢えてハイリスクは負いたくない。
ハイリスクを抱えた患者の立場になれば、それが未開であったとしても藁をもすがらねば、生きてゆけない現状。

その両者の橋渡しをしていくのが、医療コーディネーターの役割であろう。
しかし残念な事に、その医療コーディネーターは病院に雇われた、病院側の人員であって公正中立な立場とは表向きの綺麗事なのが実態である。
両者の事実を知りつつも、病院側に不利益となるような事は患者に伝えられない。
もし、伝えなければならない事態に遭遇した場合は、医師の判断によって医師自身から患者へ伝えることが原則だ。



見えてくる地域医療と医療現場の問題点が、お金であることが分かる。
残念ながら、命=財力であることは紛れもない事実なのだろう。

公立病院が倒産する背景には、私立大学病院の事業拡大、有能で有益な医師の獲得もある。
儲けるため、食べていくため、地位を築くため、それぞれの思惑の中にある医師たち。
果たして、置き去りにされる患者たちは、誠実に、純粋に、命を助けようと思っている医師にどうすれば辿り着き、巡り会えるのだろうか。


すべては、倫理観と価値観に懸かっている。