2012年12月15日土曜日

無意識の中の意識とは

私と親しく交流して下さっている方のブログ記事に大変興味深い文章がありましたので、そこから精神分析学、臨床心理学としての私見解をご紹介します。

An onymous氏 Blogger / 十字架の現象学
http://office-maria.blogspot.jp/2012/12/6.html
ニーチェ箴言散策集・私家版 (6) より引用 
ハイデガー現象学 未完の大著『存在と時間』第一部第一篇第十三節に、次のようなくだりがあります。
或るものを忘却したときには、以前認識されたものとのあらゆる存在関係が一見消え去ってしまうように思われるが、そうした忘却さえ、根源的な内存在の一つの変様として概念的に把握されなければならないのであって、すべての錯覚やあらゆる誤謬も同様なのである。(原佑訳)
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フロイトの人格構造論では、意識されている自分の中心的まとまりである 「自我」、抑圧されて意識されない無意識的な欲動の集積である 「エス」、そして自我から派生し、自我を監視する相対的に独立した内的人格である 「超自我」が設定され、それに 「現実的外界」 を加えた四要素の相互関係から理論が展開された。
※山中康弘氏、名取琢自氏執筆(臨床心理学:馬場謙一氏編より)Ⅱパーソナリティ論 p.12より抜粋引用
人格とは、自分自身の中にある3つの 『自分』 と外的要因によって存在する 『自分』 この4つから形成されているということだ。
更に、本著者馬場謙一氏は、 『3 異なる学派と本書の立場』 の中で次のように述べている。
③対人的かかわりの重視
人間の精神現象は、自然現象と違って、純客観的に観察することは不可能である。(中略)
自己の行動のみならず、自分が無意識的にもらす私的な感情や考えが、相手にどのような影響を与えているかをたえず内省してみることが大切である。
④症状の意味の重視
力動的な臨床心理学は、症状のもつ隠れた意味を重視する。つまり、症状の背後には、本人も意識していない意図や動機が潜んでいると考え、表面的に現れた症状よりも、それらを探っていくことに大きな関心を向ける。(中略)人間から切り離された症状ではなく、症状の背後の人間それ自体であるといえるであろう。
※臨床心理学:馬場謙一氏編 Ⅰ臨床心理学とは何か p.7より抜粋引用 
これは、あくまで治療者と患者を前提とした文書ではあるが、セルフコントロールと云う自分自身との対話によって自分と上手く付き合う方法としても現場で用いられているものであり、且つ日常生活に於いて何らかの問題に多少なり向き合う場面で大いに役に立つ知識のひとつでもある。

さて、ハイデガーによる現象学の内容を臨床心理学的に解説すると、忘れる事と覚えている事には内在する 『自分』の中にすべてはあるということであろう。
それがたとえ、錯覚であれ、勘違いであれ、何であれ、本人が感じた事は原因や理由よりも確かな事だと言えよう。


人は、 『見る・聞く・嗅ぐ・触る・味わう』 この五感によって自分を解っていると思っている。
所謂、視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚だが、それが必ずしも正しい情報として機能し生存しているのではなく、実は曖昧な感覚の中で割りとあっさりとした判断をしながら日常を過ごしているのだ。
社会学では、ステレオタイプと言うが直感や主観といった 『感覚的判断』 あるいは 『感情』 によって選択し、自分が感じた事や他者からの行為や動向をいちいち検証していては一向に物事が進められず、また神経も疲れてしまう為に 『適当な判断』 で精神的に丁度良い状況で居ようとする傾向がある。
故に、馬場謙一氏が著書の中で 『純客観的に観察することは不可能である』 と解説しているのだ。



そこで無意識の中の意識とは一体、どのような状態なのか説明しよう。
フロイトは夢分析で広く一般的にも知られているが、人間は目覚めている時だけ意識がはっきりしているのではなく、寝ている状態でも脳波動によって仮覚醒意識があることで夢を見る。
それと同じく、目覚めている状態でもふと意識がなくなったかのような感覚や眠っていたかのような 『空白の一瞬』 がある。
それを一般的な感覚では、 「ぼーっとしていた」 とか 「ふっとした時」 のように感じ表現している。
ナルコレプシーや睡眠時無呼吸症候群といった病気だけでなく、疲労やストレス、あるいは脳の疲れ、全身の血流によって変動している場合、生理的・身体的反応として自分の意識とは別の無意識で起こる現象である。
精神分析や心理学的な無意識とは意味が違う。

深層心理と言えば、ピンとくるかもしれない。
深層心理は自分の潜在的な心理を意味し、生い立ちや育った環境、幼少期の体験や与えられた概念、集団生活下の中で受けた疑いなき観念などがそれに相当する。
幼い頃に受けた影響は意識的に記憶することはなく、潜在的に精神の核(自我)へ記憶され、殆どの場合、覚えては居らず、ぼんやりとした触感にも似た感覚で宿っている。

人は視覚からの情報が脳へ伝達され、長期記憶と短期記憶へ振り分けられるが、その時他の感覚や感情も取り込まれる。
この感情が記憶としては一番強く印象的に残っており、脳の記憶箱から呼び起こされる時に思考は 『事実を言語化』 して動くのだが、言語よりも感情の方が根深くあるにも関わらず思い出しにくいものなのだ。
フロイトが精神分析に用いた 「お話療法」 というものは、ある物語(出来事)からその時抱いた感情を引き出そうと試みたものだ。
そして、現に抱える患者の困難の根源を探り当て、語り手本人に気付きを与えようとする方法であり、今日でも精神科で行われる心理療法や森田療法もそういった手法が取られている。


「あの夢は何だったのだろう?」 とか 「自分はどうして?」 と悩んだり、考えても、本来は答えは見つからない筈のものを人々は知りたがる。
それは実感し難い潜在意識が気に掛かるからだ。
また挫折や失敗を経験すると、それは心の痛みとなって精神的に回避出来る方法を習得しようとする情動から生まれることであり、 「あの時、何故あんなことに…」 と考えるのは本能的学習なのかもしれない。
それは恐怖心や猜疑心といった得体の知れない事への不安から湧き上がる当然の感情であり、人は常に恐怖心の中に居るのだ。

高等動物である人間は、物事を言語的に捉えることで実感しながら確認し、是か非かを判断しなければならないような複雑な思考作業を絶えず行っているにも関わらず、実の所、是か非かの二者選択的思考に惑わされている。
生まれてきた時、人間は視力が弱く嗅覚の方が発達している為、敵か味方か、危険か安全か判断する能力が非常に高く、赤ん坊はまず最初に 『嫌』 の箱を脳に備えている。
未経験・未発達な問題に対し、危機回避能力を発揮しなければならず 『きらい・嫌だ』 という感情が芽生えることから始まる。
約生後1年で、その嫌いを経験し、同時に好きを体験して行く。
生後3年に達する頃には、その好きと嫌いの箱が約50%ずつ完成される。
この頃 『自我』 が芽生え、振り分け作業が開始し、生後5年には大方の概要が形作られる。
外的要因によって振り分けられた 『概念』 というものは約10歳で完成し、自己理想像の決定もこの頃形成されている。

これが人格形成の基盤となり、外見的には性格として、自己・他者の両方から判断されるものとなる。

この生後10年間によって作られた、好き(善)と嫌い(悪)の箱は生涯、殆ど形が変わることはない。
それが深層心理であり、潜在意識なのである。



無意識の中の意識は、訓練しなければ意識することを獲得出来ず、曖昧な判断や意識によって揺れ動いているかのような錯覚の中にしか意識することは出来ない。
ハイデガーのいう、
根源的な内存在の一つの変様として概念的に把握されなければならない
と一致するまたは合致し得る点なのではないだろうか。


私の見解では、人の精神構造は感情論が約90%を占めていると考えている。
しかし感情は本能とは全く異なるものというのを踏まえて頂きたい。



〔参考文献〕 臨床心理学(弘文堂入門双書):馬場謙一 編(平成7年11月30日初版/弘文堂)

『学校に行く理由』~学ぶ意味とは

最近、また連鎖反応のようにいじめが問題で子供の自殺が増えている。
そもそも義務教育は何のために在るのか、子どもたちに教える教師も親も少ないと感じる。

何時の時代でも子どもの口から 「学校に行かなきゃいけない理由が解らない」 や 「勉強しなきゃいけない意味が解らない」 を耳にしてきた。
長く生きていれば、人生は楽しい事よりも苦しい事の方が多い事が理解できるのだが、まだ未発達で未経験の多い子どもたちには、楽しくない事を苦しんでまでやらなければいけない理由など解れという方が無理だ。

勉強とは、点数を取ることではなく、生きる知恵や生活するうえで最低限必要なものを身に付けること。
学校とは、自分の好きな仲間や楽しみだけでなく、社会の仕組みそのものを体験する場である。
故に、人間関係の練習の場であり、先輩、後輩、同級生の縦社会の人間関係や教師とのやり取りの中で大人社会を実体験するものであり、そこに 『楽しいこと』 だけがある訳ではない。

それらの問題への取り組み方を教えながら、気付かせながら、誘導していくのが私たち大人の役割だ。
しかし、実際の教育現場や家庭では、それら子どもたちの考えている事に耳を傾け、心の中で何を思い、日々を過ごしているのか観察してはいない。
教育指導要領に従って、とにかく授業に遅れが出ないよう、まるで大学の講義かのような速さで進め、テストによって点数をつけ、高校受験へと押し出すことしか学校では行われていない。

中学は国が定めた義務なのだから、教師は問題なく生徒を卒業させるのではなく、社会に出るに当って、どう生きる必要があるのか教える義務がある。
生徒は、義務である前に 『教えて貰う』 権利があるのだから、どんどん疑問を投げかけ解決していけるように助けて貰う義務がある。
そうは言っても、どちらとも関わりあいたがらない ウザイ関係 では、どうしようもない。


高校進学率が98%と、世界的にも高い水準でありながら、その実態は内容のとても薄い物で、唯高卒の資格を得ることでしかない。
その一方で、中退者率は何%に及ぶのだろうか。

文部科学省 平成21年12月22日発表の
平成20年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する 調査」等(小・中学校不登校の確定値及び高校長期欠席、 高校中退の数値の訂正値)の公表について
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/21/12/__icsFiles/afieldfile/2009/12/25/1288459_1_1.pdf
を読まれると良い。

この中で、公立、私立共に在籍者数に対し、不登校者率1.5%、そこから中退者率は全体の約2%と統計が出されている。
この結果をどう捉えるかが問題だが、たった2%しか中退者がいないとは、到底思えない。


私立に於いては、入学金や入学支度金、授業料に高額な金銭が必要で、それは学校運営の大切な資金であるのは言うまでもない。
それでいて、最初に徴収したものや退学するまでに収められた授業料分に見合うだけの教育や相談を与えていたのかと正直に問いたくなる。

いまや高校は世間的に義務教育と同じく、アルバイトをするにあたっても 『高卒以上もしくは高校在籍中』 が条件になっている。
それでも退学を望む子どもたちに、何故必要なのかを教えられないのだろうか。

上記の文部科学省発表の文章一つでも、 『読める』 のだろうか?
『読める』 とは、内容を理解出来ることであり、状況を知る、実感することである。


そもそも義務教育期間の9年間は、友だち作りや思い出作りの期間ではなく、それらは余禄なのであり、高等教育を受ける高校進学のためや大学入学、果てはブランド企業就職のプロセスに利用するものではない。それらは結果であり、余禄に過ぎない。
義務教育で教えられる科目を真に理解し、記憶し、応用出来たならば高校進学は必要ではない。
それ程までに基礎学力は、社会へ出てどのような職業に就いたとしても、起業したとしても重要なものであって、必ず 『読み・書き・算数』 は必要なのである。

ある小学校教諭が、テストのクラス平均点が悪かった時に、
『お前ら、このまま勉強出来ないでいると道路作業員とか現場作業にしか就職出来なくなるぞ!』
と、発言したことがある。
これは大きな間違いだ。

例えば、現場作業員と云えども、その職種や役職は様々あり、現場監督になった場合作業工程を確実に把握していなければ納期に遅れが生じる。
その時に、作業員を取りまとめ、年齢や経験、性格などを考慮し配置を考え、作業を進める計算をしなければならない。
また、従事者側もある程度の寸法や重さ、時間などの計算、支持される言葉の理解、材料の調達の分量計算、注文書・納品書・領収書など最低限必要な文字も読めなければいけないし、伝票や報告書・日課票への記入など書けなければ困るのだ。
言葉は汚いが、彼らは教師が思うような 『脳なし』 ではない。

日本の計算式や寸法の取り方には独特のものがある。
『尺』 がそのひとつだ。
家屋の間取りが最近では洋風にはなって来たものの、やはり図面を引く際に 『三尺六尺』 で計られている。
三尺=90cm、六尺=180cm。
畳一枚がその寸法であり、6畳間は縦3m60cm×横2m70cm。これが原型となる。
押入れは、ふすまが2枚であれば一間、1枚であれば半間と言うのだ。

※注:この寸法は、京間、江戸間と呼ばれる計算で若干地方によって誤差がある。

今では鉄筋コンクリートや2×4方式と云った建築様式によって、柱を自由に設計し、このような寸法でなくともワンルームやバリアフリー構造住宅の建築も可能になった。
しかし元来日本式の床に座る、畳の生活に長年馴染んでいるため家具などの調度品もそれらの寸法に合うように未だ造られているのだ。
布団は畳同様の寸法、シングルならば約90×180、ダブルは約145×180で製造されベッドも同様だ。長身の人が増え欧米化した体格に合わせて、長さだけが190cmや210cmも多く普及している。


こうした生活の中だけでも計算は簡単に必要なものだ。
そういう日々の生活から体験し、算数である 『縦×横×高さ』 を知ることはとても大切な事であり、算数や数学が苦手な子どもたちに興味を持たせる手立ては、実は身近な所にあり、脳の中に 『好奇心』 を沢山持ち合わせている小学生に何も難しく黒板やプロジェクターなど使用せずとも教えられるのだ。
体積や容積、立方体そんなものは、いくらでも身の回りにある。
ただ、教師になった人たちがこう云ったことを知らなければ、また興味を持たず教師になっていれば、マニュアル通りの勉強の仕方しか伝授出来ないのはしようがなく、また残念な限りだ。




子どもたちが将来どのような道を歩むかは、本人にも親にも、教師にも判らない未知の世界だ。
ならば、点数や評価主義ではなく、もっと中身のある身に付く勉強を与えてやらなければならないし、どの様な職業を選択したとしても可能なように導けるよう、私たち大人は世間を知らなければいけない。
与えられるがままの教育で育ってきた現代の大人たち。
子どもよりも世間知らずで、無知な大人たち。


『知恵は財産なり』
これを今からでも学ぼうと思う大人が居るのならば、きっと子どもたちに、子どもたちの目線に立って、学校に行く理由や勉強する意味を教えてあげられるのではないだろうか。

最後に一言。
一万円札ばかり勘定したり、眺めたり、宝くじで当たりはしないかと夢ばかりバクのように見て居らず、そこに描かれた人物福沢諭吉の有名な著書 『学問のすすめ』 をしっかりと読みなさい。
何故、人は学ぶ必要があるのか?
それは金持ちになるためではないと、ハッキリ書いてあります。
『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』
誰でも殆どの人が知っている言葉の本当の意味を、是非学び直して欲しいと願う。

生涯学習をするなら、まず自分の子、他人の子分け隔てなく、自分たち大人が全員で育てるのだと云う意識を持てば、必ず低学力やいじめなどの問題を解決する道は開ける。
まず、大人が学びなさい。
そして、子どもたちから現代史を教えて貰い、古臭い時代遅れの概念や固定観念を置いておき、古き良き日本の言葉や教え 『道徳』 を言い伝えなさい。


あなたが子どもだった頃、親や教師や周囲の大人が何を教え、与えてくれたのか、思い出して欲しい。

2012/10/23書きかけ項目だった記事です。