2012年12月15日土曜日

無意識の中の意識とは

私と親しく交流して下さっている方のブログ記事に大変興味深い文章がありましたので、そこから精神分析学、臨床心理学としての私見解をご紹介します。

An onymous氏 Blogger / 十字架の現象学
http://office-maria.blogspot.jp/2012/12/6.html
ニーチェ箴言散策集・私家版 (6) より引用 
ハイデガー現象学 未完の大著『存在と時間』第一部第一篇第十三節に、次のようなくだりがあります。
或るものを忘却したときには、以前認識されたものとのあらゆる存在関係が一見消え去ってしまうように思われるが、そうした忘却さえ、根源的な内存在の一つの変様として概念的に把握されなければならないのであって、すべての錯覚やあらゆる誤謬も同様なのである。(原佑訳)
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フロイトの人格構造論では、意識されている自分の中心的まとまりである 「自我」、抑圧されて意識されない無意識的な欲動の集積である 「エス」、そして自我から派生し、自我を監視する相対的に独立した内的人格である 「超自我」が設定され、それに 「現実的外界」 を加えた四要素の相互関係から理論が展開された。
※山中康弘氏、名取琢自氏執筆(臨床心理学:馬場謙一氏編より)Ⅱパーソナリティ論 p.12より抜粋引用
人格とは、自分自身の中にある3つの 『自分』 と外的要因によって存在する 『自分』 この4つから形成されているということだ。
更に、本著者馬場謙一氏は、 『3 異なる学派と本書の立場』 の中で次のように述べている。
③対人的かかわりの重視
人間の精神現象は、自然現象と違って、純客観的に観察することは不可能である。(中略)
自己の行動のみならず、自分が無意識的にもらす私的な感情や考えが、相手にどのような影響を与えているかをたえず内省してみることが大切である。
④症状の意味の重視
力動的な臨床心理学は、症状のもつ隠れた意味を重視する。つまり、症状の背後には、本人も意識していない意図や動機が潜んでいると考え、表面的に現れた症状よりも、それらを探っていくことに大きな関心を向ける。(中略)人間から切り離された症状ではなく、症状の背後の人間それ自体であるといえるであろう。
※臨床心理学:馬場謙一氏編 Ⅰ臨床心理学とは何か p.7より抜粋引用 
これは、あくまで治療者と患者を前提とした文書ではあるが、セルフコントロールと云う自分自身との対話によって自分と上手く付き合う方法としても現場で用いられているものであり、且つ日常生活に於いて何らかの問題に多少なり向き合う場面で大いに役に立つ知識のひとつでもある。

さて、ハイデガーによる現象学の内容を臨床心理学的に解説すると、忘れる事と覚えている事には内在する 『自分』の中にすべてはあるということであろう。
それがたとえ、錯覚であれ、勘違いであれ、何であれ、本人が感じた事は原因や理由よりも確かな事だと言えよう。


人は、 『見る・聞く・嗅ぐ・触る・味わう』 この五感によって自分を解っていると思っている。
所謂、視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚だが、それが必ずしも正しい情報として機能し生存しているのではなく、実は曖昧な感覚の中で割りとあっさりとした判断をしながら日常を過ごしているのだ。
社会学では、ステレオタイプと言うが直感や主観といった 『感覚的判断』 あるいは 『感情』 によって選択し、自分が感じた事や他者からの行為や動向をいちいち検証していては一向に物事が進められず、また神経も疲れてしまう為に 『適当な判断』 で精神的に丁度良い状況で居ようとする傾向がある。
故に、馬場謙一氏が著書の中で 『純客観的に観察することは不可能である』 と解説しているのだ。



そこで無意識の中の意識とは一体、どのような状態なのか説明しよう。
フロイトは夢分析で広く一般的にも知られているが、人間は目覚めている時だけ意識がはっきりしているのではなく、寝ている状態でも脳波動によって仮覚醒意識があることで夢を見る。
それと同じく、目覚めている状態でもふと意識がなくなったかのような感覚や眠っていたかのような 『空白の一瞬』 がある。
それを一般的な感覚では、 「ぼーっとしていた」 とか 「ふっとした時」 のように感じ表現している。
ナルコレプシーや睡眠時無呼吸症候群といった病気だけでなく、疲労やストレス、あるいは脳の疲れ、全身の血流によって変動している場合、生理的・身体的反応として自分の意識とは別の無意識で起こる現象である。
精神分析や心理学的な無意識とは意味が違う。

深層心理と言えば、ピンとくるかもしれない。
深層心理は自分の潜在的な心理を意味し、生い立ちや育った環境、幼少期の体験や与えられた概念、集団生活下の中で受けた疑いなき観念などがそれに相当する。
幼い頃に受けた影響は意識的に記憶することはなく、潜在的に精神の核(自我)へ記憶され、殆どの場合、覚えては居らず、ぼんやりとした触感にも似た感覚で宿っている。

人は視覚からの情報が脳へ伝達され、長期記憶と短期記憶へ振り分けられるが、その時他の感覚や感情も取り込まれる。
この感情が記憶としては一番強く印象的に残っており、脳の記憶箱から呼び起こされる時に思考は 『事実を言語化』 して動くのだが、言語よりも感情の方が根深くあるにも関わらず思い出しにくいものなのだ。
フロイトが精神分析に用いた 「お話療法」 というものは、ある物語(出来事)からその時抱いた感情を引き出そうと試みたものだ。
そして、現に抱える患者の困難の根源を探り当て、語り手本人に気付きを与えようとする方法であり、今日でも精神科で行われる心理療法や森田療法もそういった手法が取られている。


「あの夢は何だったのだろう?」 とか 「自分はどうして?」 と悩んだり、考えても、本来は答えは見つからない筈のものを人々は知りたがる。
それは実感し難い潜在意識が気に掛かるからだ。
また挫折や失敗を経験すると、それは心の痛みとなって精神的に回避出来る方法を習得しようとする情動から生まれることであり、 「あの時、何故あんなことに…」 と考えるのは本能的学習なのかもしれない。
それは恐怖心や猜疑心といった得体の知れない事への不安から湧き上がる当然の感情であり、人は常に恐怖心の中に居るのだ。

高等動物である人間は、物事を言語的に捉えることで実感しながら確認し、是か非かを判断しなければならないような複雑な思考作業を絶えず行っているにも関わらず、実の所、是か非かの二者選択的思考に惑わされている。
生まれてきた時、人間は視力が弱く嗅覚の方が発達している為、敵か味方か、危険か安全か判断する能力が非常に高く、赤ん坊はまず最初に 『嫌』 の箱を脳に備えている。
未経験・未発達な問題に対し、危機回避能力を発揮しなければならず 『きらい・嫌だ』 という感情が芽生えることから始まる。
約生後1年で、その嫌いを経験し、同時に好きを体験して行く。
生後3年に達する頃には、その好きと嫌いの箱が約50%ずつ完成される。
この頃 『自我』 が芽生え、振り分け作業が開始し、生後5年には大方の概要が形作られる。
外的要因によって振り分けられた 『概念』 というものは約10歳で完成し、自己理想像の決定もこの頃形成されている。

これが人格形成の基盤となり、外見的には性格として、自己・他者の両方から判断されるものとなる。

この生後10年間によって作られた、好き(善)と嫌い(悪)の箱は生涯、殆ど形が変わることはない。
それが深層心理であり、潜在意識なのである。



無意識の中の意識は、訓練しなければ意識することを獲得出来ず、曖昧な判断や意識によって揺れ動いているかのような錯覚の中にしか意識することは出来ない。
ハイデガーのいう、
根源的な内存在の一つの変様として概念的に把握されなければならない
と一致するまたは合致し得る点なのではないだろうか。


私の見解では、人の精神構造は感情論が約90%を占めていると考えている。
しかし感情は本能とは全く異なるものというのを踏まえて頂きたい。



〔参考文献〕 臨床心理学(弘文堂入門双書):馬場謙一 編(平成7年11月30日初版/弘文堂)

『学校に行く理由』~学ぶ意味とは

最近、また連鎖反応のようにいじめが問題で子供の自殺が増えている。
そもそも義務教育は何のために在るのか、子どもたちに教える教師も親も少ないと感じる。

何時の時代でも子どもの口から 「学校に行かなきゃいけない理由が解らない」 や 「勉強しなきゃいけない意味が解らない」 を耳にしてきた。
長く生きていれば、人生は楽しい事よりも苦しい事の方が多い事が理解できるのだが、まだ未発達で未経験の多い子どもたちには、楽しくない事を苦しんでまでやらなければいけない理由など解れという方が無理だ。

勉強とは、点数を取ることではなく、生きる知恵や生活するうえで最低限必要なものを身に付けること。
学校とは、自分の好きな仲間や楽しみだけでなく、社会の仕組みそのものを体験する場である。
故に、人間関係の練習の場であり、先輩、後輩、同級生の縦社会の人間関係や教師とのやり取りの中で大人社会を実体験するものであり、そこに 『楽しいこと』 だけがある訳ではない。

それらの問題への取り組み方を教えながら、気付かせながら、誘導していくのが私たち大人の役割だ。
しかし、実際の教育現場や家庭では、それら子どもたちの考えている事に耳を傾け、心の中で何を思い、日々を過ごしているのか観察してはいない。
教育指導要領に従って、とにかく授業に遅れが出ないよう、まるで大学の講義かのような速さで進め、テストによって点数をつけ、高校受験へと押し出すことしか学校では行われていない。

中学は国が定めた義務なのだから、教師は問題なく生徒を卒業させるのではなく、社会に出るに当って、どう生きる必要があるのか教える義務がある。
生徒は、義務である前に 『教えて貰う』 権利があるのだから、どんどん疑問を投げかけ解決していけるように助けて貰う義務がある。
そうは言っても、どちらとも関わりあいたがらない ウザイ関係 では、どうしようもない。


高校進学率が98%と、世界的にも高い水準でありながら、その実態は内容のとても薄い物で、唯高卒の資格を得ることでしかない。
その一方で、中退者率は何%に及ぶのだろうか。

文部科学省 平成21年12月22日発表の
平成20年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する 調査」等(小・中学校不登校の確定値及び高校長期欠席、 高校中退の数値の訂正値)の公表について
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/21/12/__icsFiles/afieldfile/2009/12/25/1288459_1_1.pdf
を読まれると良い。

この中で、公立、私立共に在籍者数に対し、不登校者率1.5%、そこから中退者率は全体の約2%と統計が出されている。
この結果をどう捉えるかが問題だが、たった2%しか中退者がいないとは、到底思えない。


私立に於いては、入学金や入学支度金、授業料に高額な金銭が必要で、それは学校運営の大切な資金であるのは言うまでもない。
それでいて、最初に徴収したものや退学するまでに収められた授業料分に見合うだけの教育や相談を与えていたのかと正直に問いたくなる。

いまや高校は世間的に義務教育と同じく、アルバイトをするにあたっても 『高卒以上もしくは高校在籍中』 が条件になっている。
それでも退学を望む子どもたちに、何故必要なのかを教えられないのだろうか。

上記の文部科学省発表の文章一つでも、 『読める』 のだろうか?
『読める』 とは、内容を理解出来ることであり、状況を知る、実感することである。


そもそも義務教育期間の9年間は、友だち作りや思い出作りの期間ではなく、それらは余禄なのであり、高等教育を受ける高校進学のためや大学入学、果てはブランド企業就職のプロセスに利用するものではない。それらは結果であり、余禄に過ぎない。
義務教育で教えられる科目を真に理解し、記憶し、応用出来たならば高校進学は必要ではない。
それ程までに基礎学力は、社会へ出てどのような職業に就いたとしても、起業したとしても重要なものであって、必ず 『読み・書き・算数』 は必要なのである。

ある小学校教諭が、テストのクラス平均点が悪かった時に、
『お前ら、このまま勉強出来ないでいると道路作業員とか現場作業にしか就職出来なくなるぞ!』
と、発言したことがある。
これは大きな間違いだ。

例えば、現場作業員と云えども、その職種や役職は様々あり、現場監督になった場合作業工程を確実に把握していなければ納期に遅れが生じる。
その時に、作業員を取りまとめ、年齢や経験、性格などを考慮し配置を考え、作業を進める計算をしなければならない。
また、従事者側もある程度の寸法や重さ、時間などの計算、支持される言葉の理解、材料の調達の分量計算、注文書・納品書・領収書など最低限必要な文字も読めなければいけないし、伝票や報告書・日課票への記入など書けなければ困るのだ。
言葉は汚いが、彼らは教師が思うような 『脳なし』 ではない。

日本の計算式や寸法の取り方には独特のものがある。
『尺』 がそのひとつだ。
家屋の間取りが最近では洋風にはなって来たものの、やはり図面を引く際に 『三尺六尺』 で計られている。
三尺=90cm、六尺=180cm。
畳一枚がその寸法であり、6畳間は縦3m60cm×横2m70cm。これが原型となる。
押入れは、ふすまが2枚であれば一間、1枚であれば半間と言うのだ。

※注:この寸法は、京間、江戸間と呼ばれる計算で若干地方によって誤差がある。

今では鉄筋コンクリートや2×4方式と云った建築様式によって、柱を自由に設計し、このような寸法でなくともワンルームやバリアフリー構造住宅の建築も可能になった。
しかし元来日本式の床に座る、畳の生活に長年馴染んでいるため家具などの調度品もそれらの寸法に合うように未だ造られているのだ。
布団は畳同様の寸法、シングルならば約90×180、ダブルは約145×180で製造されベッドも同様だ。長身の人が増え欧米化した体格に合わせて、長さだけが190cmや210cmも多く普及している。


こうした生活の中だけでも計算は簡単に必要なものだ。
そういう日々の生活から体験し、算数である 『縦×横×高さ』 を知ることはとても大切な事であり、算数や数学が苦手な子どもたちに興味を持たせる手立ては、実は身近な所にあり、脳の中に 『好奇心』 を沢山持ち合わせている小学生に何も難しく黒板やプロジェクターなど使用せずとも教えられるのだ。
体積や容積、立方体そんなものは、いくらでも身の回りにある。
ただ、教師になった人たちがこう云ったことを知らなければ、また興味を持たず教師になっていれば、マニュアル通りの勉強の仕方しか伝授出来ないのはしようがなく、また残念な限りだ。




子どもたちが将来どのような道を歩むかは、本人にも親にも、教師にも判らない未知の世界だ。
ならば、点数や評価主義ではなく、もっと中身のある身に付く勉強を与えてやらなければならないし、どの様な職業を選択したとしても可能なように導けるよう、私たち大人は世間を知らなければいけない。
与えられるがままの教育で育ってきた現代の大人たち。
子どもよりも世間知らずで、無知な大人たち。


『知恵は財産なり』
これを今からでも学ぼうと思う大人が居るのならば、きっと子どもたちに、子どもたちの目線に立って、学校に行く理由や勉強する意味を教えてあげられるのではないだろうか。

最後に一言。
一万円札ばかり勘定したり、眺めたり、宝くじで当たりはしないかと夢ばかりバクのように見て居らず、そこに描かれた人物福沢諭吉の有名な著書 『学問のすすめ』 をしっかりと読みなさい。
何故、人は学ぶ必要があるのか?
それは金持ちになるためではないと、ハッキリ書いてあります。
『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』
誰でも殆どの人が知っている言葉の本当の意味を、是非学び直して欲しいと願う。

生涯学習をするなら、まず自分の子、他人の子分け隔てなく、自分たち大人が全員で育てるのだと云う意識を持てば、必ず低学力やいじめなどの問題を解決する道は開ける。
まず、大人が学びなさい。
そして、子どもたちから現代史を教えて貰い、古臭い時代遅れの概念や固定観念を置いておき、古き良き日本の言葉や教え 『道徳』 を言い伝えなさい。


あなたが子どもだった頃、親や教師や周囲の大人が何を教え、与えてくれたのか、思い出して欲しい。

2012/10/23書きかけ項目だった記事です。

2012年11月14日水曜日

心理学、精神医学、精神分析学に於ける考査の視点

心理学、精神医学、精神分析学等の分野に於いて、ここ最近気になる点が多い。
各分野で、提唱された学術や文献にどうも 『派閥的思想・傾向』 を感じるのだが、研究されている方々にひとつご紹介したい。


大変古い本だが、
アドルフ・ポルトマン著/高木正孝訳による 『人間はどこまで動物か~新しい人間像のために~』
初版1961年10月30日、1974年4月10日第17刷発行(現在絶版)
この本の第1頁目に書かれている文章をご紹介しよう。
『この本を読む方へ』
 まずはじめに、 「日本版へのまえがき」 から、本文の 「Ⅰ 生まれたての人間」 以下 「Ⅵ 老衰」 までよんでいただきたい。それから、編集者による解説 「現代の人間研究における生物学の役割」 をよんでいただければさいわいである。
 そのあとで 「序」 と 「結び」 にもどっていただきたい。というのは、この 「序」 は第二次世界大戦中にナチス・ドイツを対象にした著者の立場の哲学的表明であり、そこには、キリスト教文化圏であるヨーロッパの思想と、生物学を学んだ読者でなければ理解に苦しむことがらがくどいほどもられているからである。
 ひとことでいえば、ヨーロッパにおけるキリスト教という文化的支柱の大きな役割と、それを土台とする思想が直接ヨーロッパ人の生活にどんな力をもっているか、そして、 「人間論」 がひとびとの日常生活にまでどんなに深い関係をもつのか、があらためてみなおされる。それにくらべてわが日本では、宗教といっても、その大部分はこの地上の人間関係を主体とする文化圏であって、思想・考え、つまり 「人間学」 なしにすませていること、わたしたちの生活や、道徳も、みんな目さきの人間関係だけにかかわっているのがわかる。
訳者

この文章の中で書かれているように、文化圏や宗教等の違いから、物事の捉え方がそれぞれに違いがあり、人間の根底にある心理は国によって観点を変えなければいけないことが覗える。

心理学・精神分析学を創造した人物の育った環境や国、時代などの違いから、今日では合致し難い観点も多く、新たな見直しが行われているがそのどれもが、目先の問題解決に捉われるばかりなのではないだろうか。

この訳者による解説のように、学説の検証をするにあたり本質は何処にあるのかをまず見極め、採り上げる論点を選択しなければならない。
学徒にとってもっとも大切なことは、それらを踏まえた上で 『ひとつの学説』 に捉われず、tetra-cycle brain を持って挑むことである。

学術書の読み方では、もくじから起承転結を追って読む必要のあるものと、そうでなく、この解説のように、追う順序を変えて読まなければ、視点・論点を繋ぎ合わせるのが難しいものがある。
しかし、日本での精神医学は英国を始めヨーロッパ諸国と早くから協力体制がとられ、その情報は大変多く、学術書も国内には多数保存されている有難い状況だ。
それらをどのように活かし、発展させるかを今一度、研究者、学生、臨床家は考えなければ宝の持ち腐れになってしまう。
学会大会を学説論争の場にするのではなく、それこそ 『価値観の共有』 にしなければ、何の意味もない。
論文を沢山発表するだけでなく、その先に何を追及し、探求していくのか当事者は明確な到達点のヴィジョンを抱いて研究に取り組まなければならないのは言うまでもない。


診察や研究をする際、その患者(対象者)の何を診ているのか?
『症状』 なのか?
『病名』 なのか?
『現状』 なのか?
『適した薬剤』 なのか?
『治療法の模索』 なのか?

自分は、何を見ているのか考え直してみると良い。
患者が敢えて語らない、見えない真実があることを忘れてはいけない。
それは、教科書には書いていない。
日本は島国であるが故に、多国籍人種があまり存在しない。
最近でこそ、ハーフタレントや国際結婚によって、見た目に解る外国人風の日本人が多くなったが、しかし中には日本生まれ、日本育ち、日本語しか話せない 『見えない外国人』 が存在する事を把握しておかなければならない。

つまり 『人を見た目の先入観で判断しない』 ことが必要なのだ。
理解し難いかもしれないが、その人の生い立ちの背景に日本文化ではない文化の価値観が存在するのだ。
人々には何らかのルーツがあり、小林隆一氏(現:鹿児島国際大学経済学部教授/専門は社会学)が書かれた 『県民性』 という論文では、日本人の国民性を詳しく地域の人間学として紹介されている。
血は争えないという諺があるが、まさに本人が敢えて意識していない無意識の先祖代々によるDNAに刻まれた記憶が存在する。
患者の親の教育方針や家庭環境は、その親すらも無意識の中で行っており、自己と他者を比較する事もなく、当たり前に 『日本人』 だと思っている場合があり、結果として 『敢えて語らない、見えない真実』 がそこに存在するのだ。
それこそが 『常識』 という曖昧な自己同一性の価値観である。


研究者や医師が当然と疑いなく見過ごしている中に、解明の糸口は隠されている。






2012年9月7日金曜日

メタリック・ワールド

私の記憶では、日本に於いて 『近未来』 という言葉が現れたのは鉄腕アトムの時代ではないかと思う。

昔、私の父が話してくれた事があった。
父が中学生の頃、少年誌に鉄腕アトムが連載され、夢中になって読んでいたそうだ。
父が言うには、その頃は 『ただの夢物語』 であって、「まさか、そんな時代が来るわけないだろう」 と思いながらもワクワクしていたが、本当に町並みの風景がそうなったと語るのだ。
何の事なのかと聞けば、父の時代に町中の道路の上にクネクネと道路が作られ、その上を車が沢山走ったり、高層ビルがその合間を沢山建つなど考えられなかったのに、いま本当にそうなって、驚いていると言うのだ。


いまも尚、映画やアニメ、科学技術の世界でまさに誰もが、まだ 『近未来』 という言葉を何のためらいもなく発言する。

近代(いつからが近代なのかが、やや疑問だが)になって、想像(イメージ)される近未来のヴィジョンとは、ターミネーターからだろうか(私はSF映画に詳しくないのでタイトルを忘れたがダースベーダーの映画)からなのか、人間が皆同じ形の銀色の服を身にまとい、カプセル型の透明な寝床で、食卓は銀色の食器に囲まれ、家具も全て、居住空間が銀色の世界一色だ。


人には、何かを想像する時に必ず脳裏に何らかの映像化された世界がある。
メディアや様々な外的なモノによって、疑う事無く映像化された近未来のヴィジョンが、銀色の世界。
それは、ある種の他者からの影響によって与えられ、刷り込まれたヴィジョンであると感じる。

個々人が、各々の自由な発想によって生み出されたものではない。


しかし、私がそれよりも更に疑問に感じるのは、既に私の父が語ったように、未来は実現・実用化までされているにも拘らず、まだ 『近未来』 というキーワードが使われる事にある。
一体、いつになったら真の近未来は実現され、未来が現在になるのかと思うのだ。


理屈っぽいかもしれないが、高度経済成長期から40年以上経っても、まだ未来はやって来ていない。
テクノロジーの進歩は、父の時代とは違い、こうしてコンピューターが発達し、人との連絡も殆どがGPSやクラウドと云ったインターネットを介して行われるようになったのだから、もう人力は殆ど必要のない時代になった。
これが目指してきた近未来であり、現在であるのに、まだそれ以上の宇宙的未来を開発している。
それは、人類の欲する処である事を否定はしない。


だが、どうしても腑に落ちないのは、ここまで一般人もハイテクノロジーを日常生活の中で利用していながら、イメージする未来像が、相も変わらない銀色の世界である処だ。
何故なのだろう。


そう考えている内に次第に感じてきたのは、SNSなどのソーシャルコミュニケーション上や生活圏での人間関係の中で、人々の心がアルミ製なのか、他の金属性なのかはさて置き、銀色の金属素材のように冷ややかな感覚に思えてきた。

洋服や家具などは、モノトーンが流行り、逆に絵の具を無作為に混ぜ合わせたかのようなカラフルの域を超えたバラバラの色彩が好まれる一方で、索漠とした人間関係はまるで金属のように冷たい。

例えば、ネットコミュニケーションでは離れた場所の会った事もない人と 『友だち』 になり、チャットやメールで仲良くなっては、何かの行き違いでブロックしたり、削除したり、時にはオフ会で対面してもその後疎遠になる現象は未だに続いている。
『リアル』 と言われる実際の地域社会での友だちとも、ネット上の書き込みによって人間関係にひずみが生じて、いじめ問題へと発展して傷つけ合ってしまう事も後を絶たない。
それは何故だろう。


私には、地方社会に未だ残る、村八分文化の方がまだ優しく感じられる。


結論的には、電波を介した人間関係には、村八分という猶予的時間がなく、無理をして神経をすり減らして、挙句には精神まで病めるほど我慢を強いられてまで繋ぎあう必要が電波社会には必要がないからだ。
電源を切ってしまえば、それまで会話をしていた相手は居るのか居ないのかも確認できない。
それを逆手に、簡単に削除やブロックをして、断ち切ってしまえば悩んだり、解決する労力を次の楽しみへと即座に移せるからである。


それが、人々を金属化してしまう原因なのだ。

しかし、そのネット上の出来事に一喜一憂し、翻弄させられ、悩まされ、心は一分一秒左右され続けている、この現実は、『夢見る近未来』 の人々が得たい真実の世界なのだろうか。
私は違うと思う。



本当は、心の底から何の遠慮もなく、他愛なく笑いあい、時には悩みを共有しながら、本音で語り合いたいと人は望んでいる筈だ。
それなのに、どんどん反比例していっている現実に気が付いていない。


この世の中は
『メタリック・ワールド』

2012年9月6日木曜日

平和になる瞬間を観られなくなった子どもたち


毎日テレビやニュース、映画といった映像の中では、殺人や戦争など事件事故、天災による自然災害、それと領土問題など争いや嫌なものばかりだ。

ふと思った。
今の時代では、誰かやどこかの国で平和になるような歴史的瞬間を観られなくなったんだ。


東西ドイツの長い争いが終わり、分断の象徴のベルリンの壁がなくなった。

天安門事件で、一人の大学生が戦車の前に紙袋を片手に立ち向かい、抗議する姿。
その後彼は戦車にひき殺され、それによって一気に市民が立ち上がり武力弾圧と戦かった。
そして今の民主的な中国になった。

ソビエト連邦が崩壊し、支配下にあった小さな国々が次々と分離・独立し元の自国に戻った。
チェコも昔はチェコ・スロバキアだったが、それぞれが独立した。
そしてソビエトもロシアという元々の名前に戻った。

日中国交正常化40周年を迎えるというが、私は幼かったためにその瞬間は知らないが、何回か田中角栄元首相の白黒の映像を観て、平和になった瞬間を観てきた。

沖縄が日本に返還されたり、香港がイギリスから中国へ返還されたのを観てきた。

そうした中でアメリカ主導の下、湾岸戦争が勃発し 『多国籍軍』 と云う新しい戦争の形が出来、日本も自衛隊が初めて海外での戦闘に参加する瞬間を観た。
その時、自衛隊では他国の軍服に見習うかの様に制服一式が一新され、ベレー帽、スカーフなど今までにない物が採用され、迷彩服はアメリカ軍の形が採用されるなど変更された。
C-130輸送機の塗装は海外使用に塗り替えられた。


そんな平和へと変わっていく世界の姿をこの時代の子どもたちは観る事がなくなった。
唯一、先頃のミャンマー(旧名ビルマ)での民主化運動指導者アウンサン・スー・チーさんが自宅軟禁から解放された映像くらいしかないのではないだろうか。

しかし、その瞬間をテレビで観ても、子どもたちには平和へ向かう第一歩とは感じる事も理解する事も出来ないだろう。
それは経緯を何も知らないからだ。
教科書で見たか、学校の歴史の授業で聞いたか、その程度でしかないからだ。

私の子どもの頃にはビルマは既にミャンマーと国名が変わっていたが、それでも私の記憶にはビルマとあった。
同じ様に、現在はスリランカと国名が変わっているが、昔セイロンという名前だった事も知っている。
セイロンは、紅茶の国だ。セイロン人だ。




これから世界はどうなっていくのだろう。
シリアでの内戦が悪化し、遂には国連の人や車、海外メディア人をターゲットにした殺害まで起き、撤退する事態にまでなってしまった。
幾ら、国の治安正常化をしようと努力しても、難民キャンプでの国際協力医師団が必死で治療や支援をしようとしても、次々と中東諸国は荒れていく。
中東に限らず、世界各国様々な所で戦争や内乱は続き、病害や飢餓は収まらず、自然界も同じ様に砂漠化が止め処もなく進み続け、北極や南極の氷は融け続けていく。

世界的な経済不況は、次々と起こり、円もユーロも下がる一方で、アラブ首長国連邦、中国では急激な経済成長によってバブル状態が起きている。



地球や人間が荒れていく姿しか観られない子どもたちは、何を感じているのだろうか。
この日本でも、震災や豪雨被害、原発問題、韓国、中国との領土問題、いじめによる自殺など沢山の荒れる映像ばかりだ。
テレビで観るのは、そんな事件・事故かお笑い番組。
ネットの中では、SNSの書き込みで一喜一憂する言葉のやり取り。

希望を持ってと言われても、何が 『希望』 と言えることなのか理解出来なくて当然だ。
『個性的に』 や 『オンリー・ワン』 と言われても、出る杭は打たれることを知っている子どもたちは自己主張をしない。
また自己主張の仕方も知らなければ、自己主張と自己中心の違いも解らずに 『主張』 の意味そのものを履き違え、勘違いしている。
それをキッパリと、説明の出来る大人が居なくなった。
今時は、『説明』 を 『説教』 といきなり決め付け、心にシャッターを降ろしてしまい聞く耳を持つ余裕も持っていない。

そもそも、説明とは事実や事情を明らかにすることであり、説教とは嫌な話や嫌味を味合わせるものではなく、先人の経験からその時々に応じて教えることである。
言葉の本来の意味もあやふや、気持ちもあやふや、生活すらもあやふや、その中で育ち生きる子どもたちが抱く思いは、人生始まって間もないにも係わらず 『人生』 という言葉を使い、『生きる意味』 を探す不安ばかりだ。

挫折と言えるような挫折でもなく、それは失敗や経験の一つであるのに、絶望を語り、死にたいと簡単に言う。
裏返しに、すぐに自分を否定や非難したり、自分が好きでないものに対し、『死ね』 と言う。
妙な事に、『神だ』 という極端な言い方の賞賛や 『天才だ』 とすぐに絶賛する傾向も異常だと言える。

結局は、こんなに治安の良い日本でありながら、実際の日常生活での人間関係では敵か味方でしかない。
それは意とも容易く、いつでも逆転する危うい人間関係になっている。
昨日まで、いや、ほんの数分前までは味方や仲間だった人間が何の予告もなく敵に変わっているのだ。
マンガ、アニメ、ゲーム、映画の題材が、そのまま現実の世界に反映され、その現実がまたフィクションの題材に利用されている。

ゆとりやら、グレーゾーンなどと曖昧な概念、価値観を抱くことと反比例して、是か非かのオール・オア・ナッシング的思考しか選択しない現代社会。



大人や国政が揺らいでいる背後で、子どもたちは大人の知らない絶対的価値観を極端なまでに持ち生活していることに気付かなければならない。
世の中を動かしている大人たちの足元は、その子どもたちによって、まるで融けて漂流する小さな北極の氷の欠片のように見える。


※平和になったイコール是にて一件落着というような単純なものではなく、ここで書いた 『平和になった』 という表現は、争いから放れて友好的関係や互いの平和を目指してということであり、好転を意味しています。



2012年9月2日日曜日

パラリンピックが放映されないことについて

今回のロンドンオリンピックは、開催3回目ということもあって、色々注目された。
時差の関係から放映時間は、生中継でみるには日本では夜中だった。
それでも夏休みと重なったのもあって、録画や生中継で見た人は多かっただろう。


いつもオリンピックを見るたびに、知らない人が 『ああ、終わったね』 という声を聞いてきたが、「いやいや、閉会式はやってもまだ、やるよ」 と言うと必ずと言って良いほど 『えー、そうなの?』 と返事が返ってきた。

パラリンピックは、オリンピックが閉会した2週間後に改めて開会式が行われ、障害者競技が開催される。
そもそもオリンピックとパラリンピックが分けられているのは、差別ではない。
健常者としての技量を競い合うのがオリンピック。
障害の程度やそれぞれを考慮し、障害者としての技量を競い合うのがパラリンピックだ。
その歴史は1948年のロンドンオリンピックに始まる。
詳細はウィキペディアを読まれると良い。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF

それ故に、今回のパラリンピックは特別な意義があると言える。

しかし、毎回開催されるオリンピックの後、テレビでは結果しか報道されない。
あれだけ日常の企画を変更してでもオリンピックは放映されるのに、ニュースやワイドショーの一部でしか取り扱われない事に、とても違和感と不満を抱いてきた。

今回、東京に於いてメダリストたちの凱旋パレードに集まった人は、50万人にも上った。
毎度の事だが 『勇気をありがとう!』 や 『感動した!』 『パワーをもらいました!』 そんな言葉が沢山選手たちの貢献に対して寄せられる。
少なからず誰もが、超人的能力と日々の訓練に賞賛する気持ちがあるから、そう素直に言えるのだろう。

それならば、障害を背負いながらハンディを持った人の日々の努力や、精神力は想像を超えるほどのものに対し、メディアは知らせる代理人ではないのか?


健常者でもオリンピックに出場するまでの道のりは長く、故障や怪我によってリハビリでトレーニングに専念しなければならなかったり、候補者協議会に出場できず断念する人も沢山居る。
その中で選ばれた人が出場できるのだ。
パラリンピックも同じく、選手選考会があり、選ばれた人だけが出場できる。
しかし、健常者と障害者の選手の違いは、身体障害だけの問題ではない。

障害者は、先天性の人も居れば、事故などによって人生の途中から障害者になった人も居る。
その挫折感や失望感を乗り越え、障害者スポーツに出会い、人生の生きがいを見つけた人が日々練習に励み、自分との戦いの中にある。
日常生活で思うようにならない、自由にならない問題を抱えつつ、スポーツをするということは、不自由な身体を更に不自由な中で動かさなければいけない。
その精神力は、健常者にはきっと想像すらできない世界があり、日々忍耐、努力、自分の目指す自己理想像に近づこうとする貪欲なまでのものがある。


オリンピック選手がどんな練習を毎日し、競技に臨んでいるのかを健常者が体験した時、その難しさを知る。
それならば、障害者が同じく挑んでいる競技はどの様な難しさがあるのか、考えてみて欲しい。



報道は公正・平等を元に、もっと広く人々に知らせる義務がある筈だ。
24時間チャリティー番組で、この時とばかりに障害者を取り上げ企画する事に違和感を抱く人は多い筈だ。
それは、障害者を 『ネタ』 に、わざと感動や涙を誘う番組構成に辟易しているのではないだろうか。
敢えて 『ショウガイシャ』 と銘打つようなことは、心理的に共感することよりも、『触れ込み』にしか感じられないのは、誰もが無意識の内に 『差別』 と脳裏に感じ取っているからだ。

もっと普段から色々な番組の中で、障害者の生き様を紹介して行く必要がある。
障害者は、特別な人ではない。
身体的に不自由なだけであって、『人』 に変わりはない。
特に、肢体不自由者は車椅子を使用していても、上半身は何ら健常者と変わりなく、その車椅子を自力で漕ぐにあたっては、むしろ健常者(健常選手と比較するのではなく一般人と)よりも筋力が発達している。
その姿を見て欲しい。
そして、障害者の人たちにもそのひたむきに、ひたすら自己理想像に近づこうと努力している姿を見て欲しい。


断片的な 『頑張る姿』 だけを見ても、何も伝わらない。
どんな経緯があって、いまこの姿になれたのか、それを見ることで、知ることで、健常者、障害者双方に 『賢明に生きる』 とは何かを感じて欲しいと思えてならない。

『心が折れた』
『モチベーションが上がらない』
『どうせ自分なんか何も出来ない』

そんな愚痴を毎日吐いて生き辛さばかりを嘆くのなら、生きる価値など見つからない。


どうか、放映されないパラリンピックであっても、断片的に結果論だけを放映されても、それを見てでも、『あの人たちが、あれだけ頑張れるのだから自分にはもっと出来ることがある』 そう考えて欲しいと思う。



東日本大震災によって、いま日本には 『頑張る勇気』 が必要と誰もが言う。
『絆』 と誰もが口にするのなら、障害者とも手を繋ぐ方法を見出すべきだ。
口だけでなく、心底から勇気や感動、生きる意味を見出す必要が、ここにある。

パラリンピックの放映が、オリンピックと同じ様に放映される日が来ることを願うばかりだ。

2012年8月17日金曜日

~ながらの危険性

以前からだが、人と会話をしている最中に携帯電話を触りながら会話をする人に、ムッとしたことは誰にでもあるだろう。

最近は、スマートフォンの普及によって更にその姿を目にする事が増えた。
メールのチェックだけでなく、今ではSNSと云ったアプリによって、 『いま』 誰が何をしているのか?を、 『いま』 すぐにチェックしておかなければ何かに着いていけない様な強迫観念に襲われているように感じる。

その姿は、こちらが現実的に目の前で対面し、会話をしているにも関わらず、返事は上の空、そして時折合わせる視線は、端末の内容に気が取られ、会話(対話)に集中出来ていない。
実際に目の前に居る人との関係よりも、ネット上でなされている会話や行為の方が重要なのだろう。
果たして本当に重要なのだろうか。

答えは、 『重要』 なのだ。

何故なら、自分の知らない所で多数の知り合いや、不特定の人間が何を 『いま』 話題にし、次の行動予定を考えているのか解らないことが気になるからなのだ。

『いま』 目の前に居る人は、実際に会話をし、対面しているから何を話し、何を考え、何をしているのか目や耳で確認出来るから安心感がある。

このような心理から、どうしても対面している場面を疎かにしてしまう訳だ。


しかし、人間の脳はそんな簡単に二つの違った作業をするほどうまくは動かない。
全く異なった作業を二つ以上行う脳の事を 『デュアルタスク』 と言う。
そのデュアルタスクは、早々容易く習得出来る能力ではない。
また生まれ持った能力がある人やある種の訓練、そう云った環境の中で育った人以外では、大多数の人がデュアルタスクではなく、シングルタスクという脳機能の仕組みなのだ。

このデュアルタスクを簡略的に説明すると、
例えば、ある本を読んでいる、するとそこへ誰かが部屋に入ってきて何かを話しかけてくる。
本を読みながら、本の内容を理解しつつ、相手の会話に適切に応じ、会話をする。
そして、電話が途中で掛かってきて、口は一つしかないので会話は電話の相手とするのだが、対面している相手にはメモ用紙を使って同時に別々の会話を同時進行する。
その時、本は読み続けたままで、電話の内容を別のメモ用紙に記録し、必要があればスケジュール帳に記入する。
このような行動をする思考を意味する。

一見、誰でも仕事上でこのような忙しい行動をしているように思うだろうが、実は、本当の意味でのデュアルタスクの思考は、同時進行で言動・行動をし、その内容を的確に進め、内容を記憶と理解している点にある。
一連の作業に関連性が全くない状態を前提とするものだ。


『~ながら』 が記憶力向上に繋がると一時期話題になり、受験生のラジオを聴きながら勉強をする方法が実はリラックスした環境によって記憶し易い思考になっていると言われたが、それとデュアルタスクとは全く本質が違う。

最初に挙げた端末を触りながら、会話をするのは人間関係に問題があるのだ。
自分が最も 『いま』 重要視している人間関係の所在がどこにあるのか?なのだが、問題点は心理的に端末の中に重要点を置いている事にある。
端末の操作に気を取られ、その上文字を読み、内容を理解しながら、記憶し、対面する相手との会話にも気を配るなど、出来る筈がないのだ。

この行為の中で、最も良くない行為は、端末を操作するという点にある。
端末の操作だけで、一つの複雑な作業をしていることに気が付いていない。
結局、ネット上での話題も、対面との話題も記憶する能力が失われている。
故に、すべてが上の空になってしまっているのだ。


最近では、自動車の運転中にハンズフリーで電話の会話をしながら運転する姿が多くある。
運転者は、『車の運転』 と云う複雑な作業をしながら、目に見えない相手と会話をし、内容を理解しながら瞬間的な判断力と同時進行で脳を動かさなければならない。
しかし、後で振り返ると、目的地には問題なく到着できたが、通ってきた道の状況を聞いてみると記憶していない事が殆どなのは、公安委員会の調査からも明白になっている。
それくらい、当時自分が何に気を取られ、集中していたのかがはっきり解る。


人間は、視覚や聴覚によって情報を得易い。
最優先して 『いま』 を知るための機能がそれらなのだ。
しかし、目に見えないものを理解し把握しようとする時の集中力は、3倍以上の能力を使用するという。

何でもいますぐ簡単に手に入れようとする考え方や行動は、便利なのではなく、脳にとっては非常に複雑で面倒な作業を強いられ、何倍も不便な行為をしているのだ。
その疲労感は非常に強く、自分自身の自覚しないものであり、症状は頚椎からの疲労感や肩こり、頭痛が多くなるのも納得できる。
機械のように人間の脳は、計算速度は速くはない。
しかし機械よりももっと、高性能なのは、その 『いま』 を把握する速度なのだ。
それは視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚、この五感によって初めて得られるものであって、デュアルタスクが成立するのに最も必要な条件と言っても良いだろう。



端末を触りながら、人と会話をする危険性は、記憶力を更に劣化させるものだと警告したい。

2012年6月12日火曜日

『親学推進』に関する問題点

これは、私がツイッター上で連続ツイートしたものをまとめた内容です。
そして、この文章の後に、短編的でない思うところを書きます。

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『親学推進』に関する意見:核家族化が進んで、どうやって子育てをしたら良いのか戸惑う親は沢山居る。しかし 『親』 というものに確固たる像は画一的に表現出来ない。
それは各々が育った環境や生い立ち、親から受けた価値観の影響が大いに関係しているからだ。正しい子育てなんて何処にも存在しない。

しかもこの親学推進協会が主催するセミナーには受講料として14680円(テキスト代込)が必要。更に親学アドバイザー認定などと民間資格を与える講座もある。
親学を学んでアドバイザーになって『私は親育てのプロです』と講義する、この構図どこか矛盾している。

それならば児童心理学や発達心理学、児童精神医学は必要ないのか?また青年心理学や行動心理学などあらゆる心理・精神科系の学問は学ばざるとも『親学』のみで子育てのプロになれることになってしまう。

破格の受講料を徴収し『アドバイザー資格』を対価として与え、戸惑う親たちに「~であるべき論」を唱え、その通りに成長しない親子が存在するような結果になったらどう説明するのだろうか?

世の中にもっと劣等感や失望、絶望感を抱える親子を増やすだけの結果になるのは火を見るより明らかだ。
「親学を勉強したのに、私には出来ない」そんな事を感じさせた責任を関係者はどう取るのか?
結局、本人の能力不足として責任転嫁するのがオチとしか考えられない。

背景としては政府や児童相談所関係者が 『虐待』 や 『こどもの自殺』 に対応しきれない現状をどうにか対応しようとしている焦りと努力をしている言い訳の舞台を作り上げたに過ぎないのではないかと感じられてならない。故に専門的な分野の講師が役員名簿に殆ど居ない。

それを大阪維新の会が条例に発達障害者にまで含めようとした事は浅はか以外の何者でもないと児童精神学会が要望書を提出したのも当然のことだ。

育児ノイローゼは、少なからず誰もが経験し通る道でもある。
また産褥期うつも多かれ少なかれ経験する。
しかし問題はそれが長く続き抜け出せない結果、親自身が精神的に追い詰められてしまうことにある。親が鬱状態で自傷行為をするかこどもを傷つけてしまうか。

そうなれば、もはや 『親学』 の領域では解決する手段はない。
そうなる前にアドバイザーが予め学ばせようと言うのがこの趣旨だ。
しかし金銭を支払い 「親になること」 を学ばなければ親の自覚を持てなかったりするのは、どうしても違うと思えてならない。

※文中の講座費用は、このつぶやいた時点での情報であり、現在掲載されている金額とは違います。
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その親学推進協会のホームページを一覧してみた。
http://www.oyagaku.org/#

そこに親学アドバイザーの活動というタブがあり、内容を読めば、
『親学アドバイザーとは、親学(親としての学び・親になるための学び)の基本と基礎的なコミュニケーション・スキルを修得し、親学勉強会の運営や、子育て・親育ちに関して適切なアドバイスができると親学推進協会が認定した方のことです。』(親学推進協会HPより引用)
と、書かれてある。

一体 『親育ち』 とは何だろうか。
そんな日本語はない。
人として、一般的な社会的立場や、いわゆる常識と云われるものや大人として、また上に立つ者としてのある程度確立された価値観を持っていなければ、親にはなれない。
既に、子を持った時点で、その年齢が何歳であろうと社会的立場は親権者であり、すべての保護監督責任者として生きなければならず、誰でも 『親』 にならなければならない。

それを、育っていないから 『親育ち』 などと、造語を作り上げるのならば、この世の中、大人が居ないと云う事になる。

では、親学推進協会に所属する人や親学アドバイザー認定資格を有する人だけが 『大人』 なのだろうか。
未熟な親になりきれない親を育てようとする意向は、理解できる。
しかし、それがたとえ傍から見て未熟であれ、世間の価値観からしたら非常識であったとしても、それはその個々の親となった人の自由な価値観であり、教育方針でもあるのだ。

また、誰が叫ばなくとも法が 『親権』 を定めているのであって、その法に反すれば罰せられる。

『親権』 とは、衣食住を与え、身の清潔を与え、健康管理に努め、自立を促すために生活の中からあらゆる事を教え、教育を受けさせ、社会の一員として生きる方法やルールを教え、守らせ、それらの事に従わせる義務があり、責任があることを云う。
そして、その親権は自らの個人的な利益のために乱用してはならない。
成人に達していない子が犯した罪は、法によって裁量され、親権者も同じく、適切な指導・監督を怠っていなかったかどうか判断され、問題があれば罰せられる。
時に、裁判でなくとも生活の中で、子が犯した罪は親の責任として、償う必要がある。

更に 『世界子どもの権利条約』 では、子が親から不当な扱いをされないように、子も一人の尊厳を持った人間として人権を保障する法律もある。


しかし、親権に関する法律を調べていくと、親は絶対的な国よりも大きな権力を持ち、そして併せて義務と責任が課せられている。
それに、子は絶対的に従わなければならない事がよく解る。
それは、親権者から子に対する親権を放棄する法律はあっても、子から親を放棄できる法律は、親がその子が 『生きる事=生命』 にとって、明らかな危険性や不利益があると立証された時以外には存在しない。


このように、詳細な法律を学ばなくとも、生活の中で人々は守らなければならないルールを身に付けている。

親学の目的は、こうした法律と一般常識論との間に立って、『親とは大体こうあるべき』 を言おうとしているのだろう。
しかし、それには何らかのヴィジョンとして模範像を示さなければならない。
ならば、その模範像はどう作り上げるのか?
それぞれが育った環境や生い立ち、土地柄や風習、先祖代々からの受け継がれてきた価値観は皆違う。
故に 『こうあるべき模範像』 は、誰にも作れない。
そして、生まれてくる子も皆十人十色育ち方が違う。


生まれてくる我が子が 「五体満足で母子共に健康で在りますように」 と願うのは何故だろう。
その中で、知的障害、発達障害、ダウン症、口唇口外裂、四肢欠損、先天性内臓障害と様々な状況で生まれてくる子どもたちが居る。
その親は、大変な絶望感を最初抱きはしても、「私が助けなければ他に誰が居る」 と自分を奮い立たせて必死で生かそうとする。
成長と共に増えだす問題は多く、時には疲れきってしまい 「もう嫌だ、うんざり」、「いつまで続くの?」 そう思ってしまう事もあるだろう。
それでも親は自分の良心に従い、また世話をする。

そう、親は子がどんな状態であっても皆同じ様に、また世話をするのだ。
その子が独り立ちするようになるまで。


親学推進論の中で、何故こと発達障害児の親だけに的を絞って、親の育て方の問題が招いていると轟々しているのだろう。
発達障害は、まだ何も解明出来ていないに等しい分野であり、大方の概要が示された指標に基づいて、今のところは児童精神科医も少なく、ごく少数の研究者たちによって対処療法が施されているに過ぎないのが現状だ。

皆、思い出してみると良い。
たった10年程前までは、 『子どもがうつ病になんてなる訳がない』 と、世間もどの医者も言っていた。
30年前には、 『子どもが頭痛になんてならない』 と、どの医者も偏頭痛を無視していた。
それが、今では大発見をしたかのように 『なる』 と言って、小児科も思春期外来もこどもの患者が殺到しているではないか。
それで?本当に真実の実態やメカニズムが解明されたのか?
答えは、NOだ。


小児科領域も精神に関わる問題においては、最も未開の領域であり、また他疾患に於いても未解明な問題が沢山ある。
性同一性障害は、DNAの突然変異によって引き起こされた発達障害である。
しかし性同一性障害は50年以上前に解明されてはいたが、これといった社会的問題が明るみに出ず、またその障害者自身や家族の適応の仕方に任されていた。
この時代になって、急激に問題視され、患者が増え、メンタルクリニック(精神科)の医師が対応し始めた。
しかし私はその診察を受ける子と医師に疑いを持つ。
ある子は、身体は女性で中身(精神)は男性だと悩み、学校も不登校ぎみで友達と馴染めない事を苦にしているという。
カウンセリングを受けていくうちに、友達と関わろうとある日、女の子たちを遊びに誘って、彼女はそこで聞いて欲しい話があると 『カミングアウト』 した。
一瞬、友達の女の子たちはビックリするが、「そういうことって関係ないよ。アタシたちは友達なんだから」 と言われ、告白した彼女は安心した。
その日から、明るさが徐々に出て笑顔が増えるようになり、学校にも行きだした。
しかし、メル友は全員女の子。
彼女の願いは、性転換手術を受けたいだった。

私はこの状況に立会い、疑問を抱いた。
本当の性同一性障害であるなら、本来、男友達を欲しがる筈だ。
男友達としか共有や共感できないものがあるにも関わらず、彼女の身の回りにはそう云った男性的嗜好の物がない。あると云えば、衣服か持ち物(例えばカバンなど)しか見当たらない。
彼女は、何らかの男性的嗜好傾向や願望を抱く問題点はあっても、同一性障害ではない。
その証拠が、生理用品を買いに行くのも、それに対処するのも違和感を感じていなかったからだ。


人には 『変身願望』 というものがある。
そして、男っぽい人、女っぽい人がいる。
性的嗜好も人それぞれに価値観が違い、同性愛者もいる。
しかし、そうした人たちの全員が同一性障害なのかというと、厳密には嗜好的なだけであって、障害者ではない。


このように、親の育て方だけで、こどもが変わるのではない。
子どもは、子どもの描く、自分の理想像や願望に率直に従っているだけなのだが、願望を遂げる為に障害を装ったり、それを受容してはならない。
その時、最も身近に生活し観察している親が、子どもの願望や欲望を見抜けずに、あやふやな記憶で誘導され、「そういえば、そうだったかもしれない」 などと思い込まされてはいけない。
そのためにも、専門医は、親子関係を客観的に観察し、真実の問題点を導き出す役割がある。


上記に書き上げた様々な発達障害をすべて 『親学』 で解決出来るものでもなく、また親の育て方一つで変えられるものではない。




最後にキーワード検索のトップにあったHPを紹介しよう。

名古屋市教育委員会事務局 生涯学習部 生涯学習課
http://www.manabu.city.nagoya.jp/about.html

この中にある、親度チェックを試してみると良い。
具体的な回答は出されず、すべて人それぞれの価値観だとしか答えは出てこない。
それならば、何のためにチェックするのかと感じ、『親度』 という尺度はどこにあるのか、まったく無意味としか考えられない。
こんな曖昧な定義しか立てられずに、『親育て』 とは、随分乱暴で、報酬まで受け取る一般財団法人を有識者と言われる人が得る、そのメリットとは一体何だろう。
胡散臭い民間資格認定講座は、山とある。

この法人が受け取った報酬は、単純計算上で、
H22年度650人が認定資格を取得したという掲載だから、全6講座で25,000円(税込、認定審査料5,000円を含む。別途テキスト代)×650=16,250,000円となる。
これを高いと思うか、安いと思うかは個人の価値観だが、25,000円を払いその他諸経費、時間を費やさなければ 『親』 になれないのならば、この国の義務教育の在り方に問題があると言わざるを得ない。


親の適性検査をされる時代がやって来た。
それは法と親権者に対する冒涜であり、母性や父性と云った本能から生まれる愛情を否定し、愛着形成の本能をもコントロールしようとする行為だ。

2012年6月7日木曜日

生活保護をめぐる問題について

自分のTwitterで思うところを呟いたものを下記リンクにまとめました。
【生活保護問題 - 河本氏に関する意見】まとめ@tgetter


数年前から生活保護に関しては、役所による受給申請拒否や路上生活者支援に始まり、今日では不正受給者問題も浮上し、国会で保護費削減が検討されるなど様々な局面が問題になっている。

人気芸人 河本準一氏の母親が保護受給者であったことから、河本氏の援助に関する問題が不正受給問題へと今、テレビやネットで大きく取り上げられている。
しかし、それ以前から私が問題視してきた事がある。


路上生活者が急増し、ネットカフェ難民という言葉も出るほど、生活保護受給に関わる問題は様々だ。
元々、法律上で家族・親族は相互扶助が義務づけられている。
相互扶助とは、生命保険、国民健康保険等の仕組みでもあるように、自分が困った時の備えに保険料を払い、それを困っている人に分配し、互いに助け合うというものだ。
家族・親族に於いては、互いに助けられるものをそれぞれが出し合い、生活をしなければいけない。
それは、金銭的なものだけでなく、たとえば家事を手伝う、知恵を出し合ってお互いを助ける、また健康状態が悪ければ、健康な者が病院に連れて行くことや、犯罪被害に遭遇した場合に相談し合うようなことも含まれている。
要するに、金銭、物資だけでなく生きることに必要な問題を互いに助け合いなさいという事だ。

故に、親子関係者だけでなく、兄弟、姉妹、祖父母も同居、別居に関わらず、親族はみな助け合って生きなければいけない。


しかし、孤立無援社会や核家族化が進む中で、同居家族もまた自分一人が生きるのに精一杯と云った実情は溢れるばかりなのが現実ではないだろうか。
そうした背景に、路上生活者が世の中に増える原因がある。
自分の家族が、いま、どこで、どうやって、生きているのか、死んでいるのかすら知ろうとも、知らせようともしない、また出来ない社会状況がある。

本来、家族がある日突然、音信不通になったら 『心配』 をするのが当たり前だろう。
しかし、今はうっかり心配をして捜索願を出そうものなら、多重債務から逃れるために社会から消えた振りをしていたのに、警察によって発見され、悪徳な取立て者に追われてしまうような問題があったりして、家族全員の生存権すら危うくなりかねないといったケースも少なくはない。

また、単身赴任で勤めていた会社からある日突然解雇され、離れて暮らす家族に言うに言えない問題から路上生活に至った人も沢山居る。

そして、家族と協調できず、自ら孤立を選んだり、家族から見放されたりした人も多く、職を転々とし、失った人も居る。

そうした人々があまりに多く、公園や高架下などの公共の場を生活拠点にし、自治体から追放され、行き場を失う問題が起こり、援助団体が立ち上がった。
しかし、その援助団体の中にも悪質な団体があり、居住地を提供する変わりに、生活保護費を全額徴収・管理し、こづかい程度の現金しか渡さず、劣悪な環境に体裁よく軟禁しているような状況もある。


生活保護は、まず、申請時に失業または疾病などによって働けない実態が示めされることが前提条件であり、その申請しようとする管轄区域に住民登録がされていなければならない。
住む家がなければ、申請すら出来ず、その住まいの家賃なども細かく条件化されている。

生活保護法の具体的内容は、その職に就いている人でなければ公開されず、暗黙の処理が多数存在している。
そこに詳しい人が支援団体を立ち上げ、真面目に助けようと支援活動を行っている。
生活保護ビジネスという言葉がある現在、それは分野が多方面に拡がっている。
行き倒れる前に助けようという支援団体
受給できる裏技と銘打つ書籍著作者
援護しようとする弁護士
受給者が得た、金銭、処方薬から利益を上げる裏社会
受給者を自立させる糸口のための社会活動の舞台を提供する会社
ワークグループ
挙げればキリがない程、この世には生活保護者に関わるビジネスが、表裏一体で存在する。



本当に自力で生きられないほどの理由に直面し、生活に困窮している人は何%いるのだろう。
それを援助出来ないという、生活保護を受給している人たちの家族・親族は何%いるのだろう。
これらを事実明白に世間に公表しようとか、統計を採ろうというのは不可能だ。
むしろ、それらの問題に群がるかのような社会の実態を調査し、円グラフに表面化する方が、まだ簡単なのではないだろうか?
社会福祉事務所のケースワーカーが、浮上する問題点を箇条書きでまとめ、生活の実態調査を現に受給している生活保護者からアンケートで回答して貰えば、ある程度の実態の統計が具体的に調査できる。

何故、国や各自治体はそれらの統計を具体的に計ろうとしないのだろう。
そして、メディアを通じて、国民に公表しようと試みないのだろうか。
ある市長や一部の国会議員の意見を、何秒間かのインタヴュー映像で公開したり、ネット上で公開しても何も真実は見えてこない。
聞こえ、見えるのは、断片的な一部分でしかない事に翻弄され振り回されてはいけない。



人それぞれに、生活観や価値観、家族問題を何かしら抱えているのだ。




最後に扶養義務に対して、ある成人女性に問題点を的を絞って、一つ問題定義したい。

彼女は幼く物心も着かない頃に両親は離婚し、父親に引き取られた。
父親は、毎日パチンコや競馬などギャンブルに興じ、アルコール依存症のため朝から晩まで酒を飲んでいた。
父親はアルコール依存を治療するために精神科に通院しながらも、時々お呼びのかかる日雇いの仕事をしていたが、生活費のほとんどを酒代とギャンブルに使ってしまい、娘の学校費や給食費は滞納していた。
彼女が小学校に上がった頃から、父親から性的暴力の被害に度々遭う様になった。
彼女は、酒を飲んで、気に入らない事を言えば暴力を振るわれ、性的暴行を誰かに話せば殺すと脅されて育ったため、誰にも相談できず、18歳まで過ごした。
高校卒業と同時に、父親には内緒で寮付きの会社へ就職し、家を出た。
それ以来、父親とは音信不通となり、疎遠関係になった。
職場で知り合った人と結婚をし、一児の母親にもなった彼女の所へ、見知らぬ住所の福祉事務所から戸籍を辿り、父親が生活保護を受けるようになったので援助を求める通知書が届いた。


さて、このようなケースの場合、あなたならどうしますか?
父親は、ネグレクト、身体的虐待、性的虐待、精神的虐待を与え、親権者としての義務を果たして来ていません。
父親の兄弟は、元々疎遠だった上に勘当され出て行った人間の面倒を見る気はないし、本人も関わりあいたくないと拒否している状態です。
そのような経緯があって、一親等である娘さんに扶養義務として連絡が来ました。

このような立場の人であっても、絶対的に扶養義務を断固として、『義務がある』 と強要しますか?
考えてみて下さい。


※注意:これは一つの実態に基づく仮説として、例を挙げたものですので、個人を特定するものではありません。また、私個人の体験によるものでもありませんので、誤解しないで下さい。

地域医療と医療現場

本日2012年6月7日付けのWeb さいたま新聞の記事
全小児科医が退職の意向 さいたま赤十字病院
http://www.saitama-np.co.jp/news06/07/10.html?utm_medium=twitter&utm_source=twitterfeed


この記事によれば、ハイリクス妊婦の受け入れや高度先進医療が必要な小児が問題となっており、常勤医師が全員退職した内容が書かれているが、その詳細は明かされていない。

しかし、ハイリスク妊婦や生まれてきた乳児を対応する小児科医不足の問題は後を絶たない。
その上、全国的に 『医師不足』 は問題となっている。
果たして、本当に医師はそんなに居ないのだろうか?
国民総人口あたりに対し、一体何人の医師で医療を支えているのだろうか?


私の住む地域は大都市圏であるが、焼く10年以上前に市立市民病院が7箇所あったうち、5箇所が医師不足、経営赤字などを理由に閉鎖された。
残る2箇所でも、同じく医師不足や看護師不足、経営上の問題から、診療科目や入院病棟が一部閉鎖されている。

昔この市民病院は、高度医療の窓口として、町のかかりつけ医と大学病院や専門医とのパイプ役を担っていた。
構図としては、
保健所 → 近所の開業医 → 市民病院 → 大学病院・専門医
と、段階を経て、患者に適切な病院を見つける事が出来ていた。
ところが、この構図は患者の医療負担や検査料、検査による心身的な負担が多いという事やこれがドクター・ショッピングに繋がる弊害になりやすい事が指摘された。

市民病院閉鎖の背景には、開業医から直接(連携医療機関として)大学病院へ紹介されるシステムが構築された事と、看護師の希望勤務病院が勤務条件や給与面で率のより高い私立病院へ就職してしまうところにある。

医師不足とは言うものの、私が命名した 『ホスピタル・ストリート』 という地域が数多く存在する。
そこは、新たな土地開発によって出来た新興住宅街に多く、一般内科、歯科、耳鼻科、眼科、皮膚科、整形外科、そして院外薬局が隣接し、メインストリートの両端に点在している。
この科目は、ほとんどが医学部・薬学部で専攻し多額の大学費用を費やす分野であり、その開業医の経歴の多くが少数の大きな病院での研修期間を修了した後に、現在に至ると云った具合だ。

恐らく、入学した大学病院で教授(医局)での勤務体制や人間関係に労を費やすより、法定で定められた修了期間をクリアし、財力のある人が開業した方が早く、学費の回収に繋がるという理由が見受けられる。
そして、医者はボランティアではなく、病院経営の経営者であり、事業主でもあり、これは立派なビジネスとして成り立っている。
故に、医薬分業となった現在では、大抵開業医の隣に処方箋薬局が隣接しており、医師と薬剤師と製薬会社は連携してビジネスを展開し、その頂点に立つのが院長先生なのだ。

高齢者と小児科児童(0歳~15歳まで)は、病気に罹りやすく、風邪が流行れば抵抗力の少ない年齢層でもあり、患者(お客様)は必ずやってくる。
併せて、予防注射の摂取対象年齢層でもある。
そこから、資力と着眼点の鋭い院長先生は、高齢者介護ビジネスを一つ、また一つと展開し、周辺に開業されている他科開業医に紹介をし、紹介料と診療報酬を得るという需要と供給を展開するのだ。


こうなると、公立の市民病院の存在意義や医師の人気は激減するのも当然だ。
上記の 『ホスピタル・ストリート』 に唯一存在しないのが産科・婦人科であり、開業されている産科・婦人科も今ではハイリスク妊婦の受け入れを公然と断っている。

母子共に健康で生まれてくるのが当たり前ではない時代を物語っている。
原因は一部に、医療機器が高性能になった事によって、胎児検診の時点で高率に問題を発見し易くなった事にある。
早い段階で異常が発見できることは、その後の経過や生んでからの対応の仕方に対して心構えを整えられる利点の方が優位であるにも関わらず、それが故に医師は 『万が一の事態』 命に関わる事に恐れをなしてしまう。

医療事故は、故意に起こす問題も明るみに出ない問題点も確かにあるが、誰もがわざと起こしているのではなく、ほとんどが過失によるものである。
しかし、患者感情としては、故意であれ過失であれ、そんな事よりも一生背負う事に問題がある。
医師は神様ではない。
けれども医師には倫理と照らし合わせ、真摯に対応しなければならず、いかなる間違いも許されないのは、『命』 の裁量を預かる存在である。

産科医の立場になれば、まだ未開の医学である現状で、敢えてハイリスクは負いたくない。
ハイリスクを抱えた患者の立場になれば、それが未開であったとしても藁をもすがらねば、生きてゆけない現状。

その両者の橋渡しをしていくのが、医療コーディネーターの役割であろう。
しかし残念な事に、その医療コーディネーターは病院に雇われた、病院側の人員であって公正中立な立場とは表向きの綺麗事なのが実態である。
両者の事実を知りつつも、病院側に不利益となるような事は患者に伝えられない。
もし、伝えなければならない事態に遭遇した場合は、医師の判断によって医師自身から患者へ伝えることが原則だ。



見えてくる地域医療と医療現場の問題点が、お金であることが分かる。
残念ながら、命=財力であることは紛れもない事実なのだろう。

公立病院が倒産する背景には、私立大学病院の事業拡大、有能で有益な医師の獲得もある。
儲けるため、食べていくため、地位を築くため、それぞれの思惑の中にある医師たち。
果たして、置き去りにされる患者たちは、誠実に、純粋に、命を助けようと思っている医師にどうすれば辿り着き、巡り会えるのだろうか。


すべては、倫理観と価値観に懸かっている。

2012年5月27日日曜日

NHK 未解決事件オウム真理教を観て


私は去年、東北大震災について、
20011年5月3日
不謹慎と自粛解除の政府発表が与えた悪影響 という記事を書いた。

そこにちょうど、オウム真理教ー地下鉄サリン事件に於ける、山梨県上九一色村の一件を取り上げている。

今日放送されたNHKドキュメンタリー番組 『未解決事件~オウム真理教』 を観て、現在の上九一色村を初めて見た。
1995年は、年明け17日に阪神・淡路大震災が起こり、愛知県小牧空港にて大韓航空機墜落事故、そして地下鉄サリン事件が起こるような日本中があらゆる事件や事故の大惨事に見舞われた年だった。

記憶が曖昧なのだが、サカキバラセイトという少年犯罪に翻弄されたこともあった。

何重にも未曾有、前代未聞の出来事が重なったこともあり、忘れられない年でもある。


今日の放送を観ていて感じたのは、構成や時間の関係、制約上の問題があってなのか、
教団の年表をただ見ているような気がした。
サリン製造から、松本サリン事件、そして地下鉄サリン事件に至るまで、どれだけの日数が経過し、
警察が強制捜査に踏み切るまで何ヶ月掛かっていたのか、その間、あらゆるマスコミやテレビにどれだけ教団関係者が出演し、テレビ局全体で報道していたのか、それらが放送されなかった。

その時代に、偶像化、虚像化され、連日のようにテレビで報道されたり、出演して自らを正当化する発言をどれだけ取り上げて来たのかを実際に観ていた私は、いまでも鮮明に覚えている。

あれから17年経って、今の若者の知らない、信じられない出来事が実際にあった事。
それをマスコミが追い掛け回して、ワイドショー化していた現実。

第二部を明日、放送するようだが、警察VS教団と予告していた。
700本を越える生録音テープの内容を、公開しても、『年表まがい』 の構成では、一体何がどういった経過を経て、大事件にまでなったのか概要しか解らないような内容だったことを考えると、明日の放送もその程度の 『真実』 しか放送されないように思った。


地下鉄から運び出される人々、誘導する駅員の人々、その映像に残された人たちは命を失った。
遺族の事を考慮して、解説もテロップもなかったのは理解出来なくはないが、当時の被害者リストの報道を覚えている私は、「いま写っているこの人たち、みんな死んだんだよ」そう、独り言をつぶやいた。


『いま明かされる真実』 と銘打つならば、当時の報道内容も織り交ぜなければ、私たちが見せられ、知らされてきた事が、それらを知らない人々にとっては理解出来ない。

ある側近幹部が、とても聡明で弁の立つ利口な人で、教団が叩かれ出した時にスポークスマンとして、多くのメディアに対応した。
それまで、国内ではあまり耳慣れない言葉を巧みに使って、国民は意味を知る事になった言葉。
『ディベート』
『マインド・コントロール』


群集心理とは怖いもので、メディアへの露出が多くなればなる程、悪人が英雄に見えてきてしまう錯覚が起きた。
彼の容姿、話し方、パフォーマンス、すべてが個人的な錯覚によって、偶像と虚像を招き、一時期、ファンクラブまで発足し、彼と結婚したい、彼のこどもを産みたい、そう言って若い女性が、事件とは無関係に恋をし、入信者まで現れた。

その後、地下鉄サリン事件が起きたのだ。


この手の錯覚は、いつの時代にも起こっており、アメリカでの大量・怪奇殺人事件では、有名なところでマンソン事件などあり、1994年映画 『ナチュラル・ボーン・キラーズ』 の中でも取り上げられた。
一種の錯覚には間違いなく、誰もやったことのない大事件では誰もが最初は恐怖を抱く。
しかし、テレビで他人事のように連日放映され、また本人が露出すればするほどに、人々の意識は好奇心へと変わり、やがて間違った憧れを抱く。

これを、集団心理の合理化、同調心理という。


今回の震災の津波映像や福島原発事故の映像も、当時連日のように放映され、ある種の刷り込みがあった。
それから一年が過ぎ、「復興、支援」ばかり聞こえるが、瓦礫の受け入れ反対で逮捕者が出たり、原発反対デモで押し問答の放映がされている。
人々が、「それは嫌だ」と主張している事が、まるで事件を起こしている人のように騒ぎ立てるメディアは、正しいのだろうか。
逆に、強引なまでに原発推進を進めようとしている人々が穏やかそうな表情で会見に応じているように見せるメディアは、間違っていないのだろうか。



放送の中で、元信者が言っていた言葉が、とても印象的で真実のように思えた。
「何が正しくて、何が間違っているのか、何もわからない」
「自分たちは、本当はどうしたかったのだろう」
「本当は何を探していたんだろう」

こんな問いは、安保理闘争の学生運動の時代から、ずっと未だに変わらず誰もが抱いていることだ。
時代と共に、事件は強烈で凶悪化しているように言われるが、実は何も変わってはいない。

ただ言えることは、年々映画の題材がノンフィクションを元に作られ、映像や音響効果が過激になっている。
それらが、人々の麻痺した刺激を求める麻薬になり、事件を模倣する題材として無意識になっているということだ。


教団の印象は、マンソンファミリーやナチス独裁に何故かどことなく似ている。
教祖の姿は、独裁者そのものに見えた。
是非はさて置き、フセイン大統領、カダフィ大佐等の独裁者と言われるその誰もが最後捕まる前に、洞穴や狭い隠れ部屋で金を片手に隠れていた。
そっくりだ。

『教祖が本当は何をしたかったのか、理解出来ない』 と精神科医や分析官らが番組の中で言っていたが、それは真実ではない。
番組中、何度も信者が証言していた。
『サリン製造量は約70億人分を最初から計画、想定していた』
それで、はっきり目的が理解出来るではないか。

この地球上に居る人口数ではないか。
教祖の最終目的が、世界征服だったことは明らかだ。

マンガやアニメにも出てくる簡単な理由であり、英雄になり、独裁者の誰もが思い描いた世界だ。




今でも忘れられない光景は、上九一色村の村長が最後まで行政に、
『あそこの施設はおかしい、絶対に何か悪い事が起きているから調べてくれ!』
そう訴え、村人たちと一丸となって、
『オウム出て行け!』 と自分たちの力で戦っていた姿だ。


一つの村を死に追いやり、野次馬見物した人々。
罪の重さだけでなく、私たちの誰もが、悪人の一人でもある、それを忘れてはいけない。
そう思えてならなかった。

2012年5月23日水曜日

憂い

何も出来ないのなら、何もしなければ良い。

何か出来るのなら、やれば良い。

出来ない事を嘆くより
やれる事が当たり前だと思えば、それだけで十分。


所詮、人に出来る事など
すべて当たり前のことくらいしかないのだから。

何も特別でなく、威張るものもない。


偉業だと語るのは、他者にとって不可能であったから評価された結果なのであり、
当人にしてみれば当然であり、可能だった結果に過ぎない。

たった それだけのことだ。

2012年1月28日土曜日

診療履歴

私は10年ほど前から思っていた。
年を経る毎に病気が増え、初診時の問診表に既往歴を書くのに一苦労する。
最近では診療科目の細分化やかかりつけ医、専門医とあちこちの診察券がまるでトランプのように増える一方だ。
しかも違う診療科で予診を受ける度に、同じ事を説明しなければいけない。

電子カルテの導入によって、一つの病院内で自分の病歴や通院歴を医者に見てもらえるのは良いが、お陰で医者は患者の顔よりもパソコンの画面ばかり見て、キーボード操作ばかりしている。

面倒なのは、病院が違うと何も共有していないため結局は手書きの問診表と説明。

診察券にICチップを入れて、一度打ち込んだ記録を国内どこの病院にかかってもみられるようにすれば、既往歴が一目瞭然で分かるようにすれば時間も患者の負担も医者の理解も節約できる。

問題はインフラ作りだが、全医療機関共通のドクターソフトを開発すれば良いだけだ。

今やクラウドの時代なのだから、病歴の一括管理が出来ない訳がない。

多分、個人情報を悪用してそのサーバーにアクセスされたら、医者の守秘義務が保てず、病院を語った詐欺が横行する危険があるから、踏み出せないのだろう。


しかし、小さい頃からの病歴が分かればそれこそ『総合診療』として、その人の経緯が探れるのではないだろうか。
中年も超えてくると、一桁の時に何があったのか覚えていなかったり、知らなかったり、年表を作るのも難しくなってくる。

大体、人間なんて40を超えて来たら何かしらの病気になって当たり前。
それが運よく老年期になるまで、これといった大病を患わなかったとしても、それから思い出すのも記憶力だけが頼りになってしまう。
その年になれば親も生きていたとしても記憶は曖昧だろうし、もしかすれば他界している可能性もある。


私のように子供の頃から、度々病気ばかりして未だに病気が増えて行くと、もうお手上げになる。



そう思いながらずっと来たが、今日テレビのコマーシャルで富士通がその診察券を開発してフィンランドで使用されているのを知った。



日本は遅れている!とつくづく思った。
「だから言ってたでしょ、診察券一枚と保険証一枚持って行けば良いようになればいいのに!何で誰も思いつかないの?って」


次は今まで溜まった診察券にバーコードを読み込むなり、そのIDを打ち込むなりすれば自分だけの医療専用カードが作れるようになる機械を作ることだ。
作成時にパスワードを患者が設定できるようにして、銀行やコンビニのカウンターと同じように使う時に患者がキー操作を医者の前でする仕組みにすればいい。
あくまで医療機関ではブラウジングするだけで、カルテに書き込んだ後は上書きの際に患者が同意のエンターを押すだけ。
患者はいつでもカルテを自分で見れるようになればいいのかもしれないが、情報操作を勝手に出来ないようにするにはカルテの書き込みをした医療機関のコード番号とパスワードがなければ見られないようにすればいいのではないだろうか。
細かいセキュリティーの構築は分からないが、必ず出来るはずだ。


何せ、住民登録番号を国が勝手に作って、日本全国共通で分かるようにしたのだから。
人間番号を作れたのだから。