2012年11月14日水曜日

心理学、精神医学、精神分析学に於ける考査の視点

心理学、精神医学、精神分析学等の分野に於いて、ここ最近気になる点が多い。
各分野で、提唱された学術や文献にどうも 『派閥的思想・傾向』 を感じるのだが、研究されている方々にひとつご紹介したい。


大変古い本だが、
アドルフ・ポルトマン著/高木正孝訳による 『人間はどこまで動物か~新しい人間像のために~』
初版1961年10月30日、1974年4月10日第17刷発行(現在絶版)
この本の第1頁目に書かれている文章をご紹介しよう。
『この本を読む方へ』
 まずはじめに、 「日本版へのまえがき」 から、本文の 「Ⅰ 生まれたての人間」 以下 「Ⅵ 老衰」 までよんでいただきたい。それから、編集者による解説 「現代の人間研究における生物学の役割」 をよんでいただければさいわいである。
 そのあとで 「序」 と 「結び」 にもどっていただきたい。というのは、この 「序」 は第二次世界大戦中にナチス・ドイツを対象にした著者の立場の哲学的表明であり、そこには、キリスト教文化圏であるヨーロッパの思想と、生物学を学んだ読者でなければ理解に苦しむことがらがくどいほどもられているからである。
 ひとことでいえば、ヨーロッパにおけるキリスト教という文化的支柱の大きな役割と、それを土台とする思想が直接ヨーロッパ人の生活にどんな力をもっているか、そして、 「人間論」 がひとびとの日常生活にまでどんなに深い関係をもつのか、があらためてみなおされる。それにくらべてわが日本では、宗教といっても、その大部分はこの地上の人間関係を主体とする文化圏であって、思想・考え、つまり 「人間学」 なしにすませていること、わたしたちの生活や、道徳も、みんな目さきの人間関係だけにかかわっているのがわかる。
訳者

この文章の中で書かれているように、文化圏や宗教等の違いから、物事の捉え方がそれぞれに違いがあり、人間の根底にある心理は国によって観点を変えなければいけないことが覗える。

心理学・精神分析学を創造した人物の育った環境や国、時代などの違いから、今日では合致し難い観点も多く、新たな見直しが行われているがそのどれもが、目先の問題解決に捉われるばかりなのではないだろうか。

この訳者による解説のように、学説の検証をするにあたり本質は何処にあるのかをまず見極め、採り上げる論点を選択しなければならない。
学徒にとってもっとも大切なことは、それらを踏まえた上で 『ひとつの学説』 に捉われず、tetra-cycle brain を持って挑むことである。

学術書の読み方では、もくじから起承転結を追って読む必要のあるものと、そうでなく、この解説のように、追う順序を変えて読まなければ、視点・論点を繋ぎ合わせるのが難しいものがある。
しかし、日本での精神医学は英国を始めヨーロッパ諸国と早くから協力体制がとられ、その情報は大変多く、学術書も国内には多数保存されている有難い状況だ。
それらをどのように活かし、発展させるかを今一度、研究者、学生、臨床家は考えなければ宝の持ち腐れになってしまう。
学会大会を学説論争の場にするのではなく、それこそ 『価値観の共有』 にしなければ、何の意味もない。
論文を沢山発表するだけでなく、その先に何を追及し、探求していくのか当事者は明確な到達点のヴィジョンを抱いて研究に取り組まなければならないのは言うまでもない。


診察や研究をする際、その患者(対象者)の何を診ているのか?
『症状』 なのか?
『病名』 なのか?
『現状』 なのか?
『適した薬剤』 なのか?
『治療法の模索』 なのか?

自分は、何を見ているのか考え直してみると良い。
患者が敢えて語らない、見えない真実があることを忘れてはいけない。
それは、教科書には書いていない。
日本は島国であるが故に、多国籍人種があまり存在しない。
最近でこそ、ハーフタレントや国際結婚によって、見た目に解る外国人風の日本人が多くなったが、しかし中には日本生まれ、日本育ち、日本語しか話せない 『見えない外国人』 が存在する事を把握しておかなければならない。

つまり 『人を見た目の先入観で判断しない』 ことが必要なのだ。
理解し難いかもしれないが、その人の生い立ちの背景に日本文化ではない文化の価値観が存在するのだ。
人々には何らかのルーツがあり、小林隆一氏(現:鹿児島国際大学経済学部教授/専門は社会学)が書かれた 『県民性』 という論文では、日本人の国民性を詳しく地域の人間学として紹介されている。
血は争えないという諺があるが、まさに本人が敢えて意識していない無意識の先祖代々によるDNAに刻まれた記憶が存在する。
患者の親の教育方針や家庭環境は、その親すらも無意識の中で行っており、自己と他者を比較する事もなく、当たり前に 『日本人』 だと思っている場合があり、結果として 『敢えて語らない、見えない真実』 がそこに存在するのだ。
それこそが 『常識』 という曖昧な自己同一性の価値観である。


研究者や医師が当然と疑いなく見過ごしている中に、解明の糸口は隠されている。