2021年9月16日木曜日

連載Egoの執筆後記

 始めに解説をしておく。


Ego(エゴ)とは精神分析学に於ける概念、用語で、自我を指す。

精神は、エゴ、エス、スーパーエゴの三者から成り立ち、始めにエゴが外的要因によって受けた影響を解釈し、エス、スーパーエゴがそれによって反応を示し、一定の均衡を保つように出来ている。

エゴ

エス

スーパーエゴ

これらの詳細については、Wikipediaでも何でも紹介されているので参照されたい。


この世には、溢れかえるほどの人格障碍者が渦巻いている。

私の指す人格障碍者とは、世間が上澄みのように捉えている所謂”障害”を有するひとではない。

反社会性人格障害を有する者を指しているのを注意しておく。


小説や映画などの娯楽でも反社会性人格障害を題材にしたものは多く存在している。

いつの時代でも同じ傾向があることに気が付いた。

彼らは私たちの日常生活の中に溶け込んで、何事もないかのように自然に存在している。


共通する現象は、一見優しそうで、穏やかそうで、決して悪意をこちらに向けては居ないように見せる姿だ。

決定的な犯罪に走る者ですら理解困難な精神構造を有している。

それは、彼らなりの『正義感』に価値を見出し、自分の価値観に当てはまらない者はすべて『悪』であるという概念を持っているからだ。

絶対に覆らない価値観を持っている。


それは私たちも同じなのではないだろうか。

自分が信じているものや信じてきたものを覆し、まったく正反対の概念や価値観に変換することなど出来はしない。

人格形成の未熟な発展途上にある少年期のヒトでさえも、確固たる概念を持っている。


それが 『信じる』という曖昧な概念なのだ。


どこの地域で生まれようとも、どんな言語の中で育とうとも、自分の生きている地域の政治や教育が各々違えども、人間が生まれ持って培い、この世に誕生した時から備えて来ている物は、ただ一つ。

良心 なのだ。


誰かが教えたものでもない。

誰かが植え付けたものでもない。

人間が人間たる者であるために、細胞の中に備えて何億年も変わらずに持ち続けてきた持ち物なのを普段の生活で意識するようなことはあまりない。


良心と信仰心は深く結び着いている。

信仰心は何も『何教』という宗教的なものに属して抱く概念や観念ではない。

人間は元々、何かを ”信じる” ように精神構造が作られている。

経験によって獲得する信じるという観念もあれば、本能的な無意識の潜在化によって獲得している信じるというものもある。

これを盲目的潜在意識と精神分析の中では表現されることもある。


この盲目的潜在意識を意図的、恣意的に操作しようとすると人間の精神に狂いが生じる。


そんなことを意識的にわざわざしようとする人間など ”普通” は居ない。

意見の対立や価値観の相違が生じたとしても、潜在意識を意識しながら対峙することはない。

それは精神科医であってもしない。


したのは、ハンニバルくらいだろう。

ハンニバル・レクターが実在したのかどうか知る気はない。

『映画ハンニバル』の脅威に3回も曝され、その悪意ある行為に憎悪を抱いた事だけは記憶している。

主人公のハンニバルの悪意を指しているのではなく、その映像世界を作り、この世に曝しだした者たちの悪意を指しているのを書いておく。


今回の『Ego』は、主人公と脚本家と監督のすべてを1人の人物が行っている。

しかし、その者は自分の知識や知恵で実行しているのではない。

ある物語に忠実に、ある物語を自己解釈して、自我を押し付け、脅迫し、他人の概念と精神構造を書き換える巧妙な手口を駆使する。


私は決して彼を犠牲者だとは言わない。

彼に五分の理を決して与えない。

許しを決して与えない。


このようなことがあって良いのだろうか

そんな疑問など必要ない。

何千年もの時を超えて存在し続ける『業』

それを『Ego』と題して表現した。


業も自我も実体化するのは難しい。

これを「業と言うのだ」

これを「自我と言うのだ」

そう立証出来た者は存在しない。


何となく、そうだ

そのような掴み処のない表現でしか伝えられない物だ。


私が見たエゴイストは、エゴイストではなくサイコパスの中にある”エゴ”だった。


”普通”の人間はエゴを隠したがる。

それは恥ずかしいのが理由だからだ。

エゴは見られてはいけないもの。

人間の本性と捉えられるエゴを顕わにする場面は怒りの感情が頂点に達した時とされている。

だから”普通”は見たこともなく、実感することも、意識することもない。


しかし何故かサイコパスは目を覆いたくなるほどに初めから曝け出している。

だから余計に気が付かない。

ストリーキングは恥部を露出して、それを目撃した者の反応を見て愉しむ。

その心理と似ては居るが、露出して来る物体が目に見えない『精神』の持ち物だとすると、こちらは防御のしようがない。


それに対抗する宛がう持ち物は『精神』しかない。


犯罪は、こうしていつでも忍び寄る。


それを私は決して見逃さない。



この物語を読んで、何が題材なのか、何があったのか、恐らく詮索することだろう。

直ぐに思い当たる人も中には居るだろう。

しかし核心となる物については何も書かない。

もし気が付いたのなら、自分を見つめ、周りを見回し、自分の居る位置を改めて確認してみると良い。

あなたは誰かに操作されていることに気が付けるだろうか?



最悪を与えたいのではなく、最悪の中から抜け出して自分を取り戻して欲しいと心から願い執筆した。

連載『Ego』最終回

 週に3回答えさせられる

毎日『~をしましょう』と始めに”教官”が号令を掛ける。

何の違和感も抱くことなく、聞こうが聞くまいがどちらでも良い。

その通りにしろとは命令されていないが、『ましょう』の言葉には誘導の心理が含まれている。

優しい語りかけのようで、それはある種の脅迫的誘導になっている。

決して”悪い”語りかけをしている訳ではない。

しかし”誘導”とは、語り掛ける側に利のある事柄であって、こちら側に必ずしも有利であるものではない。

故に、”誘導”というのは『良い心理』から発生するものではない。


毎日、褒美を与えられる代わりに、こちらがどんな考えでいる人間であるのかを図られる場所が置かれる。

その答えは、”必ず”、そう”必ず”

『善とする答えを答えよ』と強要される。


そこで、ひねくれて『悪とする答え』を答えようものなら、即刻切り捨てられるのが解る程に単純で、簡潔で、思考を必要としない問いをわざと仕掛けられる。


彼の持っている教科書にある教育プログラムを噴霧されて報酬を得る。

そんなことも全く気付けない。

ここでは自分の価値観も概念も善悪も何も持たせては貰えない。


世界に入った瞬間から自分の生皮を剥がされ、与えられた皮革を纏わされ、すべての者が同一化される。

それは精神も同じく施される。

こんなことに耐えられる訳がない。

精神の生皮を剥がされ、剝き出しにさせられる時点で悲鳴を挙げる思いがするのも当然だ。

しかし、それが大事なのだ。

徐々に剥がされたものを覆い、傷を癒そうと与えられた物を拾い集める。

拾い集めれば集めるほど、彼の描いた”犯人”へと転化して行くとも知らずに、それを『褒美』だと勘違いして拾わされ、対価を払って行く。


魅力的な同一化した”犯人”たちに憧れさせるのも手段だ。



手を切るとき

彼の行いは、我に返って居る時には記憶にない。

自分がある種の”犯罪”に巻き込まれたとは努々(ゆめゆめ)考えもしては居ない。

それが『洗脳』という”誘拐犯”の手口だ。


”誘拐犯”は、自分は”善人”で、さらった者を”罪人”だと思って居る。


”罪人”に何を与えたいと思って居るのか?


『絶望』


絶望という罪を心髄から味併せ、自己の正義を飲み込ませること。

それが彼の目的だ。

それに気付いたとき、試されるのは人間が本来持って居る、決して何者にも左右されない本能的な 『良心』 に目覚められるかだ。

彼は決して、決して良心を目覚めさせたいのではない。

その逆で『良心を破壊し再構築すること』これが目的である。


俯瞰でいま自分の置かれている状況を冷静に観てみる。


今まで何度も俯瞰で見なければ見えない、と思いながら戦ってきた。

それでも見えなかった。


絶望に気付いたときに、初めて自分が

誘拐され

操られ

洗脳を仕掛けられ

精神を破壊され

良心を捨てさせられ

妄想を刷り込まれ

自分が犯人にされ

監禁された

…と自覚出来る。



自覚の後、その”犯人”が、どのような行動に出るのか

彼は知っている。


ある者は従い残り、ある者はただ去るのみ。

去った者が公言しない、出来ない、しようがない

それも彼は知っている。


彼が施し、与えたものは

自我を剥き出しにさせ、精神を崩壊させるものだった。


この世界にあったもの

それは、彼も、彼の言う”犯人”らも、そして彼が見せ続ける世界にも充満しているのは、

自我欲の巣窟である。



誰も語れない世界がそこにあった。

連載『Ego』第9回

 落ち着き始めたころ

それをはっきりと見えているのに見えない。

自分が見せられているものが何なのか何も解らない。

”解っている”つもりでいるだけだ。


彼の厄介な処は、すべてをオープンにしている処。


人間は見たもの、聞いたもの、感じたものを自分の体験、経験に結び付けて

「きっとそうだ」と思い込む。

自分の良いように捉える。

だから、人それぞれに価値観の捉え方が違うのが人間の居る現実世界だ。


しかし彼の世界は違う。

彼が見せたものや感じさせたものは、こちらの価値観で変える事が出来ないように仕組まれている。

絶対的に多様性にさせない工夫がされている。

こちらが捉え方をいくら変えようとしても変えられない。


人間には適応力がある。

それを発揮する時は、大抵が困難を可能にしようと努力するときに現れる心理だ。

何かが出来なければ、得られなければ諦めてしまう。

それでは彼の計画が達成できない。

だから助けてくれる”犯人”を宛がう。

すると可能になる。

自分だけではどうしても越えられない『もの』がある場面で必ず”助け舟”が差し出される。

それを同じ状況に、たまたま居合わせた者だと勘違いさせる。

彼の作為だとは誰も気付かない。


コミュニケーションをしようとしまいと何も変わらないのに、其々の個性で選べる。

彼が与えているのは『孤独感』なのだ。

”犯人”らは、その孤独感を楽しんでいる。

嫌だと思う者は連帯するし、その方がむしろ自由で良いと思う者は単独行動をする。

どちらにしろ彼の手のひらで遊ばれているのには変わりはない。



周期するゆらぎ

ある”犯人”は気の合う仲間と密接になって居る。

ある”犯人”は誰にも邪魔されぬよう孤立して居る。

両者ともに訪れるのは、「もう辞めようか」という疲弊感。


疲弊感と閉塞感の中でもまだ続けようと思い直させるために、実に魅力的な”餌”を予告して据え置く。

飽きさせない、離脱させないための演出を用意してある。

それも全く無理を強いない。

各々のペースで締め切りまで好きなように計画して実行可能なようにして置き、最後の答えだけは隠してある。

手品と同じ。

種明かしは最後に取ってある。

その『最後の答え』に無理難題を押し付ける。

それが彼の、そして彼のパトロンへと渡る仕組みになって居る。

群がる”犯人”たち。

一歩も二歩も出し抜こうと躍起になる”犯人”たち。

それに追い着こうと我武者羅になる”犯人”たち。


彼は、あたかも縁日でご利益にあやかろうと集まって来た群衆に餅をばら撒く高台の『神』の如き存在に昇り詰める。

あるいは、ハイエナにおこぼれをやる満腹のライオン。


答えを知り、鬼のような課題に釣られたと思う者は諦めてたたずむ。

まだ出来るやも知れんと立ち上がり、抗おうとする者も居る。

身を滅ぼし、身を削り、精神的疲弊を与えられても辞めようとは決してしない。


面白さと個性を作り出すために舞台が用意されている。

それは彼が集積するデータのためにある。


彼が何を収集しているのかは、”犯人”には分からない。

2021年9月14日火曜日

連載『Ego』第8回

 350

それは計算された平均的な気付きのタイミングなのだろう。


統計上、人間の思考力は無限なものだと考えられている。

歴史上、数多の実験の果てに導き出された時間軸は古代から近代まで変わらない。


憑りつかれた者を振り払うには知恵が必要だ。


先ず、自分が『憑りつかれた』ことに気付けなければ不可能だ。

何に?


もう、この時点では彼は居ない。

彼の言い分は、

すべて見せただろう

すべて教えただろう

初めから、そう言ってるじゃないか


好きにしろ



勝手にさらった訳じゃない。

自分から興味を以て足を踏み入れた。

入って行ったのは自分。

進んだのも自分。

得たいと思ったのも自分。


彼は何も裏切るようなことをしてはいない。

期待したのは自分。


何があったのだろうか

疑心も不穏も何もかもが無くなって、放心する。



空虚と憎悪と快楽

次々と切り捨てて行く。

もう学習はした。

何が起きるのかも経験した。

どこへ行って、

何をして、

何を得て、

何を繰り返せば良いのかも分かった。


けれど肝心なものだけが見えない。


何となく感じる苛立ち、手の内、他の”犯人”たちの傾向。

もう一度はじめから試してみようとする。

今度こそは思い通りに動かされないように慎重に確認しながら進もうとする。


しかし彼は、そう甘くはない。


いくら慎重な姿勢で行動しようとしていても、無作為に当てがわれるアクシデントが襲い掛かる。

第二の手を仕掛けて来る。

ややパターンの違う相手をばら撒き始める。


据え置いたものもどこか違う風景のような錯覚がし、別の場所をゆっくりと探ってみようと自主的行動を始める。


新たな発見が安堵を与える。


それも束の間、またスケジュール通りに無の終わりがやってくるが、人間の素晴らしい発展する思考力が芽生える。


『一体感と連帯感』が生まれるのだ。


傷つくことを敢えて誰かに与えようと思う人間は多くはない。

むしろ共に支え合い乗り越える助け合いをしようじゃないか

そんなバカバカしい思いやりが発生する。


助け合ったところで得られるものは自分だけの利益。

与えられるものは、ただ共に居るという安心感と孤独感のない空間だけだ。


それなのに”犯人”らは、友達になったつもりでいる。


その分子が増えれば増えるほど喜ぶのは、もちろん彼だけだ。



犠牲者は今この時も増え続けている

連載『Ego』第7回

 意外性

それは、ハッピーエンドでもバッドエンドでもない。


アドレナリンに打たれ、コールタールの中を突き進む快感に満ち溢れた世界。

何の使命感なのか意味も解らないまま、ただただ終わるまで進もうとする。

もう結果なんかどうでも良い。

対価と報酬のことは忘れさせられている。

中には用意周到に準備して来た者も居たのかもしれない。


何が何だか

誰が誰だか

何処がどうなのか

最後に何が起こるのか


何も解らない。


彼に試されるのは、自らを失わせる覚悟だけ。


彼は初めからそうだった。

何も教えなかった。

感じるのは自分だとも伝えなかった。

何かが得られるとも言わなかった。


やっと目的の行動に達した気分になれる世界がネズミ捕りの後に待っていた。


彼は見ている。

貪るだけ貪い尽くした”犯人”たちが、どうやって自爆して行くのかを。


彼は与える。

「何だ?どうしたんだ?」

そう思わせる、あの手この手のアクシデント。


交通事故の瞬間のような心拍数は、ほんの何分間かで無になる。


計算された自分が掛かった時間分の待ち時間の間に、思い付く。

「もう待ってても仕方ないから」

散々、捨て鉢な気分でそこまで辿り着いて、告知通りの『すべてを失う』が起こるかもしれないというのに、妙な納得感がある。

試された通りに”犯人”たちは一度『覚悟』を決めた。

だから諦めにも似た気分で呆然と待っている。


直ぐに解消され、連れて行かれたのは何も変わらない振り出し。

だが、何か雰囲気が違う。

「あれ?」と、そこで初めて ”元の我” に返って辺りと自分の状況を確認する。


1、2、3、4、5、6、7、8、9、

10カウント目でメッセージがわっと現れる。


文章理解能力もやや崩壊し掛かる間際で、

「あれ?まだ続いてるのか!」

無になった訳ではないんだと、ホッとして習得した方法で戻ってみる。


すると、先程のアクシデントの続きからまた世界が始まる。


あとはお任せ

好きにしろ

彼は無視する。



けれど、まだ手放してはくれない

連載『Ego』第6回

静寂

自分よりも先に経験した者が現れる。

同じような者が現れる。


彼のファンが居る事に気付き、ここを踏み越えたらどうなるのか下調べをしてからにしよう。

そう知恵が着いた頃のことだ。


一度は、

「ここまで耐えて登って来たのに何で水の泡にするようなことをしなきゃならないんだ?」

全く理由が分からず引き返す。


人間は”価値”を見出す。


対価と報酬を得るために努力を惜しまない。


腑に落ちないまま立ち竦む時間は、今までのような挑戦者気分では居られず相当納得するまでに掛かる。

いくらでも時間はあるから好きなだけ考えるが良い。

彼は心の中に忍び込んで囁く。



いきなり脅迫される。

ここを過ぎたらすべてを失うが良いか?


良い訳がない


その理由を探すために身近な出会う”仲間”と宛てなく余暇を楽しむかのように、本来やりたいと思って居ることではないのに間を繋ぐ。

それをコミュニケーションと思い込む。

気の合う”仲間”を求めて、来る日も来る日も、取り換え引き換え彷徨い続ける。


そこでは『感情』がそこそこに表される。

それがあたかも本物かのような気にさせられ、差し障りのない『その場』のやり取りが交わされる。

その会話は居合わせる者らに公開されることを初めは知らずに居る。

先に知った者が、辺りを見回し自分たち以外誰も居ない事を確認してから始められる仕組みが、ポイントに設置されている。

大抵の場所に『椅子』が置かれてあり、この誘導は実に巧妙に仕組まれている。


手を差し出されて、払い除けるには理由がある。


椅子を差し出されて、座ろうと思う衝動は、

『休みたい』

『その世界から一旦離れたい』

自分の領域を作り出したい思いから無意識的に起こる。


不思議と何処にでも座ろうと思えば座れるのだが、出来れば椅子の方が良いと無意識的に思うのは文明が発展した恩恵だ。

深層心理では、何者かより一段高い場所=安全優位性であることは立証されている。


常に付き纏う ”優劣” が、この世界では刷り込まれる。

自分は劣等だと何故か感じさせられ、叩き込まれ、この段階まで来ると浸み込まされている。


この椅子の会話を彼は一部始終つぶさに収集していることを”犯人”らは知らない。

自分の発言によって、自分が遮断されはしないだろうか?

”犯人”らは、それだけが心配で気に掛ける。

気遣うのは目の前にいる相手に、ではない。

あくまで心配の中心と興味関心は『自分』だけだ。


何故、彼が会話をつぶさに監視しているのか?

”犯人”の『いま』の心理状態を知るためだ。

会話の内容などに興味はない。

彼もまた興味関心は『個人』に向いているのだ。


この会話に不自然な点や不穏な動き、疑心感などが現れた時にアクションが起きる。

他愛なく楽しそうな会話をして、それがある一定のリビドーの頂点に達した時にもアクションが起きる。

彼の意のままに切り離し、引き合わせる事が可能になって居るのは、これがあるからだ。


人間が使う言葉や言語には一定の法則性と方向性がある。

予測することにスーパーコンピューターは必要ない。

単純明快で、彼の考えた世界で使用する言葉は、脳が単純化させられているから難しくはない。

それが同一言語となれば尚更簡単な訳だ。


「ここだけの話」

が大好きな人間。

隠れてするような会話を誰も見ていないと思い込んでする

「内緒話」

それが大好きな人間。


一通りを曝け出し、彼に暴露したとも知らずすっきりとした気分転換を得て、いよいよ次は最終難関へ挑むぞ!と勇気を湧き上がらせる。


そのための餌だとも知らずに、一時の休息がこれまでの苦痛を和らげる。



恐怖の頂点

自分を動かす手立ても得た、勇気も得た

いよいよ脅迫を覆してやろうと踏み込む。


強烈な怒号と最悪しか待って居ない予測が突きつけられる。

それでも進む。

ゴールかと思うような場所へ彷徨いながら辿り着く。


これまでにない程の褒美が置かれている。

まるでネズミ捕りに掛かったネズミが、次から次に餌を貪るかの如く、餌に掛かる。

辺りは全く見えない閉塞と静寂の中で一息着き、進んでみる。

最終告知の脅迫を突き付けられる。


「もう疲れたから止めようか」

ふと考える。

「次にまた挑戦することも可能だと案内してるぞ?」

ふと損得勘定で計算する。


これまでの苦労を無にしたくない思いと、損をしてでも、またやり直そうと考え直す思いが交錯する。

初めは、

「教訓が一つ得られた」

と思い引き返してしまう。


初めてではないだろうか?

この世界で『教訓』と『案内』が得られたのは。


それでも何の目的で、さらわれた世界で、自分が何をしているのかは何も分からず終い。


もう誰も、何も、

2021年9月13日月曜日

連載『Ego』第5回

 楽しそうな出来事

何とか打破したい。

何度も挑戦するが中々思うようにならない。


それは、かなり体力と技術力の必要なステージの後で始まった。


立ち止まらず、諦めず進んだ先に出会ったのは伽藍洞の世界。

何の苦労も、何の記憶もほとんど必要としない乗るだけで良かった。

けれど時間的には2つ目と同等程度を費やす。


この世界の法則では、苦難ある世界は思考力に時間を費やし、楽観的な世界では体力を消耗させるようになっている。

費やす時間は同等であるのに体感が反比例するように仕組まれている。


アップ アンド ダウン

このリズムを習得した”犯人”は既に学習能力を獲得している。

そのため次は、体力と思考力、そして判断力を駆使し、併せて技術力と予測能力を持たなければ終わることは出来ない。


皆、立ち止まる。

皆、恐れる。

「これまでの苦労が水の泡になるやもしれない」

「それはご免だ」

戦略を練る。


だが初めて出くわす者には何も見えず、怒号をいきなり浴びせられたじろいでいる。


同じような仲間が現れ、手に手を携え、ある一定の体力を消耗した所で互いに一旦休む。


「一緒に出来たね」

そんな会話が心の中で湧き上がる。


恐ろしい出来事を誰かと乗り越えられた喜びを彼は与える。


ある意味で、ここに来てようやく、”それらしい世界”を体験出来たような気になれる。

連帯感も味わえる。

達成感も味わえる。

思わぬ褒美もある。

何となく解ったような気になれる。


だが本当の意味は何も解って居らず、本質も意図も何も掴めて居ない事には気付かない。


打たれれば打たれる程に我慢、忍耐を養って行く。

勝者になりたい

その盲目的な衝動から、やる気が湧き上がる感覚を覚える。


”犯人”は安堵する。


馬鹿め

彼は嘲笑し歓喜の祝杯を怒号と共に、奇声を挙げる。

彼を見たことも知ることもない”犯人”たちとの連帯感が生まれる空間がそこにある。


風前の灯の中でパーティーが始まる。

パーティーの傍らでは、計画に失敗し朽ち果てた者たちのパーティーの残骸が”犯人”たちのパラダイスにもなっている。


『狂気の沙汰』


それは彼にも感じない。

喜びは何もかもを錯覚させてしまう。




連載『Ego』第4回

 つまづきと築き

歩き方が少し分かり始め、少しの自信が芽生え始める。

だが、まだ何も認識は出来ていない。


予測を建てて、ここからは進んでみよう

そんな傾向と対策を考え始める。


それも彼の計算の内


今までとは違い、視界が悪く全体の雰囲気も ”困難” しか見当たらない。

いきなり進む気持ちにはなれない。

けれど明らかに解るのは『ここには敵は居ない』ということだけ。

そもそも今までにも敵は居なかったのに、敵が居るか?自分を攻撃し阻む者は何処に居るのだろうか?という警戒心を抱く事自体が可笑しな話なのだが、何故か、そう感じさせる。


初めに解っていた筈なのに・・・

おや?その初めで『ここでは戦いはない』と教えられて居たであろうか?

無かった。

何の案内も無かった。

何があるのか

何が起こるのか

何をするのか

何が出来るのか


全く無かった。

ただ盲目的に、透き通った見える”目隠し”をされて誘拐されたのだった。


見えるように誘拐される体験など、ほとんどの人がしたことはない。

”誘拐”自体されるような経験は一生の内でほぼ無い方が確率として多い。

それ故に、今の自分の置かれている立場が理解出来る訳はない。


すべてが見えるようにされて、透明の目隠しをされながら『何か』を体験をさせられる。


肝心な事が見えないようにされる不安感、恐怖感は絶頂の恐怖の中にある。

それを認識出来る筈もないのを彼は、はっきりと自覚し、誘いかける。



何故か感じる

寒さ

寂しさ

時刻

そして何者かの気配


突然、ザーッと過ぎ去る何者か

突然、ぶつかってくる何者か

突然、目が眩むような光を放つ何者か


「今のは何?」

その衝撃に一瞬、立ち止まる。

辺りを見回す。

すると、ポッと明かりを灯す何者かが自分と同化する程の距離で目の前に突如現れる。


何が何だか分からず、「え!?え!?」と驚いて全身が不動状態になって居るにも関わらず、相手の全身が浮かび上がる。

「何もして居ないのに何で?」

「どうしたんだ?」

考えている間に相手は次のアクションをこちらへして来る。

何が何だか分からないから、ただ従う。


それだけで去って行く者

そこから手を差し出して来る者

更に明かりを灯して何かをして来ようとする者

色々なアクションを仕掛けて来る。


それに応じるか拒否するかは自分の選択権が与えられている。


「試してみよう」そう思って応じてみる。

初めの内は大抵が好意的な静かな相手だ。

何度か遭遇して行くと、”個性”のようなものが現れる。


運が悪い時には好意的な誘いをして『一緒に乗り越えよう!』のような雰囲気を醸し出して連れて行こうとされる。

相手の意のままに従ってみると、いきなり奈落の底へと切り離される。


そこで懲りて学習をし”知恵”獲得する。


見極めよう


何をだ?

片腹が痛い笑いがする。



軽い適度な痛みは快感を与える

この辺りまで体験してくると、自分の方向性を考え始める。

「このまま進んで行くべきか?はたまた、もう辞めようか?」

自問自答が始まる。

答えと正解を探して始めたと思い込んでいるから、辞めるのは自分を諦めることと同じだと虚栄心がくすぐられる。

負けず嫌いは進む。

自分が感じている事を自覚する者は辞める。

進む者に共通しているのは、皆、傲慢である処だ。


傲慢さの無い者などこの世には皆無だ。

それを赤ら様にしたい彼の思惑に合致した者が、あたかも勝者のような錯覚に陥る。

『戦いはない』と言っているのに競おうとする。


実に不思議

実に興味深い


競わずには居られない生き物

それは精神分析学の創始者ジークムント・フロイトが晩年に友人に語った言葉の通りだ。


彼はそれを行使する。


呪手に嵌る”犯人”たち

思い知らせてやる

彼は無感情に黙って見ている。

2021年9月12日日曜日

連載『Ego』第3回

 テストする

一歩も動かずに居る。

何も起きない。


一つ動いてみる。

何も起きない。


一歩動いてみる。

1、2、3、4、

5でふっと湧いて出る。


じっとしていると近付いてくる。

まだ動かず何もせずに居ると、一定の行動と一定の方向へ動き、そして初めの扉へと入って行く。


現れたのは新しい”犯人”


着いて行ってみる。

新しい旗が掲げられている。

何もせずに見放し振り出しへと戻ってみる。


また動かず同じことをしてじっと観察してみる。

次のステップになった新しい別のか同じのか分からない”犯人”が湧いて出る。

その”犯人”は、同じ法則の行動をして消える。


1、2、3、

4で別の存在が2、3と現れる。

ただ黙って観察すると自分より少し上級の”犯人”が同じ法則で動く。


そして、また3ステップ目の”犯人”が湧き出る。

次の扉へと入って行く。


それからしばらく同じことをして観察して居たが自分より上のステップの”犯人”は現れなかった。

しかも、いつもは何処かの誰か、確かに生きているであろうと思える存在で賑わう場所であるのに、この時はそうではなかった。


そんなこと、誰も気付く余裕なんかない。

入ったら直ぐに自分がどうするか?しか考えられないのだから、周りを見る余裕なんてある筈もなく直感的であり衝動的行動しか取れないようにさせられている。



それは彼が与えたきっかけ。

誰にでも与えている筈だが、それを話題に出せる余裕も記憶も根気も削がれている。

だから確信を得る手段は同じような相手を見つける時間が必要になる。

それをして自分は何が得たいのかと問うと、愚問であることに気付く、という仕掛け。


この世界ではよくあることだ。

「何だ!?あれは」

そう目に留まらせ、瞬間的に体感させ、答え合わせをさせようと誘拐して行く。



誘拐されて楽しい訳がない。

誘拐されて嬉しい訳がない。

誘拐されて、これが何故か面白いと感じさせられる。


興味関心、好奇心、探求心、虚栄心、優越感

それらの上に達成感が成り立っている。


疑心を抱く者に彼はエラーを仕掛ける。

突如、意図的とは分からないようにハプニングを与える。


脳のリセットとリフレッシュのためにパーンと弾く。

1秒の出来事は人間にとって、脳をスパークさせるのに有効的時間だ。

直感がその時間に起きるからだ。

しかし、十分な判断力は働かず、結局「何が起こった!?」と驚くだけで、口々にエラーだと決め付けの答えを導き出す。


ヒューマンエラーもマシンエラーも誰も見分けは着かない。

それを判断出来る手の内を持って居るのは仕組んだ側にだけあるのだから、解明する理由があるとするなら自分にとって何らかの不利益を被った訴えを公然と差し出すため、それがヒューマンエラーだと責めるためのみであろう。


だから、そんな面倒なことは余程のことがなければ誰も時間を費やそうとはしない。

それを彼は解っている。


たまたま、事実明白な訴えをして寄こした相手にですら何も応答しようとはしない。



連載『Ego』第2回

 始まり

イントロダクションも記憶出来ないまま、彼の遊びに付き合わされる。


グルグルするような感覚と不穏感を直感的に嫌だと感じた者は、彼の船から降りて脱落する。

彼は自由意志を奪いはしない。

乗るも善し、降りるも善し。

自分の好きな選択をすれば良い。

彼はそう暗黙で与える。


選んだのは君だ。


彼の言い分。


それに気づくこともなく、次の目新しい世界が開く。

餌に釣られて食わぬ魚は居ない。

好奇心が芽生えるよう、爽快感に満ちた世界が目の前に広がる。

希望があるかのような長い長いステージが始まる。

だが、まだ十分な知識も力もなく、必死でコントロールの仕方を学習しようとただそれだけに集中する。

その時には、つい先の過去のイントロダクションで味わった嫌悪感は忘れさせられている。

ひたすらステージの最後に辿り着く方法を彷徨いながら学習と獲得を目指す。


ステージの最後に何が待っているのか?

見たい欲求、得たい達成感

その衝動をほぼ無音の中で掻き立てさせる。

聞こえるのは空気の音だけ。


無音は集中力を増す一方で、やる気を下げ易い。

ある一定の音を感じることで自分なりのリズム感が内面から発生し、自分の操作しやすい心地好さを自ら生み出す。

1分の/fゆらぎ

それは彼の世界にはない。

自分で作り出すように仕組まれている。


そう、これは自分が選んだ世界で動かされる彼の遊びなのだ。


彼は設置したに過ぎない。


それを手に取るか、手放すかは自分次第。

彼の悪意なきサイコパスプログラムへ誘拐された者らは、彼を責める理由が見つけられないように初めから仕組まれ誘拐されたとも気付けない。


殺意を芽生えさせないこと

それがこの世界に浸み込ませられている。

あくまで、憎悪止まり。

その先の感情までを絶対に芽生えさせないように、ありとあらゆる手段が浸み込ませてある。

もう一度言う。

散りばめられている のではない。

仕組まれている のでもない。

浸透させてあるのだ。



それらのものを自分の全身に浸み込ませられる。

勿論、脳裏にもだ。

一瞬で焼き付く光景


嗅覚はない。

視覚、聴覚、触覚まで体感する。


嗅覚は視覚的情報のイメージングによる脳錯覚で形付けられ、その時に無意識で嗅いでいた匂いが合致した時に脳に残る。

彼は嗅覚を使わないように操作してある。

それは疑似体験を別の場所でされては困るから。

但し、自分が経験した過去の記憶は必ずフラッシュバックするように、そこかしこ、至る処、場面で遭遇させられる。

その時、嗅覚は蘇らない。

嗅覚は大抵の場合において、優しいイメージや温かい出来事と結び付いている。

強烈なフラッシュバック体験には嗅覚を記憶して置ける程の時間的余地はない。


それゆえに彼の世界には嗅覚が存在せず、わざと無機質な感覚を作り出してある。


それが味併せられる ”虚無感” の根源だ。


こんなに耐え難くなるような嫌な世界を観させられ、感じさせられ、体感させられるのに抜け出せないのは実によく出来た心理操作の泥沼だ。

そんなことが理解出来る筈は、この時点ではない。



チェックポイントと休息場所

必ず何もない、休める場所がある。

しかし出口はない。

元に戻りたいと思ってもその扉は一度出たら閉められ、撥ね退けられ、近付くことも出来ないようになっている。

用意されているのは、振り出しだけ。


長い道のりの時間も労力も費やした代償を払わせることはしない。

飽きが来ないように1秒で設定され、いつでも振り出しに戻れる安心感が用意されている。


唯一と言える程の安心感が振り出し。


休息場所には、ちっとも安息はなく、単に『休憩』をしているに過ぎず、まだ続けるのか、ここで辞めるのか考えさせるだけの場でしかない。

これまでの道のりを反省や攻略を振り返るのも善し、次はどうしようかと思案するも善し。

あくまでも、この中で自分は何をするのか?

それしか考えない。


問われているのは、

自分はどうする?

そればかり。


ステージの終わりにまだ何が待って居るのかも知らないまま、また”犯人”たちは動き続ける。


出口のない、宛てのない暗闇の楽園で一息ついてまた・・・



つづく





2021年9月11日土曜日

連載『Ego』初回

 序章

それは、人の心をえぐり、暴き出し、思考を破壊する。


悪意のないサイコパス。

どこにでも居るのかもしれない。

どこにでも居る訳じゃないのかもしれない。


何がしたいのだろう?

どうしたいのだろう?

何を問うて、何を聞き出したいのだろう?

何を覗きたいんだ。


メンタリストならまだしもサイキックとなれば、相当な執念で人間の心髄を壊したい衝動が突き動かす原動力だ。


何があった?

目的は何だ?


疑問しか浮かばない。


人々は集う。群がる。熱狂する。そして傷つき、去って行く。

その世界は暗く、不穏な空気が漂い、嫌悪感から始まる。

足を踏み入れた途端から、「何か嫌な予感」がする。

それなのに、そこで立ち止まることは出来ない。


誘導される。

何だろう?と思って居る内に、始まりへと無理やり連れて行かれる。

何の手引きも無く、暴露的に追いやる。

選択肢のない状況で次のステージ、そう”ステージ”へ誘拐される。


いざなわれる ではない。

導かれる でもない。

完全に彼は誘拐した。


そこでは戦いは起きない。

特に何のミッションもない。

課せられている物は、ひとつ。

自我の欲求を追求することだけ。



彼は見せる。

あらゆる出来事の世界を。

観る度に「知りたくない」そう感じさせる。

彼は見せるだけ。


そして感じさせる。

彼は問うて来る。

『どう思う?』

そこでは答えは「まだ分からない」と心の中で答える。


そしてまた彼は問う。

『まだ見たい?まだ知りたい?』

選択肢もなく「イエス」と答えるしかない。

彼は黙る。


何が起きているのか分からないから、嫌な予感がしても知ろうと思うより他ない。


一体、なに?


自分は何をすれば良いんだ?

自分は何処へ行けば良いんだ?

それを可能にするには何を獲得すれば良いんだ?


必然的に考えざるを得なくなる。

その時点で疲弊させられている。

それなのに辞めることは出来ない。


先ず探求心を芽生えさせる。

柔らかい不安感を与えて、もしかしたらこの先には払拭出来る世界があるのかもしれないと思わせて、更に次の世界へと誘拐して行く。


そこへ突如、別の誰かが現れる。

「あ、助かった!」一瞬で頭を過る。

それが誰なのかも、何なのかも、全く所在も得体も知れない相手なのにまるで”救いの神”が現れたような気になる。


彼はそれをただ見ている。


ストックホルム症候群のじょうずな活用を彼はする。


出会った相手は犯人ではない。

けれど彼の描く世界では、その”仲間”は、彼にとって『犯人』なのだ。


さてさて、この”犯人”たちは、これからどのような動きをするだろう?

しめしめ、また蜘蛛の巣に引っ掛かった。

彼はほくそ笑む。


私の考えた通りの行動をするに違いない。

そう彼は確信している。



彼の作ったプログラムの中で唯一与えられている物を発見出来るか?

彼は試している。

彼は『The Kye』と思って居る。

しかし、それは鍵ではない。



つづきはまた。