2021年9月16日木曜日

連載『Ego』最終回

 週に3回答えさせられる

毎日『~をしましょう』と始めに”教官”が号令を掛ける。

何の違和感も抱くことなく、聞こうが聞くまいがどちらでも良い。

その通りにしろとは命令されていないが、『ましょう』の言葉には誘導の心理が含まれている。

優しい語りかけのようで、それはある種の脅迫的誘導になっている。

決して”悪い”語りかけをしている訳ではない。

しかし”誘導”とは、語り掛ける側に利のある事柄であって、こちら側に必ずしも有利であるものではない。

故に、”誘導”というのは『良い心理』から発生するものではない。


毎日、褒美を与えられる代わりに、こちらがどんな考えでいる人間であるのかを図られる場所が置かれる。

その答えは、”必ず”、そう”必ず”

『善とする答えを答えよ』と強要される。


そこで、ひねくれて『悪とする答え』を答えようものなら、即刻切り捨てられるのが解る程に単純で、簡潔で、思考を必要としない問いをわざと仕掛けられる。


彼の持っている教科書にある教育プログラムを噴霧されて報酬を得る。

そんなことも全く気付けない。

ここでは自分の価値観も概念も善悪も何も持たせては貰えない。


世界に入った瞬間から自分の生皮を剥がされ、与えられた皮革を纏わされ、すべての者が同一化される。

それは精神も同じく施される。

こんなことに耐えられる訳がない。

精神の生皮を剥がされ、剝き出しにさせられる時点で悲鳴を挙げる思いがするのも当然だ。

しかし、それが大事なのだ。

徐々に剥がされたものを覆い、傷を癒そうと与えられた物を拾い集める。

拾い集めれば集めるほど、彼の描いた”犯人”へと転化して行くとも知らずに、それを『褒美』だと勘違いして拾わされ、対価を払って行く。


魅力的な同一化した”犯人”たちに憧れさせるのも手段だ。



手を切るとき

彼の行いは、我に返って居る時には記憶にない。

自分がある種の”犯罪”に巻き込まれたとは努々(ゆめゆめ)考えもしては居ない。

それが『洗脳』という”誘拐犯”の手口だ。


”誘拐犯”は、自分は”善人”で、さらった者を”罪人”だと思って居る。


”罪人”に何を与えたいと思って居るのか?


『絶望』


絶望という罪を心髄から味併せ、自己の正義を飲み込ませること。

それが彼の目的だ。

それに気付いたとき、試されるのは人間が本来持って居る、決して何者にも左右されない本能的な 『良心』 に目覚められるかだ。

彼は決して、決して良心を目覚めさせたいのではない。

その逆で『良心を破壊し再構築すること』これが目的である。


俯瞰でいま自分の置かれている状況を冷静に観てみる。


今まで何度も俯瞰で見なければ見えない、と思いながら戦ってきた。

それでも見えなかった。


絶望に気付いたときに、初めて自分が

誘拐され

操られ

洗脳を仕掛けられ

精神を破壊され

良心を捨てさせられ

妄想を刷り込まれ

自分が犯人にされ

監禁された

…と自覚出来る。



自覚の後、その”犯人”が、どのような行動に出るのか

彼は知っている。


ある者は従い残り、ある者はただ去るのみ。

去った者が公言しない、出来ない、しようがない

それも彼は知っている。


彼が施し、与えたものは

自我を剥き出しにさせ、精神を崩壊させるものだった。


この世界にあったもの

それは、彼も、彼の言う”犯人”らも、そして彼が見せ続ける世界にも充満しているのは、

自我欲の巣窟である。



誰も語れない世界がそこにあった。

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