2011年6月16日木曜日

言葉の使い方

私は正しい日本語を知りつつ、会話を楽しむための 『言葉の言い回し』 は良い事だと日頃から考えている。

造語が氾濫している現代で、もっと楽しくなるような、友好的で更に効果的な使い方の出来る造語があると思う。

大抵の造語は、言葉そのものに意味を持たないものや人を誹謗中傷する意味を隠した単語、確信を隠した曖昧語だ。
しかし、それらは面白い事に殆どが意味の解る、隠されていない言葉でもある。

例えば、「意味分かんない」や「イタイ」のような若者言葉は通じる言葉だ。
沢山の意味を含み、その意図も皆、伝わり理解出来ている。
故にストレートな言い方でないにも関わらず、傷付いたり、笑ったり、共感する。


私は仕事に於いては、造語も略語も業界用語も殆ど使わない。
それは、いい加減な言葉の表現から相手の受け取り方が錯誤したり、的確に伝わらず、
『行き違い、勘違い、食い違い』
このような間違いを失くすためだ。
正しい日本語で、外来語を殆ど含めなければ日本全国、通じて当たり前であり、外国人であれば尚更適切に通じる言葉でなければ支障がある。

しかし言葉は通じても、意図が通じない問題は後を絶たず、相手の心理や理解力を観察しながら、一つの用件に一体何単語使っているのか、時々疑問に感じることも少なくない。


言葉は便利なものだ。
私は家事や家庭生活のことを 『おうち活動』 と表現する。
おかしなことに家族や家庭などというと、それはそれは大変な心境になるのだが本来、家庭は安らげる場である筈だ。
その安らげる場所を整える事に疲れて、家事を疎かにし、『豚小屋』にしてしまうのは何故か。
あるいはその逆に徹底的に部屋の何処かしこも、整理整頓されていなければ許せないほどにしてしまうのは何故か。
それは、すべてその人の社会活動の反動が反映されていると言える。

いわゆる『人間関係』というものに始終心が奪われていると、何をしても 『心此処にあらず』 となりがちだ。
人間関係は他人との関係だけでなく、同じ家の中にも家族という人間関係もある。
家族は自分の欠点や汚点と云われるものを隠せない存在であり、それだけに親密な関係でもあれば、見られたくない自分の嫌な一面も見られてしまう存在だ。
だからこそ、心を必要以上にさらけ出せる、またさらけ出してしまう相手でもある。
そこに遠慮会釈がない場合、許しあえるとても良い相手でもあるのだが、悪い状態は堕落することに同調しやすいといった欠点もあるのは確かだ。

外の人間関係に殆どの神経を使ってしまうと、家に帰ってきた時に家族にその遠慮がなくなってしまう。
よく聞く台詞が 『家に居る時くらい』 という言葉だ。
しかし、家族とは一人称では成り立たない状態であって、やはり一人で生活しているのではないことからすると、自分勝手な言い分はそれぞれが腹の立つ問題になってしまう。


先に取り上げた、家庭の状態は社会活動を反映しているという問題だが、外で神経を使う人=豚小屋と一概に言い切っている訳ではないが、 心が乱れている状態に変わりはない。
また、精神的に疲れている場合は往々にして肉体的にも疲れている。
それによって、家事が思うように出来なかったり、疎かになったりするのは当然といえば当然。
そこから波及する問題のキーワードは 『イライラ』 であろう。

家族関係は外因的にも人間関係の始まりであり、外の人間関係に於いて体裁をいくら取り繕えた(適応できた)としても、やはりどこかで歪が生じるのである。


家族の中で言葉が優しく交わされていると、会社や学校などの社会環境の中でも無意識のうちに反映されている。
しかし家族の規則がすべてだと、逆に生まれ、生い立ち、育ちの違う様々な人間関係と価値観の共有をするのは難しく、自分の考えや価値観に固執しがちなのも問題である。

自己の価値観、特に正しいと思える価値観を育てるには、より多くの人と接し、鵜呑みにせず、沢山のことを検証しようとする客観性が必要となるであろう。


単に、刷り込み式の道徳的概念だけを模範とせず、自分なりの正しいと思える概念を探求する好奇心を忘れないことが大切ではないだろうか。

言葉は少なくとも伝わる、それは何故か一人一人が見つめる努力が必要とされている時代なのではないかと考える。

何かが思うように行かない時、一端立ち止まって自分の身の回りを見つめて見ると、どこかが雑然としてる筈だ。また、神経質なまでに整いすぎていることもある。


それは、すべて自分の心(心理状態)が反映されている。