2013年12月5日木曜日

『大学は社会である』という意味

Twitterにて、『大学は学校ではなく、社会だ』 と、ふと呟いたところリツイートが次々とされ、理解出来ないという反響が多くあった。

聞くところによると、未だにそれは大学側から入学時に説明がなされているようだが、『学校ではない』という意味があまりにも多くの人々に理解されないままになっているようだ。
殆どの大学通学者が、「では何故、ダイガクセイと言うのか?」という、言葉自体に疑問を抱くからこそ、『社会だ』といった意味合いに繋がらないのではないのかと思い、記事を書いてみようと思い立った。


そもそも社会とは、人々が生活をする場、あるいは環境を指し、様々な価値観を持って生きる世界そのものである。
日本では社会というと、日本国全体を想像し自分の周辺環境の何となく漠然とした 『世間』 を対象として捉えている。
世間=社会は、元々日本に社会という言葉が存在しなかったために、このような考え方をするのは不自然ではなく、むしろ当然である。

社会は、様々な企業または職業があり、私たちが生活する上で必要なものを生産し、消費する世界である。
そして金銭を動かしているのは、私たち人間(国民)なのは言うまでもない。
衣・食・住は生活するのに不可欠なものであるが、それを売る人と買う人だけではなく、作る人、作らせる人など様々な役割を持っている。
社会には沢山の職業があり、一つの職業の中にも、”適材適所”という言葉の通りそれぞれの役割分担がある。
例えば、毎日の生活の中で一番必要とし回転率の高い 『食』 を例に考えてみよう。
和食が先頃、ユネスコ世界無形文化遺産に登録されたが、日本は世界に類を見ない程の多食消費国である。
あらゆる国や人種の食文化が凝縮され、家庭内では人気メニューの中に、ハンバーグ、カレー、オムライスなど上位を占め、”おふくろの味”としては第一位に味噌汁、次に肉じゃがや煮物、ご馳走に至っては焼肉、すき焼き、しゃぶしゃぶ、寿司などがある。
このような食事を家庭内で調理するには、沢山の材料が必要となる。
では、この材料を作るのは誰か?仕入れるのは誰か?売るのは誰か?
そして、その材料を選び、買い、使って調理するには何が必要なのか?
最後にお腹が空いた私たちの口に届くまでに、どれ程の人々と工程や機関が動いているのか?
まさに、この過程こそが社会そのものなのだ。

では本題である 『大学は社会である』 という意味は何か?だが、専門分野に於いて、この”世の中”と云われる世間に何が必要であり、何が求められて、今後の社会生活の中で何を造り出したら(産み出す)より発展的なのだろうかと研究や探求、仮説と実証を行う現場社会なのである。
学生と呼ばれる人にとっては、講義を受けて勉強しているのだから、まさか自分の居る世界が、『社会だ』 と言われても理解出来るはずもないだろう。
大学構内には専攻分野内の人間関係だけでなく、サークルや企業とのインターンシップ活動などによる多分野の学生との交流もある。
そこで試行錯誤される議論や意見交換、同じ分野内での共同作業、それは直接的な金銭を得る社会的な商売ではなく、自分たちの行っていることは一つの大学に於ける活動や勉強でしかないと思っているのかもしれない。
しかし、その行動こそが、私たち国民のすべてが何気なく行っている社会生活なのである。

私の理屈詰めな文章では、まだよく解らないという人のために、もう一つの例を挙げてみよう。
大学祭がある。
それぞれの学部やサークルが大学へ企画書を提出し、資金調達を承認を得て、大学祭の催しをする。
その立案から収支の採算、そして来場者からの反響、成功面と反省点を最終的にまとめて、大学への報告書をまとめる。
大学祭は、自分たちが習得してきたものの成果を世の中の人に発表し、その実績を計る経験を実践で行うもの。これが大学祭の趣旨なのだ。
有名なバンドや歌手を呼んで、いかに一般の人たちに来てもらい好評を得るかという企画もひとつの”商法的戦略”であって、これは音楽業界の仕事体験でもある。
そこへ多分野の学部も参加するのだから、まさに大学名が一つの企業名であり、あらゆる産業が同時に動くのだ。
ただの”学生のお祭り”なのではない。


日々、より高い知識や技術を身に付け、自分の目指す問題の解決と向上を目指すために学ぶ場、それが大学であり、これを 『本番の金銭取引をする社会』 に出て活かす、そして切磋琢磨し国民生活の役に立つ人材となろうと努力する為の機関。
故に大学は、学校ではなく小規模な社会であるのだ。


学校というのは、教育機関から一方的に教養を提供され、その問題を解いて点数によって自分の学んだことを評価される場所を指す。
大学では、自らが学ぶことを選択し、疑問を抱き、問題を解き、発見しようとする自主性が必要だ。
この部分が、『学校ではない』 と言われる理由の一つなのである。
もしも勉強さえ 『出来た』 と云うものが必要で、読み・書き・算数の義務教育を網羅出来たならば、社会に出て生きていくには十分過ぎる程の高等教育を日本国民は義務と権利として与えられているのだから、大学に行く必要はないとも云えよう。
高等学校もほぼ社会的には義務教育同様の存在になっている現在では、基礎知識からより高い専門知識があれば尚善しというものだ。
大学は更にそれよりも深い知識を得る存在と言える。

誰もが、そう云った意識だけで大学進学を目指し、入学している訳ではなく、またそうでなければならないと云うものでもない。
すべての学問は、広く誰にでも公平に与えられるものだ。
それを活かすも活かさないも、各々の価値観や目的であって良い。
しかし、より深い高等教育を得ようと思うならば、真面目に真剣に自らが何故大学進学を希望し、卒業後に自分がどの様に活かして行きたいと思うのか、そこを最も大切に考えて欲しいと思う。


大抵の場合、小中学校は学区の公立学校に行くだろう。
しかし高等学校や専修学校等は広い地域から生徒がやって来る。
既にそこから広い人間関係が始まって居り、地域や生い立ち、家族構成の様々な人が一つの 『学校』 という社会の舞台に立っている。
そして大学は、全国から、はたまた国を超えて留学生として外国からも人が集まる場所だ。
それを社会と云わず、むしろ学校と思っていることの方が不思議だ。

『一番大きくて、最終的な学校』 と勘違いさせているのは誰だ?というのは愚問だ。
だが敢えて言うならば、それをきちんと解り易く教えられない義務教育の現場に責任があり、また風潮も要因として挙げられるだろう。



最後に、大学生と呼ばれ学割が適用される理由は、『実社会の知識を専門として学んでいる人』 という立場だからだ。



2013年11月9日土曜日

信じる

約束は守られなければ、何の意味もない。
そもそも、破られるかもしれないと云う不安定なものを抱きながらするような約束をすること自体が馬鹿げているんだ。

信じるとか信頼なんて、無意味だ。

いつでも壊れてしまう、そんな無意味な幻想のようなものを信じようとする方が馬鹿なんだ。
約束を破っても、何の咎めも受けない。
咎めたところで、守れなかった過去の問題を償うことは不可能だ。
だから無意味なんだ。

だったら何の為に約束する?
何の為に契約はある?

すべて破棄したら終い。
不履行で終い。

昔、『約束は相手を信じる為にするものではなく、自分を信じる為にするもの』 と思った。
自分を信じる為にした相手が破った約束は、いとも簡単に泡のようになかった出来事になってしまう。
そんな美学的な考えの間違いに気付いたところで、私はどうしたらいいのか解らない。

怒りに任せて責めても、何の解決にもならない。
破られたことを悔やんで嘆いても、何の解決にもならない。
結局、自分が取らなくても良い責任を取って、破った相手には何の罪にも問われず、罪悪感なんて薄らいでいくようなものだけ抱えていればいいだけ。
信じた自分が馬鹿だったと云う責任を取るのが、こんな虚しさや怒りを代償に貰うことなのだろうか。


矛盾だらけの世の中で、この約束を破る行為に対しての罰則がない 『やった者勝ち』 のような現実が許せない。
ここは本当に法治国家なのか。
道徳や常識の無意味さを思い知った。

2013年6月18日火曜日

精神疾患者と精神科医について

他愛もなくテレビドラマを観ていて、ふと感じたことを書こうと思った。
『LIE TO ME』 というドラマだが今回の内容は、妹が金の為に兄を遺伝性の統合失調症患者に仕立て上げ、精神病院に生涯入院させようとしたものだった。


『17歳のカルテ』 にも似た内容だった。

精神科医は患者を目の前にし異常か正常かを判断しなければならないが、それを何で測っているのだろうか。
家族や周囲の人間が、『精神的におかしい』 と訴えると、いつ、どのように、何が変だと感じるのか精神科医は質問し、家族や周囲は何に困っているのか聴き取る。
だが、おかしいと言われている 『患者』 とされる人間には単刀直入に、「あなたは周囲からおかしいと思われ、困っていると言われていますよ」 などとは決して精神科医は言わない。
患者側には観察と問題行動とされるものへの抑制しか与えられない。


原因がどこにあるのか?
それを精神科医は観ているのだろうか。
随分と前からこの辺りが、私には喉に刺さった魚の小骨のように引っ掛かって仕方がない。

診断と治療の元となる 『原因』 それは診断基準という物差しだけしかない。
精神鑑定や精神分析を繰り返し行うことはない。
それは人の精神ほど不安定で移り気なものはなく、異常状態とされる時には明確な分析が不可能な為、一定期間の観察の後でしか行えないものだからだ。

では、17歳のカルテの少女たちは時代の風潮や常識と云った非常に曖昧な価値観によって 『人格障害』 にされ、ドラマでは策略という裏側に隠された手口によってマフィンに幻覚剤を混入された物を何の疑いもなく食べた人の実父が統合失調症患者だったと云う言い分によって 『遺伝性』 とされた、この問題をどのように精神科医は診ていたのだろう。

誰の中にでもある憂鬱感や孤独感、あるいは優越感や幸福感。
人の歩む人生に平坦な道はなく、学校の入学や卒業、恋愛や友人関係、就職や失業と様々なアップダウンの中で平穏に暮らそうとしながらも、楽しさを求め、刺激を求めながら誰もが生きている。
忙しい時期には悩みや休む間のないことも時には続き、やっとゆっくり出来ると思えば暇で仕方なくなり、常に何らかのいわゆる 『波』 のある生活をする。

当然のようにその時期が長引けば、それなりに何かを心に抱くものだ。

それらを過敏に感じてしまうのか、適当にやり過ごしてしまうのかは人それぞれだ。
そうなれば、精神科に足を運ぶという現実に至る 『原因』 はいつ?どのタイミングなのだろう。
最近、「メンタルが弱い」という言葉をしばしば耳にするが、そもそもメンタルという物差しは一体どのような目盛りなのか知りたいと思う。
以前の記事で、『心が折れる』 という言葉について書いたことがあるが、何故次々と人々は精神面のことばかり話題にしているのだろう。



私が思うところは、そんなに精神面にばかり気を取られていると本当は精神障害でも精神疾患でもないのに、暗示に掛けているようなものだと云う事だ。
時代が不安定な訳でも、経済が不安定な訳でもなく、人々の心が取り留めもなく掴み処のない漠然とした自己や他者との価値観が不安定にさせているだけだ。
100年以上経っても原因の判らない病気は未だ数多く、薬剤もあまりなかった時代に比べると新薬の開発が急速に進み過ぎていることにも大きな原因はある。

何故、傷を早急に消し去ろうとしてしまうのか?
人間には自然治癒力があることを知っていながら、何故 『精神』 に対して慌てて直そうとすぐに抗不安薬や抗精神病薬を処方し服用してしまうのか。
内臓疾患はある程度の技術で発見し、たとえそれの原因が不明であっても治療法や対処療法は必ずしもではないがある。
しかし精神に関しては、確固たる原因を突き止めるには明らかな脳疾患の異常が発見出来なければ診断することも危ういものである。

性格による傾向なのか、何らかの疾患による傾向なのか、また第三者の錯誤なのか実態なのかを見極めるには時間が必要だ。

私が考えたいのは精神科医の目だ。
その精神科医も人である以上、固定観念や先入観が全くないとは言い切れないからだ。


それからもう一つ、WHOやCDCによる診断基準や検査法だけに頼りきっていることも非常に疑問を抱く。

2013年1月15日火曜日

成人式 ~自分の人生を振り返り思うこと~

成人式の時、一瞬にして自分が社会的にどう云う立場になったのか感じたのを覚えている。
国民の三大義務を負う立場は、親と対等の人間になったと云う事だった。
しかし親の様にはまだ世間を知らず役目を果たすには新生児同様であることを再認識した。

そして新卒と同時に就職した私は気付いた。
成人する(学生)までは学期毎に区切りがあるが社会人になるとせいぜい盆暮れ休暇や旗日休暇くらいしか区切り的なものがなく、大人は永遠に『大人の役目(仕事)』をひたすら成すだけでしかないのだ、と。
自由に選択肢を与えられるとは自由ではない気がした。

そうして『大人』になって20何年が過ぎ、親になって17年と16年を経験してきたが、自分の親の人生を考えると60年近く大人と50年近くの親の役目を成してきた姿に敬服するばかりだ。
私は未だ未熟で、自分の親の様には立ち振る舞えない。成熟した大人像を目指し続けているのが『私』なのだ。

人生は20年を境に区切りがあるのかもしれない。
20歳で成人し、40歳で大人になり、60歳で老いを迎え、80歳で天命に向かう。100歳ともなれば俗世を静かに見守る時期に入るのかもしれない。
ふと、そう思った。

ある意味、40歳とは人生80年と言われる現代で成熟人として改めて真の『成人』になる時期なのかもしれない。
そして人生の折り返し点であり初老期に入って行くことから、老いと天命を全うする準備と最後の駆け抜ける躍動満ちた年齢なのだろう。


先日投稿した、サミエル・ウルマンの 『青春』 の詩のように私はいつまでも自分を追い続けるだろう。


大人になると義務と責任が大きくなる。
それまでは親の保護下にあり、自分のことだけやっていれば良かった。
小遣いや学費、将来的に役立つであろう運転免許証や資格取得などの費用など、衣食住とその他諸経費の一切を親が面倒を見てくれた。
しかし、成人したり、就職すれば、もう 『こども』 ではなくなる。

私の場合は違ったが、他の人たちを見ていると、こども意識が抜け切らないのか面白い事に、 『お年玉』 がまだ貰えると勘違いして、当てが外れた顔をよく見かけた。
余所目に、 「お馬鹿さんねぇ、自分で稼げるようになったら小遣いなんて貰える訳ないのに」 と内心笑っていた。

大人になったら、 『心付』 に変わることを現代の文化で知っている人は居るのだろうか。
『世知辛い世の中になったものだ』 と言われ続けて30年近く経つが、心付文化も最近では珍しい光景になりつつある。

そんな些細で厳かな日本の謙虚で美しい習慣を、日常生活の折々で教えてくれる大人が少なくなってしまった現代でも、私は青年期の若者に教えて行きたいと思う。


大人は、大人らしく。
子どもは、子どもらしく。
自分は、自分らしく。

そう、 『らしく』 成長や成熟を目指して生きることを覚えて欲しい。

大人と子どもの嗜好性に差異が薄れた現代では、40を過ぎても引きこもりやニートで生きられる世の中が存在する。
それが、らしさを考えられなくして居り、ただで飯が食らえることの間違いに気付けない原因だ。

子どもでも、ただで子どもの特権的に小遣いが貰えるのではなく、親の手伝いを率先してやらせることは大人になる大切な訓練でもあり、家事や炊事、洗濯、掃除、買い物など手伝った代償として、小遣いが貰えるのだと教えればいい。

『働かざる者、食うべからず』

日本の良い諺だ。
体や知恵を使わなければ、食べる=生きることが不可能なのだと知る必要がある。
それは発展途上国や内戦などによって、今日を生きるために必死で子どもながらに稼ごう、食料を調達しようとしている子どもたちがいることを考えたら、日本こそ考え直さなければならないだろう。


親離れ、子離れの問題。
しかし核家族のご都合主義。

改めて、自分が成人式に何を感じたのか見つめる良い機会だった。

2013年1月6日日曜日

物差し

よく世間では、自分の物差しで物事を計ると言うが、その物差しは殆どの場合、その人の経験値によって作られている。

他者との意見の食い違いや対立が発生した時に、その言葉が使われるのだが、果たして物差しはどんなイメージなのだろう?と、ふと考えた。

自己主張や自己正当化は自己防衛の心理から現れるが、その時 『価値観』 が物差しを浮かび上がらせる。
ある人によっては、定規。
ある人によっては、角尺。
ある人によっては、水平機。
しかし殆どの人がイメージしているのは、竹で作られた物差しではないだろうか。
現代では、学校教育の中ではプラスチック製の約20cm程の筆箱に入る大きさで、キャラクターや絵柄の着いた物を使用しているが、それを物差しとは呼ばず、定規と呼ぶのだから、価値観の比喩としては、やはり30cmの竹製の物だろう。


そこで私自身がこれまでの過去を振り返り、自分の中にはどのような 『物差し』 がイメージされているのか考えた。

ある投稿を私がし、その返信によって自分に気付いたものだ。

私はまるで 『巻尺』 のようだ。
あるケースでは、こう。
この人の場合には、これぐらい。
何かを成し遂げようと思い立った時、必ず 『計画・実行・即反省』 とある程度の見込みや段取りを先に考え、行動し、おおよその達成可能期間などを予測しておく。
そして、ある程度進んだ所で、一旦立ち止まり、このまま実行して行ってのメリット・デメリット、リスクとリターンをもう一度見直す。
それで、最初に計画した通り間違いないと思えば続行。
しかし、見込みなしと判断すれば即中止し、もう一度計画を練り直す。

毎回、何事に対しても距離と時間と労力を測りながら取り組んできた。
その結果がたとえ失敗であったとしても、それは 『失敗』 という経験値を得る事になる故に、決して無駄ではなく必ず後の教科書・参考書として大切に持って置くのだ。

そして巻き取って、その物差しは常に道具箱の中に整理して納められる。

どうりで、確固たる価値観や信念は自分にしか解らず、周囲からは 『いつも言う事が違う』 と言われる訳だ。
いつでも取り出せて、いつでも合わせられて、いつでも計れて、いつでも終える物差しでは、相手に私がどんな人間なのか伝わる訳もない。
何故なら、使わない時は終ってしまうのだから。


どこまでも長さのある限り計れる、いつでも自分の意思で巻き取れる。
そんな 『物差し』 の持ち主だったら、相手はどこまでと判断が着く筈もなく、またいつ巻き取られて終われてしまうのかも予測不可能だろう。



私がしてきたことは、的確に物事を計ること。
それは私にとって、最終地点である物事を成し遂げる道具に過ぎない。
その巻尺の長さを自分で伸ばそうと努力し、どんな距離でも測れるように訓練してきた事は、すべて現在の自分に繋がっている。

人々の中に在る 『物差し』 をイメージすることは対話から得るものだ。
音楽の嗜好や着飾る物、立ち振る舞い、それらを自分の価値観に当てはめながら、共有=そうだねを見つけようとしている。

さて、そんなことを考えてみた事があるだろうか。
私が巻尺を巻き取る行為は、きっと 『リセット』 だろう。
そして、その行為は誰にも流されたくない、自分だけの価値観を揺るがさない為の結果ではないだろうか。
実は、存在するようでしていない物差しなのかもしれない。
そんなことを、ふと考えた。

2013年1月2日水曜日

サミエル・ウルマン詩 『青春』 から思うこと

青  春

           
原作 サミエル・ウルマン
邦訳 岡田 義夫 
青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相ようそうを言うのだ。 
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦きょうだを却ける勇猛心、安易を振り捨て冒険 
心、こう言う様相を青春と言うのだ。 
年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに初めて老いが来る。 歳月は 
皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。 
苦悶や狐疑こぎや、不安、恐怖、失望、こう言うものこそあたかも長年月の如く人を老いさせ、 
精気ある魂をもあくたに帰せしめてしまう。 
年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。 
曰く、驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる事物や思想に対する 
欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興 
味。 人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる、 
人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる、 
希望ある限り若く  失望と共に老い朽ちる。 
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして偉力の霊感を受ける限り、人 
の若さは失われない。 これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつ  
くし、皮肉の厚氷あつごおりがこれを堅くとざすに至れば、この時にこそ人は
全く老いて、神の憐れみを乞うる他はなくなる。


--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------



この詩を何年も前に見た。
一昨年の正月2日目、長女がインフルエンザになって夜間診療所を訪れた時、病院のロビーに毛筆で大きな上質の和紙に書かれていたものを再度観て、感銘を受けた。

まさに、青春とは、若者の特権的な価値観ではない。
寿命が訪れるその時までの心の有様そのものだ。

好奇心や挑戦し続ける、自分との在り方を失わず、天命を全うするその日まで駆け抜ける。
その姿こそ 『青春』 そのものであろう。