2013年1月15日火曜日

成人式 ~自分の人生を振り返り思うこと~

成人式の時、一瞬にして自分が社会的にどう云う立場になったのか感じたのを覚えている。
国民の三大義務を負う立場は、親と対等の人間になったと云う事だった。
しかし親の様にはまだ世間を知らず役目を果たすには新生児同様であることを再認識した。

そして新卒と同時に就職した私は気付いた。
成人する(学生)までは学期毎に区切りがあるが社会人になるとせいぜい盆暮れ休暇や旗日休暇くらいしか区切り的なものがなく、大人は永遠に『大人の役目(仕事)』をひたすら成すだけでしかないのだ、と。
自由に選択肢を与えられるとは自由ではない気がした。

そうして『大人』になって20何年が過ぎ、親になって17年と16年を経験してきたが、自分の親の人生を考えると60年近く大人と50年近くの親の役目を成してきた姿に敬服するばかりだ。
私は未だ未熟で、自分の親の様には立ち振る舞えない。成熟した大人像を目指し続けているのが『私』なのだ。

人生は20年を境に区切りがあるのかもしれない。
20歳で成人し、40歳で大人になり、60歳で老いを迎え、80歳で天命に向かう。100歳ともなれば俗世を静かに見守る時期に入るのかもしれない。
ふと、そう思った。

ある意味、40歳とは人生80年と言われる現代で成熟人として改めて真の『成人』になる時期なのかもしれない。
そして人生の折り返し点であり初老期に入って行くことから、老いと天命を全うする準備と最後の駆け抜ける躍動満ちた年齢なのだろう。


先日投稿した、サミエル・ウルマンの 『青春』 の詩のように私はいつまでも自分を追い続けるだろう。


大人になると義務と責任が大きくなる。
それまでは親の保護下にあり、自分のことだけやっていれば良かった。
小遣いや学費、将来的に役立つであろう運転免許証や資格取得などの費用など、衣食住とその他諸経費の一切を親が面倒を見てくれた。
しかし、成人したり、就職すれば、もう 『こども』 ではなくなる。

私の場合は違ったが、他の人たちを見ていると、こども意識が抜け切らないのか面白い事に、 『お年玉』 がまだ貰えると勘違いして、当てが外れた顔をよく見かけた。
余所目に、 「お馬鹿さんねぇ、自分で稼げるようになったら小遣いなんて貰える訳ないのに」 と内心笑っていた。

大人になったら、 『心付』 に変わることを現代の文化で知っている人は居るのだろうか。
『世知辛い世の中になったものだ』 と言われ続けて30年近く経つが、心付文化も最近では珍しい光景になりつつある。

そんな些細で厳かな日本の謙虚で美しい習慣を、日常生活の折々で教えてくれる大人が少なくなってしまった現代でも、私は青年期の若者に教えて行きたいと思う。


大人は、大人らしく。
子どもは、子どもらしく。
自分は、自分らしく。

そう、 『らしく』 成長や成熟を目指して生きることを覚えて欲しい。

大人と子どもの嗜好性に差異が薄れた現代では、40を過ぎても引きこもりやニートで生きられる世の中が存在する。
それが、らしさを考えられなくして居り、ただで飯が食らえることの間違いに気付けない原因だ。

子どもでも、ただで子どもの特権的に小遣いが貰えるのではなく、親の手伝いを率先してやらせることは大人になる大切な訓練でもあり、家事や炊事、洗濯、掃除、買い物など手伝った代償として、小遣いが貰えるのだと教えればいい。

『働かざる者、食うべからず』

日本の良い諺だ。
体や知恵を使わなければ、食べる=生きることが不可能なのだと知る必要がある。
それは発展途上国や内戦などによって、今日を生きるために必死で子どもながらに稼ごう、食料を調達しようとしている子どもたちがいることを考えたら、日本こそ考え直さなければならないだろう。


親離れ、子離れの問題。
しかし核家族のご都合主義。

改めて、自分が成人式に何を感じたのか見つめる良い機会だった。

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