2013年1月6日日曜日

物差し

よく世間では、自分の物差しで物事を計ると言うが、その物差しは殆どの場合、その人の経験値によって作られている。

他者との意見の食い違いや対立が発生した時に、その言葉が使われるのだが、果たして物差しはどんなイメージなのだろう?と、ふと考えた。

自己主張や自己正当化は自己防衛の心理から現れるが、その時 『価値観』 が物差しを浮かび上がらせる。
ある人によっては、定規。
ある人によっては、角尺。
ある人によっては、水平機。
しかし殆どの人がイメージしているのは、竹で作られた物差しではないだろうか。
現代では、学校教育の中ではプラスチック製の約20cm程の筆箱に入る大きさで、キャラクターや絵柄の着いた物を使用しているが、それを物差しとは呼ばず、定規と呼ぶのだから、価値観の比喩としては、やはり30cmの竹製の物だろう。


そこで私自身がこれまでの過去を振り返り、自分の中にはどのような 『物差し』 がイメージされているのか考えた。

ある投稿を私がし、その返信によって自分に気付いたものだ。

私はまるで 『巻尺』 のようだ。
あるケースでは、こう。
この人の場合には、これぐらい。
何かを成し遂げようと思い立った時、必ず 『計画・実行・即反省』 とある程度の見込みや段取りを先に考え、行動し、おおよその達成可能期間などを予測しておく。
そして、ある程度進んだ所で、一旦立ち止まり、このまま実行して行ってのメリット・デメリット、リスクとリターンをもう一度見直す。
それで、最初に計画した通り間違いないと思えば続行。
しかし、見込みなしと判断すれば即中止し、もう一度計画を練り直す。

毎回、何事に対しても距離と時間と労力を測りながら取り組んできた。
その結果がたとえ失敗であったとしても、それは 『失敗』 という経験値を得る事になる故に、決して無駄ではなく必ず後の教科書・参考書として大切に持って置くのだ。

そして巻き取って、その物差しは常に道具箱の中に整理して納められる。

どうりで、確固たる価値観や信念は自分にしか解らず、周囲からは 『いつも言う事が違う』 と言われる訳だ。
いつでも取り出せて、いつでも合わせられて、いつでも計れて、いつでも終える物差しでは、相手に私がどんな人間なのか伝わる訳もない。
何故なら、使わない時は終ってしまうのだから。


どこまでも長さのある限り計れる、いつでも自分の意思で巻き取れる。
そんな 『物差し』 の持ち主だったら、相手はどこまでと判断が着く筈もなく、またいつ巻き取られて終われてしまうのかも予測不可能だろう。



私がしてきたことは、的確に物事を計ること。
それは私にとって、最終地点である物事を成し遂げる道具に過ぎない。
その巻尺の長さを自分で伸ばそうと努力し、どんな距離でも測れるように訓練してきた事は、すべて現在の自分に繋がっている。

人々の中に在る 『物差し』 をイメージすることは対話から得るものだ。
音楽の嗜好や着飾る物、立ち振る舞い、それらを自分の価値観に当てはめながら、共有=そうだねを見つけようとしている。

さて、そんなことを考えてみた事があるだろうか。
私が巻尺を巻き取る行為は、きっと 『リセット』 だろう。
そして、その行為は誰にも流されたくない、自分だけの価値観を揺るがさない為の結果ではないだろうか。
実は、存在するようでしていない物差しなのかもしれない。
そんなことを、ふと考えた。

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