2011年3月24日木曜日

《鬱と暴力について》 10年前に書いた記事より

以下の文章は、私が10数年前に書いた記事だ。
うつ病だけに限らず、様々な病気や障害によって 『うつ状態』 に苦しむ人や介護者は大勢いる。
その世界がどのような感覚なのか、少しでも理解に繋がればと云う思いで掲載した。



アダルトチルドレン(AC)とか、トラウマという言葉を聞いたことが、皆さんもあると思います。
また、うつ病や抑鬱といった病気も、最近では一般的になってきたと思いますが、実の所はいったい、それらがどんな状態なのか、理解されていないのではないかと、色々な人と話をする度に感じます。

昔、私が訪問した、ある精神科医との話を少しだけ、ご紹介します。
鬱とは、まるで、村上春樹の小説『ノルウェーの森』の一説のようなものだ。
木々が生い茂った森をずっと進んでゆくと、広い草原に出た。
真っ直ぐ歩けば、この迷い道から出られると解っていた。
でも、そこへ、井戸があった。
覗いてはいけない、落ちるかもしれない。そう思ったのに、引き寄せられるように、覗き込んでしまった。
そうして、深い、暗い、世界へと彷徨ってしまうことになった。
これが、まさに鬱状態そのものだと、その医者は表現しました。
迷ってしまうと解っていながら、自分ではどうしようもない、世界に沈み込んでしまい、遂にはどうしたら、抜け出せるのかすらも、真っ暗で判断できない状態だと私は理解しました。


また、ある他の精神科医は、こうも表現しました。
『富士の樹海に迷い込んで、出られなくなって、彷徨っていく』・・と。
確かに、鬱という字を辞書で引くと、樹木が生い茂り、暗い様と書いてあります。
鬱とは、どうにもならないことから、離れない何かに、悩まされているような状態なのです。
だから、一般的に悩んでくよくよしてるとか、ノイローゼなんだとか、言われているような状態とは、少し状況が違います。


さて、鬱と暴力の関係についてですが、生い茂る樹海から抜け出すには、どうしたら良いか?想像してみて下さい。
彷徨って、解らなくなってしまった道を錯乱しながら歩いて行くと、どんな気持ちがするのでしょう?
きっと、不安から苛立ち、泣きたくなり、叫びたくなる、そんな心境ではないでしょうか…。
それが、周囲に対しての傷つけや、自分への傷つけになっていると、私は思います。

よく知られているのは、自傷行為と言われるリストカットですが、鬱は決して自分だけしか傷つけない、他人や物への暴力はないと誤解されているようです。
どうしようもないことへの、苛立ちは、頭を悩ませ、心を苦しめます。
誰でも、経験のあることなのに、鬱だけ特別に思われがちですが、それは、『病気だから』と一般的に分類されてしまうからでしょう。

これをよく、知っていただけたら、何故『虐待』が起こるのか、少しは謎解きが出来るかもしれません。
私が考えるには、悩ませる辛い何かから逃げたくて、どうしようもない気持ちがピークに達した時、いわゆる『爆発』が起きて、その矛先が暴力になってしまっているのではないか、ということです。
その対象が、自分であれば『自殺未遂』、『リストカット』という形に現れますし、他人であれば、『傷害』や『虐待』となるのだと思います。
しかし、対象が違っても、ココロの叫びは、どちらも同じ「助けて」というメッセージでしょうから、周囲の人が、手を差し延べてあげなければ、当人を救えません。
実際に、樹海に迷った人を見つけて、救済しない人は、多分いないと思います。
救済の方法も必死で探すでしょうし、助けられるまで、諦めることもないでしょう。
同時に救済を求める人の体や精神状態を観察して、自分一人で助けられるか、あるいは自衛隊やレスキュー隊への応援を頼むか、どうかと考えると思います。
同じように、暴力や虐待をする人、自殺未遂を繰り返す人の状態が、鬱から起こっているのだと解れば、当然、救済の仕方を考えて頂きたいと私は思います。
『病気だから』、『助け方が解らないから』ではなく、自分に出来ることはなにか?誰に?どこに頼めば助けてもらえるか?と考えてあげて欲しいと思います。
まず、出来ることは、助ける側が冷静に観察しなければいけません。
次に、相手が何を求めているのか?どうやって助けて欲しいと(何を悩んでいるのか)をキャッチします。
それには、やはり専門の人に知恵を、借りながらでなければ、少し難しいかもしれません。
でも、本当に助けてあげられるのは、助けて欲しいと思われている人なのでしょう。
鬱の場合、誰も必要ないと本人は言ったりしますが、実はその言葉を投げかけている相手だということが、多うにしてあります。
それぞれ、望む相手や方法が違いますから、これをしたら救えるとは、一概に言えませんが、一人でも多くの人たちの手が、救いになれると私は思います。
くれぐれも、中途半端な気持ちでは出来ないと、理解して頂きたいと思います。

2011年3月23日水曜日

何をもって不謹慎と騒ぐのか

不謹慎について11日以来、現況誰もが他人事とは思っていないだろう。
しかし次々に報道される死者数や惨劇映像、止まない地震速報等に困惑し心理的に萎縮している。
そして理性を保とうとする余り否定的な考えばかりが錯綜して何もかもを不謹慎と思い込んでいる。

ではNZ地震の被災者は、未だ見つかっていない事は他人事なのだろうか?

宮崎県や九州地方に於ける、霧島連山噴火の被災者や鳥インフルエンザ養鶏被害農家、こうてい疫被害農家は他人事なのだろうか?

災害の規模や被害者数が人々の関心指数なのだろうか?

どんな悲惨な災害も事件も日常茶飯事、世界中で起きている。
例えば、直近の事件ではエジプトやリビア中東諸国の独立解放デモや各国の内乱や戦争は
いつまでも治まらない。
その上、軍事国家から逃げ惑い難民キャンプや瓦礫の中で食べる物もなく、貧困や飢餓に苦しむ人々は未だに後を絶たない。

ある国では内戦が治まらず、人道支援のために先進国から軍隊を派遣し、治安統治が行われている。
そこでは産業も何もないためにお金を稼ぐ手段がない。
そして大人たちは戦争に明け暮れ、大量のストリートチルドレン(浮浪児や孤児)が国中に放り出されている。
ある子供は先進国の人々にお金を集り、ある子供は残された母親や小さな妹弟のために先進国の人々が排出したゴミ処分場に残飯を漁りに行く。
今も彼らは同じ毎日を過ごしている。

日本人はそう云う立場に置かれた世界の人々をどれくらい知っているんだろう。

それこそ、今ネット上でスローガンのように皆が書き込んでいる
「私たちには何も出来ない、小さな力」
だから、対岸の出来事と思っていないだろうか?

今回の大地震と同じく、ハイチ地震の災害規模は世界レベルの非常事態だった。
しかし、実際その時周りで見聞きしたのは「ハイチって何処の国?」や「どんな国なの?」だった。
隣のドミニカ共和国はサッカーで知られていたが、島を二分したハイチについては知られていなかった。

その時、この日本では誰か『不謹慎だから自粛しろ』と騒いだだろうか。
私は被災していない地域の人々が健全に生活出来るにも関わらず、何もかもを混同して『不謹慎』の一言で不健全な精神状態になってしまうのは最悪の事態だと思う。

それよりも、もっと前向きな言葉を真剣に一人一人が今一度考え直してはどうだろう。
健全、優しさ、思いやり、真剣、真面目など。
あるいは喜怒哀楽。
喜ぶとは何か?
怒るとは何か?
哀しむとは何か?
楽しむとは何か?

私は日常的に絶対に使ってはいけないと子供たちに教えている言葉がある。

それは3つの言葉
「ウザイ」 「キモイ」 「死ね」

ほんの軽いノリで他愛なく、相槌の様に使っているのかもしれない。
しかし決していい意味の言葉ではないことも皆、知っている筈だ。
そんな人(自他共に)を攻撃するような言葉を使うことこそ、『不謹慎』だと思う。
それを今まで誰も疑問に思わず、日常会話として吐いていたことを考え直して欲しい。

もう一つ、私がいつも本当に『不謹慎だ』と感じていたこと。

お葬式の参列者について
私は仕事上の取引先だけでなく、近所や知り合いの人のお葬式に出席する機会が子供の頃から多かった。
親族はどうにもやり切れず涙が止まらないのだが、それを出棺まで待っている人たちや受付をやっている人たちはヒソヒソと世間話をしたり、井戸端会議を笑いながらしている光景を毎回目にする。
時に周囲の反応を気にしながらキョロキョロと様子を伺いつつ私語を慎まない。
あくまでその現場は人が亡くなり、目の前で遺体が棺桶に安置されている真っ只中。
亡くなった方や残された親族とは生前からの交流があり、これからも多少なり付き合いがあるであろう。
相手の身になれば、お葬式の最中は笑える心境でない筈だ。
そのような不謹慎な人は、どんな気持ちでご焼香をしているのだろうと、私は顔を見る。
そして「所詮自分の事じゃないから、とりあえず形式的に」してるだけだと感じた。

せめて出棺を見送って、その場から離れるまでは静かにして居なさい。
それが退屈で出来ないのなら、居る事の義理を立てずにご焼香だけ済ませて、さっさと帰りなさい。
死者と遺族に対しての冒涜だと分からない人間は、そもそも参列をやめなさい。
いつも私は心の中で、この社交辞令と建前の光景に情けなさを抱く。


学校行事参加の保護者について
入学式や卒業式に参列する保護者は、非常にうるさい。
式典は時間が長いが、始まる前は勿論、式の最中にもおしゃべりが一向に絶えない。
子供たちは練習の時や日常的に『静かにしなさい』、『場をわきまえて私語を慎みなさい』と言われている。
しかし、その保護者たちも自分が子供だった時や社会に出てから『私語を慎め』と教わってきた筈だ。
いつから場をわきまえ、私語を慎まなければいけない道徳を忘れてしまったのか。
子供たちはそういう大人を見て育つ。


さて何をもって不謹慎と騒ぐのか?ということだが
重要な場にそぐわない言動、行動を慎まないこと と思う。

あまりに過剰反応をし過ぎて、何がどうなのか判断が付かなくなっている。
それは普段から自分がどの様な事が適切で、どの様な時に不適切なのかを深く考えず
曖昧な社会的風潮に流され、それが『普通』であり、自分は人並みに沿って生きていると過信してきた結果ではないだろうか。
人は先入観や固定観念も存在し、そして群集心理や間違った集団的結束は非常事態時に起こりやすい。

この災害で生存した人々にこれからやってくる苦難は計り知れない。
実務的な問題は目に見える再建、例えば住まいや実質的な生活費用の工面から失業からの復帰と分かりやすいが、精神的な問題は喪が明けるにも時間が掛かる。

PTSD 心的外傷ストレス障害は簡単には治らず、和らぐことはない。
現地被災者も災害援助者も死者の数より大幅に上回る人々が、真の意味でのうつ状態に陥ることは明らかだ。
そして、実質の体験者でない非被災地の人々も間接的に同じ様な状態に陥る可能性はある。

だからこそ、今見守っている私たちはこれからやってくる不安事態に備えて心身共に健全に
そして喜怒哀楽の五感を鈍らせず、あらゆるエネルギーを蓄えておこう。
一人でも多く健康であれば、一人でも多くの傷を負った人を助けられるのだから。
自分が元気でなければ、何も出来ないことを忘れてはいけない。

本当に必要なのは、気休めも口先だけの慰めでもなく
しっかり心の手を繋ぐことだ。
その繋いだ手が震えていたら、こちらはぎゅっと強く握り返すことだ。


色々な事を不謹慎と思い込んでいる人へのメッセージ

私たちが泣いてしまったら、相手は泣けなくなる。
私たちが笑うことや楽しむことを止めてしまったら、相手は元気でも病気になってしまう。
私たちが混乱してしまったら、相手は何も助けを求められなくなる。

それは「自分のせいで相手にまで辛い思いをさせてしまった」と罪悪感に駆られてしまうから。


私たちは負けないと強く思うなら、些細な書き込みや周りの出来事で余計な争いをしてはいけない。
地面や建物が崩れたからといって、人間関係まで地震を起こして崩してはいけない。
人のために役に立てる人間になるには、まず、自分の事を自分できちんと出来る人でなければならない。
それは自分さえ良ければ良いということではない。


誰かが 「これは不謹慎じゃない」 って言ってたからと人のせいにしないで、やって良い事と悪い事の判断を自分の責任できちんとすることが大切だ。
それこそが 『自分の事を自分できちんと出来る人』 という意味だ。