2012年5月27日日曜日

NHK 未解決事件オウム真理教を観て


私は去年、東北大震災について、
20011年5月3日
不謹慎と自粛解除の政府発表が与えた悪影響 という記事を書いた。

そこにちょうど、オウム真理教ー地下鉄サリン事件に於ける、山梨県上九一色村の一件を取り上げている。

今日放送されたNHKドキュメンタリー番組 『未解決事件~オウム真理教』 を観て、現在の上九一色村を初めて見た。
1995年は、年明け17日に阪神・淡路大震災が起こり、愛知県小牧空港にて大韓航空機墜落事故、そして地下鉄サリン事件が起こるような日本中があらゆる事件や事故の大惨事に見舞われた年だった。

記憶が曖昧なのだが、サカキバラセイトという少年犯罪に翻弄されたこともあった。

何重にも未曾有、前代未聞の出来事が重なったこともあり、忘れられない年でもある。


今日の放送を観ていて感じたのは、構成や時間の関係、制約上の問題があってなのか、
教団の年表をただ見ているような気がした。
サリン製造から、松本サリン事件、そして地下鉄サリン事件に至るまで、どれだけの日数が経過し、
警察が強制捜査に踏み切るまで何ヶ月掛かっていたのか、その間、あらゆるマスコミやテレビにどれだけ教団関係者が出演し、テレビ局全体で報道していたのか、それらが放送されなかった。

その時代に、偶像化、虚像化され、連日のようにテレビで報道されたり、出演して自らを正当化する発言をどれだけ取り上げて来たのかを実際に観ていた私は、いまでも鮮明に覚えている。

あれから17年経って、今の若者の知らない、信じられない出来事が実際にあった事。
それをマスコミが追い掛け回して、ワイドショー化していた現実。

第二部を明日、放送するようだが、警察VS教団と予告していた。
700本を越える生録音テープの内容を、公開しても、『年表まがい』 の構成では、一体何がどういった経過を経て、大事件にまでなったのか概要しか解らないような内容だったことを考えると、明日の放送もその程度の 『真実』 しか放送されないように思った。


地下鉄から運び出される人々、誘導する駅員の人々、その映像に残された人たちは命を失った。
遺族の事を考慮して、解説もテロップもなかったのは理解出来なくはないが、当時の被害者リストの報道を覚えている私は、「いま写っているこの人たち、みんな死んだんだよ」そう、独り言をつぶやいた。


『いま明かされる真実』 と銘打つならば、当時の報道内容も織り交ぜなければ、私たちが見せられ、知らされてきた事が、それらを知らない人々にとっては理解出来ない。

ある側近幹部が、とても聡明で弁の立つ利口な人で、教団が叩かれ出した時にスポークスマンとして、多くのメディアに対応した。
それまで、国内ではあまり耳慣れない言葉を巧みに使って、国民は意味を知る事になった言葉。
『ディベート』
『マインド・コントロール』


群集心理とは怖いもので、メディアへの露出が多くなればなる程、悪人が英雄に見えてきてしまう錯覚が起きた。
彼の容姿、話し方、パフォーマンス、すべてが個人的な錯覚によって、偶像と虚像を招き、一時期、ファンクラブまで発足し、彼と結婚したい、彼のこどもを産みたい、そう言って若い女性が、事件とは無関係に恋をし、入信者まで現れた。

その後、地下鉄サリン事件が起きたのだ。


この手の錯覚は、いつの時代にも起こっており、アメリカでの大量・怪奇殺人事件では、有名なところでマンソン事件などあり、1994年映画 『ナチュラル・ボーン・キラーズ』 の中でも取り上げられた。
一種の錯覚には間違いなく、誰もやったことのない大事件では誰もが最初は恐怖を抱く。
しかし、テレビで他人事のように連日放映され、また本人が露出すればするほどに、人々の意識は好奇心へと変わり、やがて間違った憧れを抱く。

これを、集団心理の合理化、同調心理という。


今回の震災の津波映像や福島原発事故の映像も、当時連日のように放映され、ある種の刷り込みがあった。
それから一年が過ぎ、「復興、支援」ばかり聞こえるが、瓦礫の受け入れ反対で逮捕者が出たり、原発反対デモで押し問答の放映がされている。
人々が、「それは嫌だ」と主張している事が、まるで事件を起こしている人のように騒ぎ立てるメディアは、正しいのだろうか。
逆に、強引なまでに原発推進を進めようとしている人々が穏やかそうな表情で会見に応じているように見せるメディアは、間違っていないのだろうか。



放送の中で、元信者が言っていた言葉が、とても印象的で真実のように思えた。
「何が正しくて、何が間違っているのか、何もわからない」
「自分たちは、本当はどうしたかったのだろう」
「本当は何を探していたんだろう」

こんな問いは、安保理闘争の学生運動の時代から、ずっと未だに変わらず誰もが抱いていることだ。
時代と共に、事件は強烈で凶悪化しているように言われるが、実は何も変わってはいない。

ただ言えることは、年々映画の題材がノンフィクションを元に作られ、映像や音響効果が過激になっている。
それらが、人々の麻痺した刺激を求める麻薬になり、事件を模倣する題材として無意識になっているということだ。


教団の印象は、マンソンファミリーやナチス独裁に何故かどことなく似ている。
教祖の姿は、独裁者そのものに見えた。
是非はさて置き、フセイン大統領、カダフィ大佐等の独裁者と言われるその誰もが最後捕まる前に、洞穴や狭い隠れ部屋で金を片手に隠れていた。
そっくりだ。

『教祖が本当は何をしたかったのか、理解出来ない』 と精神科医や分析官らが番組の中で言っていたが、それは真実ではない。
番組中、何度も信者が証言していた。
『サリン製造量は約70億人分を最初から計画、想定していた』
それで、はっきり目的が理解出来るではないか。

この地球上に居る人口数ではないか。
教祖の最終目的が、世界征服だったことは明らかだ。

マンガやアニメにも出てくる簡単な理由であり、英雄になり、独裁者の誰もが思い描いた世界だ。




今でも忘れられない光景は、上九一色村の村長が最後まで行政に、
『あそこの施設はおかしい、絶対に何か悪い事が起きているから調べてくれ!』
そう訴え、村人たちと一丸となって、
『オウム出て行け!』 と自分たちの力で戦っていた姿だ。


一つの村を死に追いやり、野次馬見物した人々。
罪の重さだけでなく、私たちの誰もが、悪人の一人でもある、それを忘れてはいけない。
そう思えてならなかった。

2012年5月23日水曜日

憂い

何も出来ないのなら、何もしなければ良い。

何か出来るのなら、やれば良い。

出来ない事を嘆くより
やれる事が当たり前だと思えば、それだけで十分。


所詮、人に出来る事など
すべて当たり前のことくらいしかないのだから。

何も特別でなく、威張るものもない。


偉業だと語るのは、他者にとって不可能であったから評価された結果なのであり、
当人にしてみれば当然であり、可能だった結果に過ぎない。

たった それだけのことだ。