2021年9月16日木曜日

連載Egoの執筆後記

 始めに解説をしておく。


Ego(エゴ)とは精神分析学に於ける概念、用語で、自我を指す。

精神は、エゴ、エス、スーパーエゴの三者から成り立ち、始めにエゴが外的要因によって受けた影響を解釈し、エス、スーパーエゴがそれによって反応を示し、一定の均衡を保つように出来ている。

エゴ

エス

スーパーエゴ

これらの詳細については、Wikipediaでも何でも紹介されているので参照されたい。


この世には、溢れかえるほどの人格障碍者が渦巻いている。

私の指す人格障碍者とは、世間が上澄みのように捉えている所謂”障害”を有するひとではない。

反社会性人格障害を有する者を指しているのを注意しておく。


小説や映画などの娯楽でも反社会性人格障害を題材にしたものは多く存在している。

いつの時代でも同じ傾向があることに気が付いた。

彼らは私たちの日常生活の中に溶け込んで、何事もないかのように自然に存在している。


共通する現象は、一見優しそうで、穏やかそうで、決して悪意をこちらに向けては居ないように見せる姿だ。

決定的な犯罪に走る者ですら理解困難な精神構造を有している。

それは、彼らなりの『正義感』に価値を見出し、自分の価値観に当てはまらない者はすべて『悪』であるという概念を持っているからだ。

絶対に覆らない価値観を持っている。


それは私たちも同じなのではないだろうか。

自分が信じているものや信じてきたものを覆し、まったく正反対の概念や価値観に変換することなど出来はしない。

人格形成の未熟な発展途上にある少年期のヒトでさえも、確固たる概念を持っている。


それが 『信じる』という曖昧な概念なのだ。


どこの地域で生まれようとも、どんな言語の中で育とうとも、自分の生きている地域の政治や教育が各々違えども、人間が生まれ持って培い、この世に誕生した時から備えて来ている物は、ただ一つ。

良心 なのだ。


誰かが教えたものでもない。

誰かが植え付けたものでもない。

人間が人間たる者であるために、細胞の中に備えて何億年も変わらずに持ち続けてきた持ち物なのを普段の生活で意識するようなことはあまりない。


良心と信仰心は深く結び着いている。

信仰心は何も『何教』という宗教的なものに属して抱く概念や観念ではない。

人間は元々、何かを ”信じる” ように精神構造が作られている。

経験によって獲得する信じるという観念もあれば、本能的な無意識の潜在化によって獲得している信じるというものもある。

これを盲目的潜在意識と精神分析の中では表現されることもある。


この盲目的潜在意識を意図的、恣意的に操作しようとすると人間の精神に狂いが生じる。


そんなことを意識的にわざわざしようとする人間など ”普通” は居ない。

意見の対立や価値観の相違が生じたとしても、潜在意識を意識しながら対峙することはない。

それは精神科医であってもしない。


したのは、ハンニバルくらいだろう。

ハンニバル・レクターが実在したのかどうか知る気はない。

『映画ハンニバル』の脅威に3回も曝され、その悪意ある行為に憎悪を抱いた事だけは記憶している。

主人公のハンニバルの悪意を指しているのではなく、その映像世界を作り、この世に曝しだした者たちの悪意を指しているのを書いておく。


今回の『Ego』は、主人公と脚本家と監督のすべてを1人の人物が行っている。

しかし、その者は自分の知識や知恵で実行しているのではない。

ある物語に忠実に、ある物語を自己解釈して、自我を押し付け、脅迫し、他人の概念と精神構造を書き換える巧妙な手口を駆使する。


私は決して彼を犠牲者だとは言わない。

彼に五分の理を決して与えない。

許しを決して与えない。


このようなことがあって良いのだろうか

そんな疑問など必要ない。

何千年もの時を超えて存在し続ける『業』

それを『Ego』と題して表現した。


業も自我も実体化するのは難しい。

これを「業と言うのだ」

これを「自我と言うのだ」

そう立証出来た者は存在しない。


何となく、そうだ

そのような掴み処のない表現でしか伝えられない物だ。


私が見たエゴイストは、エゴイストではなくサイコパスの中にある”エゴ”だった。


”普通”の人間はエゴを隠したがる。

それは恥ずかしいのが理由だからだ。

エゴは見られてはいけないもの。

人間の本性と捉えられるエゴを顕わにする場面は怒りの感情が頂点に達した時とされている。

だから”普通”は見たこともなく、実感することも、意識することもない。


しかし何故かサイコパスは目を覆いたくなるほどに初めから曝け出している。

だから余計に気が付かない。

ストリーキングは恥部を露出して、それを目撃した者の反応を見て愉しむ。

その心理と似ては居るが、露出して来る物体が目に見えない『精神』の持ち物だとすると、こちらは防御のしようがない。


それに対抗する宛がう持ち物は『精神』しかない。


犯罪は、こうしていつでも忍び寄る。


それを私は決して見逃さない。



この物語を読んで、何が題材なのか、何があったのか、恐らく詮索することだろう。

直ぐに思い当たる人も中には居るだろう。

しかし核心となる物については何も書かない。

もし気が付いたのなら、自分を見つめ、周りを見回し、自分の居る位置を改めて確認してみると良い。

あなたは誰かに操作されていることに気が付けるだろうか?



最悪を与えたいのではなく、最悪の中から抜け出して自分を取り戻して欲しいと心から願い執筆した。

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