2012年9月2日日曜日

パラリンピックが放映されないことについて

今回のロンドンオリンピックは、開催3回目ということもあって、色々注目された。
時差の関係から放映時間は、生中継でみるには日本では夜中だった。
それでも夏休みと重なったのもあって、録画や生中継で見た人は多かっただろう。


いつもオリンピックを見るたびに、知らない人が 『ああ、終わったね』 という声を聞いてきたが、「いやいや、閉会式はやってもまだ、やるよ」 と言うと必ずと言って良いほど 『えー、そうなの?』 と返事が返ってきた。

パラリンピックは、オリンピックが閉会した2週間後に改めて開会式が行われ、障害者競技が開催される。
そもそもオリンピックとパラリンピックが分けられているのは、差別ではない。
健常者としての技量を競い合うのがオリンピック。
障害の程度やそれぞれを考慮し、障害者としての技量を競い合うのがパラリンピックだ。
その歴史は1948年のロンドンオリンピックに始まる。
詳細はウィキペディアを読まれると良い。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF

それ故に、今回のパラリンピックは特別な意義があると言える。

しかし、毎回開催されるオリンピックの後、テレビでは結果しか報道されない。
あれだけ日常の企画を変更してでもオリンピックは放映されるのに、ニュースやワイドショーの一部でしか取り扱われない事に、とても違和感と不満を抱いてきた。

今回、東京に於いてメダリストたちの凱旋パレードに集まった人は、50万人にも上った。
毎度の事だが 『勇気をありがとう!』 や 『感動した!』 『パワーをもらいました!』 そんな言葉が沢山選手たちの貢献に対して寄せられる。
少なからず誰もが、超人的能力と日々の訓練に賞賛する気持ちがあるから、そう素直に言えるのだろう。

それならば、障害を背負いながらハンディを持った人の日々の努力や、精神力は想像を超えるほどのものに対し、メディアは知らせる代理人ではないのか?


健常者でもオリンピックに出場するまでの道のりは長く、故障や怪我によってリハビリでトレーニングに専念しなければならなかったり、候補者協議会に出場できず断念する人も沢山居る。
その中で選ばれた人が出場できるのだ。
パラリンピックも同じく、選手選考会があり、選ばれた人だけが出場できる。
しかし、健常者と障害者の選手の違いは、身体障害だけの問題ではない。

障害者は、先天性の人も居れば、事故などによって人生の途中から障害者になった人も居る。
その挫折感や失望感を乗り越え、障害者スポーツに出会い、人生の生きがいを見つけた人が日々練習に励み、自分との戦いの中にある。
日常生活で思うようにならない、自由にならない問題を抱えつつ、スポーツをするということは、不自由な身体を更に不自由な中で動かさなければいけない。
その精神力は、健常者にはきっと想像すらできない世界があり、日々忍耐、努力、自分の目指す自己理想像に近づこうとする貪欲なまでのものがある。


オリンピック選手がどんな練習を毎日し、競技に臨んでいるのかを健常者が体験した時、その難しさを知る。
それならば、障害者が同じく挑んでいる競技はどの様な難しさがあるのか、考えてみて欲しい。



報道は公正・平等を元に、もっと広く人々に知らせる義務がある筈だ。
24時間チャリティー番組で、この時とばかりに障害者を取り上げ企画する事に違和感を抱く人は多い筈だ。
それは、障害者を 『ネタ』 に、わざと感動や涙を誘う番組構成に辟易しているのではないだろうか。
敢えて 『ショウガイシャ』 と銘打つようなことは、心理的に共感することよりも、『触れ込み』にしか感じられないのは、誰もが無意識の内に 『差別』 と脳裏に感じ取っているからだ。

もっと普段から色々な番組の中で、障害者の生き様を紹介して行く必要がある。
障害者は、特別な人ではない。
身体的に不自由なだけであって、『人』 に変わりはない。
特に、肢体不自由者は車椅子を使用していても、上半身は何ら健常者と変わりなく、その車椅子を自力で漕ぐにあたっては、むしろ健常者(健常選手と比較するのではなく一般人と)よりも筋力が発達している。
その姿を見て欲しい。
そして、障害者の人たちにもそのひたむきに、ひたすら自己理想像に近づこうと努力している姿を見て欲しい。


断片的な 『頑張る姿』 だけを見ても、何も伝わらない。
どんな経緯があって、いまこの姿になれたのか、それを見ることで、知ることで、健常者、障害者双方に 『賢明に生きる』 とは何かを感じて欲しいと思えてならない。

『心が折れた』
『モチベーションが上がらない』
『どうせ自分なんか何も出来ない』

そんな愚痴を毎日吐いて生き辛さばかりを嘆くのなら、生きる価値など見つからない。


どうか、放映されないパラリンピックであっても、断片的に結果論だけを放映されても、それを見てでも、『あの人たちが、あれだけ頑張れるのだから自分にはもっと出来ることがある』 そう考えて欲しいと思う。



東日本大震災によって、いま日本には 『頑張る勇気』 が必要と誰もが言う。
『絆』 と誰もが口にするのなら、障害者とも手を繋ぐ方法を見出すべきだ。
口だけでなく、心底から勇気や感動、生きる意味を見出す必要が、ここにある。

パラリンピックの放映が、オリンピックと同じ様に放映される日が来ることを願うばかりだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿