2012年9月6日木曜日

平和になる瞬間を観られなくなった子どもたち


毎日テレビやニュース、映画といった映像の中では、殺人や戦争など事件事故、天災による自然災害、それと領土問題など争いや嫌なものばかりだ。

ふと思った。
今の時代では、誰かやどこかの国で平和になるような歴史的瞬間を観られなくなったんだ。


東西ドイツの長い争いが終わり、分断の象徴のベルリンの壁がなくなった。

天安門事件で、一人の大学生が戦車の前に紙袋を片手に立ち向かい、抗議する姿。
その後彼は戦車にひき殺され、それによって一気に市民が立ち上がり武力弾圧と戦かった。
そして今の民主的な中国になった。

ソビエト連邦が崩壊し、支配下にあった小さな国々が次々と分離・独立し元の自国に戻った。
チェコも昔はチェコ・スロバキアだったが、それぞれが独立した。
そしてソビエトもロシアという元々の名前に戻った。

日中国交正常化40周年を迎えるというが、私は幼かったためにその瞬間は知らないが、何回か田中角栄元首相の白黒の映像を観て、平和になった瞬間を観てきた。

沖縄が日本に返還されたり、香港がイギリスから中国へ返還されたのを観てきた。

そうした中でアメリカ主導の下、湾岸戦争が勃発し 『多国籍軍』 と云う新しい戦争の形が出来、日本も自衛隊が初めて海外での戦闘に参加する瞬間を観た。
その時、自衛隊では他国の軍服に見習うかの様に制服一式が一新され、ベレー帽、スカーフなど今までにない物が採用され、迷彩服はアメリカ軍の形が採用されるなど変更された。
C-130輸送機の塗装は海外使用に塗り替えられた。


そんな平和へと変わっていく世界の姿をこの時代の子どもたちは観る事がなくなった。
唯一、先頃のミャンマー(旧名ビルマ)での民主化運動指導者アウンサン・スー・チーさんが自宅軟禁から解放された映像くらいしかないのではないだろうか。

しかし、その瞬間をテレビで観ても、子どもたちには平和へ向かう第一歩とは感じる事も理解する事も出来ないだろう。
それは経緯を何も知らないからだ。
教科書で見たか、学校の歴史の授業で聞いたか、その程度でしかないからだ。

私の子どもの頃にはビルマは既にミャンマーと国名が変わっていたが、それでも私の記憶にはビルマとあった。
同じ様に、現在はスリランカと国名が変わっているが、昔セイロンという名前だった事も知っている。
セイロンは、紅茶の国だ。セイロン人だ。




これから世界はどうなっていくのだろう。
シリアでの内戦が悪化し、遂には国連の人や車、海外メディア人をターゲットにした殺害まで起き、撤退する事態にまでなってしまった。
幾ら、国の治安正常化をしようと努力しても、難民キャンプでの国際協力医師団が必死で治療や支援をしようとしても、次々と中東諸国は荒れていく。
中東に限らず、世界各国様々な所で戦争や内乱は続き、病害や飢餓は収まらず、自然界も同じ様に砂漠化が止め処もなく進み続け、北極や南極の氷は融け続けていく。

世界的な経済不況は、次々と起こり、円もユーロも下がる一方で、アラブ首長国連邦、中国では急激な経済成長によってバブル状態が起きている。



地球や人間が荒れていく姿しか観られない子どもたちは、何を感じているのだろうか。
この日本でも、震災や豪雨被害、原発問題、韓国、中国との領土問題、いじめによる自殺など沢山の荒れる映像ばかりだ。
テレビで観るのは、そんな事件・事故かお笑い番組。
ネットの中では、SNSの書き込みで一喜一憂する言葉のやり取り。

希望を持ってと言われても、何が 『希望』 と言えることなのか理解出来なくて当然だ。
『個性的に』 や 『オンリー・ワン』 と言われても、出る杭は打たれることを知っている子どもたちは自己主張をしない。
また自己主張の仕方も知らなければ、自己主張と自己中心の違いも解らずに 『主張』 の意味そのものを履き違え、勘違いしている。
それをキッパリと、説明の出来る大人が居なくなった。
今時は、『説明』 を 『説教』 といきなり決め付け、心にシャッターを降ろしてしまい聞く耳を持つ余裕も持っていない。

そもそも、説明とは事実や事情を明らかにすることであり、説教とは嫌な話や嫌味を味合わせるものではなく、先人の経験からその時々に応じて教えることである。
言葉の本来の意味もあやふや、気持ちもあやふや、生活すらもあやふや、その中で育ち生きる子どもたちが抱く思いは、人生始まって間もないにも係わらず 『人生』 という言葉を使い、『生きる意味』 を探す不安ばかりだ。

挫折と言えるような挫折でもなく、それは失敗や経験の一つであるのに、絶望を語り、死にたいと簡単に言う。
裏返しに、すぐに自分を否定や非難したり、自分が好きでないものに対し、『死ね』 と言う。
妙な事に、『神だ』 という極端な言い方の賞賛や 『天才だ』 とすぐに絶賛する傾向も異常だと言える。

結局は、こんなに治安の良い日本でありながら、実際の日常生活での人間関係では敵か味方でしかない。
それは意とも容易く、いつでも逆転する危うい人間関係になっている。
昨日まで、いや、ほんの数分前までは味方や仲間だった人間が何の予告もなく敵に変わっているのだ。
マンガ、アニメ、ゲーム、映画の題材が、そのまま現実の世界に反映され、その現実がまたフィクションの題材に利用されている。

ゆとりやら、グレーゾーンなどと曖昧な概念、価値観を抱くことと反比例して、是か非かのオール・オア・ナッシング的思考しか選択しない現代社会。



大人や国政が揺らいでいる背後で、子どもたちは大人の知らない絶対的価値観を極端なまでに持ち生活していることに気付かなければならない。
世の中を動かしている大人たちの足元は、その子どもたちによって、まるで融けて漂流する小さな北極の氷の欠片のように見える。


※平和になったイコール是にて一件落着というような単純なものではなく、ここで書いた 『平和になった』 という表現は、争いから放れて友好的関係や互いの平和を目指してということであり、好転を意味しています。



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