2011年5月25日水曜日

『心が折れる』 という言葉について

最近何かと 『心が折れた』 という言葉をあちこちで耳にする。
随分前から、人の精神に対する考え方について色々な事が気になっていた。

『癒し』 や 『人間関係』 も同じく。
そんなに人間の精神は簡単に崩壊したり、潰れてしまったりしないものであるのに何故、『心の疲労感』をあれこれと言葉を変えて表現したがるのだろうか?


心が折れるということは、精神の骨折を意味している。
肉体に当てはめて考えると、骨折はかなりの痛みを伴い、治癒するにも相当な時間を要し、忍耐も必要になる。
しかし、いくら心が折れたとしても翌日にはまた同じ日常を過ごしており、ご飯を食べているであろう。
時には本当に精神的に強烈な出来事でまいってしまい、食事がのどを通らず、眠れない思いをするほどつらいことはあるだろう。

そんな時、大抵の場合人は簡単に
『心が折れちゃって』 とは言わないと、言えないと思う。


何故こんなにも自分を甘やかすかのような自己防衛の言葉が次々と氾濫し、どこから生まれてくるのか考えた。
そんなに逃げ道がないのか?
そんなに向き合う現実は難問なのか?
そんなに人は傷つけ合ってばかりの嫌で耐え難い生き物なのか?

私にはどれもこれも単に自分から目を背けているだけのようにしか思えない。


心理学的には、人は無意識的に自分の嫌なものを遠避け、他者と対立するよりも回避しようとする自己防衛の本能がある。
しかし、それは自分なりに様々な観点から考え、悩んだ挙句、どうしようもなく答えの出しようのない問題にぶつかった場合や、一方的に他者から理由なく傷付けられるような問題に直面した場合、人は生命危機の回避から精神を一端遮断する事態を現している。

例えば、会社の上司や学校の先輩など対等でない関係の中で、自分の意に反する出来事を仕事上どうしてもやらなければいけない問題や、許容範囲を大幅に超えるような仕事を連日やらされるような問題がある。
また、いじめ問題も同じく、他者の一方的な主観的感覚で自分にはどうすることも出来ないような行為を押し付けられるような問題もある。
その他、人種や地域、障害など様々な差別や偏見に晒される問題や事故などもある。


しかし、日常的に使われている 『心が折れる』 という本当の意味は何なのだろう。
それ程までに本人を苦しめ、問題と向き合えないほど精神的に深刻な状態なのだろうか?
私は違うと思う。

一種の社会現象とも言える問題であるが、その社会現象は何故、どこが原因となっているのか。
一概に一つだけを指し示すことは難しいが、答えは便利で簡単に何でも手早く、そして使い終わったらポイっと捨てられる物が多くなった事だ。
物が溢れ、人も溢れ、誰かと助け合わなくても、一日中、家に閉じこもって居ても何でも手に入る生活が、人間関係を必要としなくなっている。

誰かに助けてもらったら、「ありがとう」。
誰かを助けたら、『ありがとう』。
逆に誰かを傷つけたら、「ごめんなさい」。
誰かに傷付けられたら、『ごめんなさい』。

この関係を作るには、必ず自分も相手も互いの心に向き合わなくてはならない。
しかし、最初から向き合うことを必要とせず、自分にとって都合よく、ごく一部の便利な存在の人間としか付き合う気持ちがなかったとしたら、「ありがとう」 「ごめんなさい」、そのどちらの言葉も使う必要がない。
イコール、心を通わせ合う温かい人間関係など生まれはしないということだ。


それでいて、『心が折れた』 や 『癒し』 を求めて毎日、何を探しているのだろうか?
それでいて、何故、事 『人間関係』 に限って悩むのだろうか?


自分を見つめる事は、自分を追い詰める事とは違う。
相手を見つめる事は、相手を責める事とは違う。
自分の本心を見つめ、相手に対し自分はどうなのか?相手の本心は自分に対してどうなのか?
自分一人でいくら考えたところで、答えは出てこない。
それは相手は他者であるからだ。
答えを見つけたければ、相手と相手の立場になって会話(対話)を納得いくまですることだ。

しかし、誤解しているようだ。
相手と対話をして、嫌な方向に話が行ってしまい自分を悪く思われたら、もっと悪い結果になるだけ。
そう思うから、誰も自分の本音を相手に話はしない。


その言い訳が 『心が折れた』 だ。


要するに面倒くさいの一言で片付く。
そうやって、どんどん人を疑い、自分を孤立させ、目的も分からず、癒されることのない誤魔化した 『癒し』 を求めるのが現代人なのだろう。
その癒しの一部に精神安定剤依存症が多いのは現実だ。

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