約束は守られなければ、何の意味もない。
そもそも、破られるかもしれないと云う不安定なものを抱きながらするような約束をすること自体が馬鹿げているんだ。
信じるとか信頼なんて、無意味だ。
いつでも壊れてしまう、そんな無意味な幻想のようなものを信じようとする方が馬鹿なんだ。
約束を破っても、何の咎めも受けない。
咎めたところで、守れなかった過去の問題を償うことは不可能だ。
だから無意味なんだ。
だったら何の為に約束する?
何の為に契約はある?
すべて破棄したら終い。
不履行で終い。
昔、『約束は相手を信じる為にするものではなく、自分を信じる為にするもの』 と思った。
自分を信じる為にした相手が破った約束は、いとも簡単に泡のようになかった出来事になってしまう。
そんな美学的な考えの間違いに気付いたところで、私はどうしたらいいのか解らない。
怒りに任せて責めても、何の解決にもならない。
破られたことを悔やんで嘆いても、何の解決にもならない。
結局、自分が取らなくても良い責任を取って、破った相手には何の罪にも問われず、罪悪感なんて薄らいでいくようなものだけ抱えていればいいだけ。
信じた自分が馬鹿だったと云う責任を取るのが、こんな虚しさや怒りを代償に貰うことなのだろうか。
矛盾だらけの世の中で、この約束を破る行為に対しての罰則がない 『やった者勝ち』 のような現実が許せない。
ここは本当に法治国家なのか。
道徳や常識の無意味さを思い知った。
2013年11月9日土曜日
2013年6月18日火曜日
精神疾患者と精神科医について
他愛もなくテレビドラマを観ていて、ふと感じたことを書こうと思った。
『LIE TO ME』 というドラマだが今回の内容は、妹が金の為に兄を遺伝性の統合失調症患者に仕立て上げ、精神病院に生涯入院させようとしたものだった。
『17歳のカルテ』 にも似た内容だった。
精神科医は患者を目の前にし異常か正常かを判断しなければならないが、それを何で測っているのだろうか。
家族や周囲の人間が、『精神的におかしい』 と訴えると、いつ、どのように、何が変だと感じるのか精神科医は質問し、家族や周囲は何に困っているのか聴き取る。
だが、おかしいと言われている 『患者』 とされる人間には単刀直入に、「あなたは周囲からおかしいと思われ、困っていると言われていますよ」 などとは決して精神科医は言わない。
患者側には観察と問題行動とされるものへの抑制しか与えられない。
原因がどこにあるのか?
それを精神科医は観ているのだろうか。
随分と前からこの辺りが、私には喉に刺さった魚の小骨のように引っ掛かって仕方がない。
診断と治療の元となる 『原因』 それは診断基準という物差しだけしかない。
精神鑑定や精神分析を繰り返し行うことはない。
それは人の精神ほど不安定で移り気なものはなく、異常状態とされる時には明確な分析が不可能な為、一定期間の観察の後でしか行えないものだからだ。
では、17歳のカルテの少女たちは時代の風潮や常識と云った非常に曖昧な価値観によって 『人格障害』 にされ、ドラマでは策略という裏側に隠された手口によってマフィンに幻覚剤を混入された物を何の疑いもなく食べた人の実父が統合失調症患者だったと云う言い分によって 『遺伝性』 とされた、この問題をどのように精神科医は診ていたのだろう。
誰の中にでもある憂鬱感や孤独感、あるいは優越感や幸福感。
人の歩む人生に平坦な道はなく、学校の入学や卒業、恋愛や友人関係、就職や失業と様々なアップダウンの中で平穏に暮らそうとしながらも、楽しさを求め、刺激を求めながら誰もが生きている。
忙しい時期には悩みや休む間のないことも時には続き、やっとゆっくり出来ると思えば暇で仕方なくなり、常に何らかのいわゆる 『波』 のある生活をする。
当然のようにその時期が長引けば、それなりに何かを心に抱くものだ。
それらを過敏に感じてしまうのか、適当にやり過ごしてしまうのかは人それぞれだ。
そうなれば、精神科に足を運ぶという現実に至る 『原因』 はいつ?どのタイミングなのだろう。
最近、「メンタルが弱い」という言葉をしばしば耳にするが、そもそもメンタルという物差しは一体どのような目盛りなのか知りたいと思う。
以前の記事で、『心が折れる』 という言葉について書いたことがあるが、何故次々と人々は精神面のことばかり話題にしているのだろう。
私が思うところは、そんなに精神面にばかり気を取られていると本当は精神障害でも精神疾患でもないのに、暗示に掛けているようなものだと云う事だ。
時代が不安定な訳でも、経済が不安定な訳でもなく、人々の心が取り留めもなく掴み処のない漠然とした自己や他者との価値観が不安定にさせているだけだ。
100年以上経っても原因の判らない病気は未だ数多く、薬剤もあまりなかった時代に比べると新薬の開発が急速に進み過ぎていることにも大きな原因はある。
何故、傷を早急に消し去ろうとしてしまうのか?
人間には自然治癒力があることを知っていながら、何故 『精神』 に対して慌てて直そうとすぐに抗不安薬や抗精神病薬を処方し服用してしまうのか。
内臓疾患はある程度の技術で発見し、たとえそれの原因が不明であっても治療法や対処療法は必ずしもではないがある。
しかし精神に関しては、確固たる原因を突き止めるには明らかな脳疾患の異常が発見出来なければ診断することも危ういものである。
性格による傾向なのか、何らかの疾患による傾向なのか、また第三者の錯誤なのか実態なのかを見極めるには時間が必要だ。
私が考えたいのは精神科医の目だ。
その精神科医も人である以上、固定観念や先入観が全くないとは言い切れないからだ。
それからもう一つ、WHOやCDCによる診断基準や検査法だけに頼りきっていることも非常に疑問を抱く。
『LIE TO ME』 というドラマだが今回の内容は、妹が金の為に兄を遺伝性の統合失調症患者に仕立て上げ、精神病院に生涯入院させようとしたものだった。
『17歳のカルテ』 にも似た内容だった。
精神科医は患者を目の前にし異常か正常かを判断しなければならないが、それを何で測っているのだろうか。
家族や周囲の人間が、『精神的におかしい』 と訴えると、いつ、どのように、何が変だと感じるのか精神科医は質問し、家族や周囲は何に困っているのか聴き取る。
だが、おかしいと言われている 『患者』 とされる人間には単刀直入に、「あなたは周囲からおかしいと思われ、困っていると言われていますよ」 などとは決して精神科医は言わない。
患者側には観察と問題行動とされるものへの抑制しか与えられない。
原因がどこにあるのか?
それを精神科医は観ているのだろうか。
随分と前からこの辺りが、私には喉に刺さった魚の小骨のように引っ掛かって仕方がない。
診断と治療の元となる 『原因』 それは診断基準という物差しだけしかない。
精神鑑定や精神分析を繰り返し行うことはない。
それは人の精神ほど不安定で移り気なものはなく、異常状態とされる時には明確な分析が不可能な為、一定期間の観察の後でしか行えないものだからだ。
では、17歳のカルテの少女たちは時代の風潮や常識と云った非常に曖昧な価値観によって 『人格障害』 にされ、ドラマでは策略という裏側に隠された手口によってマフィンに幻覚剤を混入された物を何の疑いもなく食べた人の実父が統合失調症患者だったと云う言い分によって 『遺伝性』 とされた、この問題をどのように精神科医は診ていたのだろう。
誰の中にでもある憂鬱感や孤独感、あるいは優越感や幸福感。
人の歩む人生に平坦な道はなく、学校の入学や卒業、恋愛や友人関係、就職や失業と様々なアップダウンの中で平穏に暮らそうとしながらも、楽しさを求め、刺激を求めながら誰もが生きている。
忙しい時期には悩みや休む間のないことも時には続き、やっとゆっくり出来ると思えば暇で仕方なくなり、常に何らかのいわゆる 『波』 のある生活をする。
当然のようにその時期が長引けば、それなりに何かを心に抱くものだ。
それらを過敏に感じてしまうのか、適当にやり過ごしてしまうのかは人それぞれだ。
そうなれば、精神科に足を運ぶという現実に至る 『原因』 はいつ?どのタイミングなのだろう。
最近、「メンタルが弱い」という言葉をしばしば耳にするが、そもそもメンタルという物差しは一体どのような目盛りなのか知りたいと思う。
以前の記事で、『心が折れる』 という言葉について書いたことがあるが、何故次々と人々は精神面のことばかり話題にしているのだろう。
私が思うところは、そんなに精神面にばかり気を取られていると本当は精神障害でも精神疾患でもないのに、暗示に掛けているようなものだと云う事だ。
時代が不安定な訳でも、経済が不安定な訳でもなく、人々の心が取り留めもなく掴み処のない漠然とした自己や他者との価値観が不安定にさせているだけだ。
100年以上経っても原因の判らない病気は未だ数多く、薬剤もあまりなかった時代に比べると新薬の開発が急速に進み過ぎていることにも大きな原因はある。
何故、傷を早急に消し去ろうとしてしまうのか?
人間には自然治癒力があることを知っていながら、何故 『精神』 に対して慌てて直そうとすぐに抗不安薬や抗精神病薬を処方し服用してしまうのか。
内臓疾患はある程度の技術で発見し、たとえそれの原因が不明であっても治療法や対処療法は必ずしもではないがある。
しかし精神に関しては、確固たる原因を突き止めるには明らかな脳疾患の異常が発見出来なければ診断することも危ういものである。
性格による傾向なのか、何らかの疾患による傾向なのか、また第三者の錯誤なのか実態なのかを見極めるには時間が必要だ。
私が考えたいのは精神科医の目だ。
その精神科医も人である以上、固定観念や先入観が全くないとは言い切れないからだ。
それからもう一つ、WHOやCDCによる診断基準や検査法だけに頼りきっていることも非常に疑問を抱く。
2013年1月15日火曜日
成人式 ~自分の人生を振り返り思うこと~
成人式の時、一瞬にして自分が社会的にどう云う立場になったのか感じたのを覚えている。
国民の三大義務を負う立場は、親と対等の人間になったと云う事だった。
しかし親の様にはまだ世間を知らず役目を果たすには新生児同様であることを再認識した。
そして新卒と同時に就職した私は気付いた。
成人する(学生)までは学期毎に区切りがあるが社会人になるとせいぜい盆暮れ休暇や旗日休暇くらいしか区切り的なものがなく、大人は永遠に『大人の役目(仕事)』をひたすら成すだけでしかないのだ、と。
自由に選択肢を与えられるとは自由ではない気がした。
そうして『大人』になって20何年が過ぎ、親になって17年と16年を経験してきたが、自分の親の人生を考えると60年近く大人と50年近くの親の役目を成してきた姿に敬服するばかりだ。
私は未だ未熟で、自分の親の様には立ち振る舞えない。成熟した大人像を目指し続けているのが『私』なのだ。
人生は20年を境に区切りがあるのかもしれない。
20歳で成人し、40歳で大人になり、60歳で老いを迎え、80歳で天命に向かう。100歳ともなれば俗世を静かに見守る時期に入るのかもしれない。
国民の三大義務を負う立場は、親と対等の人間になったと云う事だった。
しかし親の様にはまだ世間を知らず役目を果たすには新生児同様であることを再認識した。
そして新卒と同時に就職した私は気付いた。
成人する(学生)までは学期毎に区切りがあるが社会人になるとせいぜい盆暮れ休暇や旗日休暇くらいしか区切り的なものがなく、大人は永遠に『大人の役目(仕事)』をひたすら成すだけでしかないのだ、と。
自由に選択肢を与えられるとは自由ではない気がした。
そうして『大人』になって20何年が過ぎ、親になって17年と16年を経験してきたが、自分の親の人生を考えると60年近く大人と50年近くの親の役目を成してきた姿に敬服するばかりだ。
私は未だ未熟で、自分の親の様には立ち振る舞えない。成熟した大人像を目指し続けているのが『私』なのだ。
人生は20年を境に区切りがあるのかもしれない。
20歳で成人し、40歳で大人になり、60歳で老いを迎え、80歳で天命に向かう。100歳ともなれば俗世を静かに見守る時期に入るのかもしれない。
ふと、そう思った。
ある意味、40歳とは人生80年と言われる現代で成熟人として改めて真の『成人』になる時期なのかもしれない。
そして人生の折り返し点であり初老期に入って行くことから、老いと天命を全うする準備と最後の駆け抜ける躍動満ちた年齢なのだろう。
先日投稿した、サミエル・ウルマンの 『青春』 の詩のように私はいつまでも自分を追い続けるだろう。
大人になると義務と責任が大きくなる。
それまでは親の保護下にあり、自分のことだけやっていれば良かった。
小遣いや学費、将来的に役立つであろう運転免許証や資格取得などの費用など、衣食住とその他諸経費の一切を親が面倒を見てくれた。
しかし、成人したり、就職すれば、もう 『こども』 ではなくなる。
私の場合は違ったが、他の人たちを見ていると、こども意識が抜け切らないのか面白い事に、 『お年玉』 がまだ貰えると勘違いして、当てが外れた顔をよく見かけた。
余所目に、 「お馬鹿さんねぇ、自分で稼げるようになったら小遣いなんて貰える訳ないのに」 と内心笑っていた。
ある意味、40歳とは人生80年と言われる現代で成熟人として改めて真の『成人』になる時期なのかもしれない。
そして人生の折り返し点であり初老期に入って行くことから、老いと天命を全うする準備と最後の駆け抜ける躍動満ちた年齢なのだろう。
先日投稿した、サミエル・ウルマンの 『青春』 の詩のように私はいつまでも自分を追い続けるだろう。
大人になると義務と責任が大きくなる。
それまでは親の保護下にあり、自分のことだけやっていれば良かった。
小遣いや学費、将来的に役立つであろう運転免許証や資格取得などの費用など、衣食住とその他諸経費の一切を親が面倒を見てくれた。
しかし、成人したり、就職すれば、もう 『こども』 ではなくなる。
私の場合は違ったが、他の人たちを見ていると、こども意識が抜け切らないのか面白い事に、 『お年玉』 がまだ貰えると勘違いして、当てが外れた顔をよく見かけた。
余所目に、 「お馬鹿さんねぇ、自分で稼げるようになったら小遣いなんて貰える訳ないのに」 と内心笑っていた。
大人になったら、 『心付』 に変わることを現代の文化で知っている人は居るのだろうか。
『世知辛い世の中になったものだ』 と言われ続けて30年近く経つが、心付文化も最近では珍しい光景になりつつある。
そんな些細で厳かな日本の謙虚で美しい習慣を、日常生活の折々で教えてくれる大人が少なくなってしまった現代でも、私は青年期の若者に教えて行きたいと思う。
『世知辛い世の中になったものだ』 と言われ続けて30年近く経つが、心付文化も最近では珍しい光景になりつつある。
そんな些細で厳かな日本の謙虚で美しい習慣を、日常生活の折々で教えてくれる大人が少なくなってしまった現代でも、私は青年期の若者に教えて行きたいと思う。
大人は、大人らしく。
子どもは、子どもらしく。
自分は、自分らしく。
そう、 『らしく』 成長や成熟を目指して生きることを覚えて欲しい。
大人と子どもの嗜好性に差異が薄れた現代では、40を過ぎても引きこもりやニートで生きられる世の中が存在する。
それが、らしさを考えられなくして居り、ただで飯が食らえることの間違いに気付けない原因だ。
子どもでも、ただで子どもの特権的に小遣いが貰えるのではなく、親の手伝いを率先してやらせることは大人になる大切な訓練でもあり、家事や炊事、洗濯、掃除、買い物など手伝った代償として、小遣いが貰えるのだと教えればいい。
『働かざる者、食うべからず』
日本の良い諺だ。
体や知恵を使わなければ、食べる=生きることが不可能なのだと知る必要がある。
それは発展途上国や内戦などによって、今日を生きるために必死で子どもながらに稼ごう、食料を調達しようとしている子どもたちがいることを考えたら、日本こそ考え直さなければならないだろう。
親離れ、子離れの問題。
しかし核家族のご都合主義。
改めて、自分が成人式に何を感じたのか見つめる良い機会だった。
2013年1月6日日曜日
物差し
よく世間では、自分の物差しで物事を計ると言うが、その物差しは殆どの場合、その人の経験値によって作られている。
他者との意見の食い違いや対立が発生した時に、その言葉が使われるのだが、果たして物差しはどんなイメージなのだろう?と、ふと考えた。
自己主張や自己正当化は自己防衛の心理から現れるが、その時 『価値観』 が物差しを浮かび上がらせる。
ある人によっては、定規。
ある人によっては、角尺。
ある人によっては、水平機。
しかし殆どの人がイメージしているのは、竹で作られた物差しではないだろうか。
現代では、学校教育の中ではプラスチック製の約20cm程の筆箱に入る大きさで、キャラクターや絵柄の着いた物を使用しているが、それを物差しとは呼ばず、定規と呼ぶのだから、価値観の比喩としては、やはり30cmの竹製の物だろう。
そこで私自身がこれまでの過去を振り返り、自分の中にはどのような 『物差し』 がイメージされているのか考えた。
ある投稿を私がし、その返信によって自分に気付いたものだ。
私はまるで 『巻尺』 のようだ。
あるケースでは、こう。
この人の場合には、これぐらい。
何かを成し遂げようと思い立った時、必ず 『計画・実行・即反省』 とある程度の見込みや段取りを先に考え、行動し、おおよその達成可能期間などを予測しておく。
そして、ある程度進んだ所で、一旦立ち止まり、このまま実行して行ってのメリット・デメリット、リスクとリターンをもう一度見直す。
それで、最初に計画した通り間違いないと思えば続行。
しかし、見込みなしと判断すれば即中止し、もう一度計画を練り直す。
毎回、何事に対しても距離と時間と労力を測りながら取り組んできた。
その結果がたとえ失敗であったとしても、それは 『失敗』 という経験値を得る事になる故に、決して無駄ではなく必ず後の教科書・参考書として大切に持って置くのだ。
そして巻き取って、その物差しは常に道具箱の中に整理して納められる。
どうりで、確固たる価値観や信念は自分にしか解らず、周囲からは 『いつも言う事が違う』 と言われる訳だ。
いつでも取り出せて、いつでも合わせられて、いつでも計れて、いつでも終える物差しでは、相手に私がどんな人間なのか伝わる訳もない。
何故なら、使わない時は終ってしまうのだから。
どこまでも長さのある限り計れる、いつでも自分の意思で巻き取れる。
そんな 『物差し』 の持ち主だったら、相手はどこまでと判断が着く筈もなく、またいつ巻き取られて終われてしまうのかも予測不可能だろう。
私がしてきたことは、的確に物事を計ること。
それは私にとって、最終地点である物事を成し遂げる道具に過ぎない。
その巻尺の長さを自分で伸ばそうと努力し、どんな距離でも測れるように訓練してきた事は、すべて現在の自分に繋がっている。
人々の中に在る 『物差し』 をイメージすることは対話から得るものだ。
音楽の嗜好や着飾る物、立ち振る舞い、それらを自分の価値観に当てはめながら、共有=そうだねを見つけようとしている。
さて、そんなことを考えてみた事があるだろうか。
私が巻尺を巻き取る行為は、きっと 『リセット』 だろう。
そして、その行為は誰にも流されたくない、自分だけの価値観を揺るがさない為の結果ではないだろうか。
実は、存在するようでしていない物差しなのかもしれない。
そんなことを、ふと考えた。
他者との意見の食い違いや対立が発生した時に、その言葉が使われるのだが、果たして物差しはどんなイメージなのだろう?と、ふと考えた。
自己主張や自己正当化は自己防衛の心理から現れるが、その時 『価値観』 が物差しを浮かび上がらせる。
ある人によっては、定規。
ある人によっては、角尺。
ある人によっては、水平機。
しかし殆どの人がイメージしているのは、竹で作られた物差しではないだろうか。
現代では、学校教育の中ではプラスチック製の約20cm程の筆箱に入る大きさで、キャラクターや絵柄の着いた物を使用しているが、それを物差しとは呼ばず、定規と呼ぶのだから、価値観の比喩としては、やはり30cmの竹製の物だろう。
そこで私自身がこれまでの過去を振り返り、自分の中にはどのような 『物差し』 がイメージされているのか考えた。
ある投稿を私がし、その返信によって自分に気付いたものだ。
私はまるで 『巻尺』 のようだ。
あるケースでは、こう。
この人の場合には、これぐらい。
何かを成し遂げようと思い立った時、必ず 『計画・実行・即反省』 とある程度の見込みや段取りを先に考え、行動し、おおよその達成可能期間などを予測しておく。
そして、ある程度進んだ所で、一旦立ち止まり、このまま実行して行ってのメリット・デメリット、リスクとリターンをもう一度見直す。
それで、最初に計画した通り間違いないと思えば続行。
しかし、見込みなしと判断すれば即中止し、もう一度計画を練り直す。
毎回、何事に対しても距離と時間と労力を測りながら取り組んできた。
その結果がたとえ失敗であったとしても、それは 『失敗』 という経験値を得る事になる故に、決して無駄ではなく必ず後の教科書・参考書として大切に持って置くのだ。
そして巻き取って、その物差しは常に道具箱の中に整理して納められる。
どうりで、確固たる価値観や信念は自分にしか解らず、周囲からは 『いつも言う事が違う』 と言われる訳だ。
いつでも取り出せて、いつでも合わせられて、いつでも計れて、いつでも終える物差しでは、相手に私がどんな人間なのか伝わる訳もない。
何故なら、使わない時は終ってしまうのだから。
どこまでも長さのある限り計れる、いつでも自分の意思で巻き取れる。
そんな 『物差し』 の持ち主だったら、相手はどこまでと判断が着く筈もなく、またいつ巻き取られて終われてしまうのかも予測不可能だろう。
私がしてきたことは、的確に物事を計ること。
それは私にとって、最終地点である物事を成し遂げる道具に過ぎない。
その巻尺の長さを自分で伸ばそうと努力し、どんな距離でも測れるように訓練してきた事は、すべて現在の自分に繋がっている。
人々の中に在る 『物差し』 をイメージすることは対話から得るものだ。
音楽の嗜好や着飾る物、立ち振る舞い、それらを自分の価値観に当てはめながら、共有=そうだねを見つけようとしている。
さて、そんなことを考えてみた事があるだろうか。
私が巻尺を巻き取る行為は、きっと 『リセット』 だろう。
そして、その行為は誰にも流されたくない、自分だけの価値観を揺るがさない為の結果ではないだろうか。
実は、存在するようでしていない物差しなのかもしれない。
そんなことを、ふと考えた。
2013年1月2日水曜日
サミエル・ウルマン詩 『青春』 から思うこと
青 春
原作 サミエル・ウルマン邦訳 岡田 義夫
青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨て冒険
心、こう言う様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに初めて老いが来る。 歳月は
皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
苦悶や狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、
精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。
年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
曰く、驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる事物や思想に対する
欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興
味。 人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる、
人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる、
希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる。
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして偉力の霊感を受ける限り、人
の若さは失われない。 これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつ
くし、皮肉の厚氷がこれを堅くとざすに至れば、この時にこそ人は
全く老いて、神の憐れみを乞うる他はなくなる。
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この詩を何年も前に見た。
一昨年の正月2日目、長女がインフルエンザになって夜間診療所を訪れた時、病院のロビーに毛筆で大きな上質の和紙に書かれていたものを再度観て、感銘を受けた。
まさに、青春とは、若者の特権的な価値観ではない。
寿命が訪れるその時までの心の有様そのものだ。
好奇心や挑戦し続ける、自分との在り方を失わず、天命を全うするその日まで駆け抜ける。
その姿こそ 『青春』 そのものであろう。
2012年12月15日土曜日
無意識の中の意識とは
私と親しく交流して下さっている方のブログ記事に大変興味深い文章がありましたので、そこから精神分析学、臨床心理学としての私見解をご紹介します。
An onymous氏 Blogger / 十字架の現象学
http://office-maria.blogspot.jp/2012/12/6.html
更に、本著者馬場謙一氏は、 『3 異なる学派と本書の立場』 の中で次のように述べている。
さて、ハイデガーによる現象学の内容を臨床心理学的に解説すると、忘れる事と覚えている事には内在する 『自分』の中にすべてはあるということであろう。
それがたとえ、錯覚であれ、勘違いであれ、何であれ、本人が感じた事は原因や理由よりも確かな事だと言えよう。
人は、 『見る・聞く・嗅ぐ・触る・味わう』 この五感によって自分を解っていると思っている。
所謂、視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚だが、それが必ずしも正しい情報として機能し生存しているのではなく、実は曖昧な感覚の中で割りとあっさりとした判断をしながら日常を過ごしているのだ。
社会学では、ステレオタイプと言うが直感や主観といった 『感覚的判断』 あるいは 『感情』 によって選択し、自分が感じた事や他者からの行為や動向をいちいち検証していては一向に物事が進められず、また神経も疲れてしまう為に 『適当な判断』 で精神的に丁度良い状況で居ようとする傾向がある。
故に、馬場謙一氏が著書の中で 『純客観的に観察することは不可能である』 と解説しているのだ。
そこで無意識の中の意識とは一体、どのような状態なのか説明しよう。
フロイトは夢分析で広く一般的にも知られているが、人間は目覚めている時だけ意識がはっきりしているのではなく、寝ている状態でも脳波動によって仮覚醒意識があることで夢を見る。
それと同じく、目覚めている状態でもふと意識がなくなったかのような感覚や眠っていたかのような 『空白の一瞬』 がある。
それを一般的な感覚では、 「ぼーっとしていた」 とか 「ふっとした時」 のように感じ表現している。
ナルコレプシーや睡眠時無呼吸症候群といった病気だけでなく、疲労やストレス、あるいは脳の疲れ、全身の血流によって変動している場合、生理的・身体的反応として自分の意識とは別の無意識で起こる現象である。
精神分析や心理学的な無意識とは意味が違う。
深層心理と言えば、ピンとくるかもしれない。
深層心理は自分の潜在的な心理を意味し、生い立ちや育った環境、幼少期の体験や与えられた概念、集団生活下の中で受けた疑いなき観念などがそれに相当する。
幼い頃に受けた影響は意識的に記憶することはなく、潜在的に精神の核(自我)へ記憶され、殆どの場合、覚えては居らず、ぼんやりとした触感にも似た感覚で宿っている。
人は視覚からの情報が脳へ伝達され、長期記憶と短期記憶へ振り分けられるが、その時他の感覚や感情も取り込まれる。
この感情が記憶としては一番強く印象的に残っており、脳の記憶箱から呼び起こされる時に思考は 『事実を言語化』 して動くのだが、言語よりも感情の方が根深くあるにも関わらず思い出しにくいものなのだ。
フロイトが精神分析に用いた 「お話療法」 というものは、ある物語(出来事)からその時抱いた感情を引き出そうと試みたものだ。
そして、現に抱える患者の困難の根源を探り当て、語り手本人に気付きを与えようとする方法であり、今日でも精神科で行われる心理療法や森田療法もそういった手法が取られている。
「あの夢は何だったのだろう?」 とか 「自分はどうして?」 と悩んだり、考えても、本来は答えは見つからない筈のものを人々は知りたがる。
それは実感し難い潜在意識が気に掛かるからだ。
また挫折や失敗を経験すると、それは心の痛みとなって精神的に回避出来る方法を習得しようとする情動から生まれることであり、 「あの時、何故あんなことに…」 と考えるのは本能的学習なのかもしれない。
それは恐怖心や猜疑心といった得体の知れない事への不安から湧き上がる当然の感情であり、人は常に恐怖心の中に居るのだ。
高等動物である人間は、物事を言語的に捉えることで実感しながら確認し、是か非かを判断しなければならないような複雑な思考作業を絶えず行っているにも関わらず、実の所、是か非かの二者選択的思考に惑わされている。
生まれてきた時、人間は視力が弱く嗅覚の方が発達している為、敵か味方か、危険か安全か判断する能力が非常に高く、赤ん坊はまず最初に 『嫌』 の箱を脳に備えている。
未経験・未発達な問題に対し、危機回避能力を発揮しなければならず 『きらい・嫌だ』 という感情が芽生えることから始まる。
約生後1年で、その嫌いを経験し、同時に好きを体験して行く。
生後3年に達する頃には、その好きと嫌いの箱が約50%ずつ完成される。
この頃 『自我』 が芽生え、振り分け作業が開始し、生後5年には大方の概要が形作られる。
外的要因によって振り分けられた 『概念』 というものは約10歳で完成し、自己理想像の決定もこの頃形成されている。
これが人格形成の基盤となり、外見的には性格として、自己・他者の両方から判断されるものとなる。
この生後10年間によって作られた、好き(善)と嫌い(悪)の箱は生涯、殆ど形が変わることはない。
それが深層心理であり、潜在意識なのである。
無意識の中の意識は、訓練しなければ意識することを獲得出来ず、曖昧な判断や意識によって揺れ動いているかのような錯覚の中にしか意識することは出来ない。
ハイデガーのいう、
根源的な内存在の一つの変様として概念的に把握されなければならない
と一致するまたは合致し得る点なのではないだろうか。
私の見解では、人の精神構造は感情論が約90%を占めていると考えている。
しかし感情は本能とは全く異なるものというのを踏まえて頂きたい。
〔参考文献〕 臨床心理学(弘文堂入門双書):馬場謙一 編(平成7年11月30日初版/弘文堂)
An onymous氏 Blogger / 十字架の現象学
http://office-maria.blogspot.jp/2012/12/6.html
ニーチェ箴言散策集・私家版 (6) より引用
ハイデガー現象学 未完の大著『存在と時間』第一部第一篇第十三節に、次のようなくだりがあります。
或るものを忘却したときには、以前認識されたものとのあらゆる存在関係が一見消え去ってしまうように思われるが、そうした忘却さえ、根源的な内存在の一つの変様として概念的に把握されなければならないのであって、すべての錯覚やあらゆる誤謬も同様なのである。(原佑訳)
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フロイトの人格構造論では、意識されている自分の中心的まとまりである 「自我」、抑圧されて意識されない無意識的な欲動の集積である 「エス」、そして自我から派生し、自我を監視する相対的に独立した内的人格である 「超自我」が設定され、それに 「現実的外界」 を加えた四要素の相互関係から理論が展開された。人格とは、自分自身の中にある3つの 『自分』 と外的要因によって存在する 『自分』 この4つから形成されているということだ。
※山中康弘氏、名取琢自氏執筆(臨床心理学:馬場謙一氏編より)Ⅱパーソナリティ論 p.12より抜粋引用
更に、本著者馬場謙一氏は、 『3 異なる学派と本書の立場』 の中で次のように述べている。
③対人的かかわりの重視
人間の精神現象は、自然現象と違って、純客観的に観察することは不可能である。(中略)
自己の行動のみならず、自分が無意識的にもらす私的な感情や考えが、相手にどのような影響を与えているかをたえず内省してみることが大切である。
④症状の意味の重視
力動的な臨床心理学は、症状のもつ隠れた意味を重視する。つまり、症状の背後には、本人も意識していない意図や動機が潜んでいると考え、表面的に現れた症状よりも、それらを探っていくことに大きな関心を向ける。(中略)人間から切り離された症状ではなく、症状の背後の人間それ自体であるといえるであろう。
※臨床心理学:馬場謙一氏編 Ⅰ臨床心理学とは何か p.7より抜粋引用
これは、あくまで治療者と患者を前提とした文書ではあるが、セルフコントロールと云う自分自身との対話によって自分と上手く付き合う方法としても現場で用いられているものであり、且つ日常生活に於いて何らかの問題に多少なり向き合う場面で大いに役に立つ知識のひとつでもある。
さて、ハイデガーによる現象学の内容を臨床心理学的に解説すると、忘れる事と覚えている事には内在する 『自分』の中にすべてはあるということであろう。
それがたとえ、錯覚であれ、勘違いであれ、何であれ、本人が感じた事は原因や理由よりも確かな事だと言えよう。
人は、 『見る・聞く・嗅ぐ・触る・味わう』 この五感によって自分を解っていると思っている。
所謂、視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚だが、それが必ずしも正しい情報として機能し生存しているのではなく、実は曖昧な感覚の中で割りとあっさりとした判断をしながら日常を過ごしているのだ。
社会学では、ステレオタイプと言うが直感や主観といった 『感覚的判断』 あるいは 『感情』 によって選択し、自分が感じた事や他者からの行為や動向をいちいち検証していては一向に物事が進められず、また神経も疲れてしまう為に 『適当な判断』 で精神的に丁度良い状況で居ようとする傾向がある。
故に、馬場謙一氏が著書の中で 『純客観的に観察することは不可能である』 と解説しているのだ。
そこで無意識の中の意識とは一体、どのような状態なのか説明しよう。
フロイトは夢分析で広く一般的にも知られているが、人間は目覚めている時だけ意識がはっきりしているのではなく、寝ている状態でも脳波動によって仮覚醒意識があることで夢を見る。
それと同じく、目覚めている状態でもふと意識がなくなったかのような感覚や眠っていたかのような 『空白の一瞬』 がある。
それを一般的な感覚では、 「ぼーっとしていた」 とか 「ふっとした時」 のように感じ表現している。
ナルコレプシーや睡眠時無呼吸症候群といった病気だけでなく、疲労やストレス、あるいは脳の疲れ、全身の血流によって変動している場合、生理的・身体的反応として自分の意識とは別の無意識で起こる現象である。
精神分析や心理学的な無意識とは意味が違う。
深層心理と言えば、ピンとくるかもしれない。
深層心理は自分の潜在的な心理を意味し、生い立ちや育った環境、幼少期の体験や与えられた概念、集団生活下の中で受けた疑いなき観念などがそれに相当する。
幼い頃に受けた影響は意識的に記憶することはなく、潜在的に精神の核(自我)へ記憶され、殆どの場合、覚えては居らず、ぼんやりとした触感にも似た感覚で宿っている。
人は視覚からの情報が脳へ伝達され、長期記憶と短期記憶へ振り分けられるが、その時他の感覚や感情も取り込まれる。
この感情が記憶としては一番強く印象的に残っており、脳の記憶箱から呼び起こされる時に思考は 『事実を言語化』 して動くのだが、言語よりも感情の方が根深くあるにも関わらず思い出しにくいものなのだ。
フロイトが精神分析に用いた 「お話療法」 というものは、ある物語(出来事)からその時抱いた感情を引き出そうと試みたものだ。
そして、現に抱える患者の困難の根源を探り当て、語り手本人に気付きを与えようとする方法であり、今日でも精神科で行われる心理療法や森田療法もそういった手法が取られている。
「あの夢は何だったのだろう?」 とか 「自分はどうして?」 と悩んだり、考えても、本来は答えは見つからない筈のものを人々は知りたがる。
それは実感し難い潜在意識が気に掛かるからだ。
また挫折や失敗を経験すると、それは心の痛みとなって精神的に回避出来る方法を習得しようとする情動から生まれることであり、 「あの時、何故あんなことに…」 と考えるのは本能的学習なのかもしれない。
それは恐怖心や猜疑心といった得体の知れない事への不安から湧き上がる当然の感情であり、人は常に恐怖心の中に居るのだ。
高等動物である人間は、物事を言語的に捉えることで実感しながら確認し、是か非かを判断しなければならないような複雑な思考作業を絶えず行っているにも関わらず、実の所、是か非かの二者選択的思考に惑わされている。
生まれてきた時、人間は視力が弱く嗅覚の方が発達している為、敵か味方か、危険か安全か判断する能力が非常に高く、赤ん坊はまず最初に 『嫌』 の箱を脳に備えている。
未経験・未発達な問題に対し、危機回避能力を発揮しなければならず 『きらい・嫌だ』 という感情が芽生えることから始まる。
約生後1年で、その嫌いを経験し、同時に好きを体験して行く。
生後3年に達する頃には、その好きと嫌いの箱が約50%ずつ完成される。
この頃 『自我』 が芽生え、振り分け作業が開始し、生後5年には大方の概要が形作られる。
外的要因によって振り分けられた 『概念』 というものは約10歳で完成し、自己理想像の決定もこの頃形成されている。
これが人格形成の基盤となり、外見的には性格として、自己・他者の両方から判断されるものとなる。
この生後10年間によって作られた、好き(善)と嫌い(悪)の箱は生涯、殆ど形が変わることはない。
それが深層心理であり、潜在意識なのである。
無意識の中の意識は、訓練しなければ意識することを獲得出来ず、曖昧な判断や意識によって揺れ動いているかのような錯覚の中にしか意識することは出来ない。
ハイデガーのいう、
根源的な内存在の一つの変様として概念的に把握されなければならない
と一致するまたは合致し得る点なのではないだろうか。
私の見解では、人の精神構造は感情論が約90%を占めていると考えている。
しかし感情は本能とは全く異なるものというのを踏まえて頂きたい。
〔参考文献〕 臨床心理学(弘文堂入門双書):馬場謙一 編(平成7年11月30日初版/弘文堂)
『学校に行く理由』~学ぶ意味とは
最近、また連鎖反応のようにいじめが問題で子供の自殺が増えている。
そもそも義務教育は何のために在るのか、子どもたちに教える教師も親も少ないと感じる。
何時の時代でも子どもの口から 「学校に行かなきゃいけない理由が解らない」 や 「勉強しなきゃいけない意味が解らない」 を耳にしてきた。
長く生きていれば、人生は楽しい事よりも苦しい事の方が多い事が理解できるのだが、まだ未発達で未経験の多い子どもたちには、楽しくない事を苦しんでまでやらなければいけない理由など解れという方が無理だ。
勉強とは、点数を取ることではなく、生きる知恵や生活するうえで最低限必要なものを身に付けること。
学校とは、自分の好きな仲間や楽しみだけでなく、社会の仕組みそのものを体験する場である。
故に、人間関係の練習の場であり、先輩、後輩、同級生の縦社会の人間関係や教師とのやり取りの中で大人社会を実体験するものであり、そこに 『楽しいこと』 だけがある訳ではない。
それらの問題への取り組み方を教えながら、気付かせながら、誘導していくのが私たち大人の役割だ。
しかし、実際の教育現場や家庭では、それら子どもたちの考えている事に耳を傾け、心の中で何を思い、日々を過ごしているのか観察してはいない。
教育指導要領に従って、とにかく授業に遅れが出ないよう、まるで大学の講義かのような速さで進め、テストによって点数をつけ、高校受験へと押し出すことしか学校では行われていない。
中学は国が定めた義務なのだから、教師は問題なく生徒を卒業させるのではなく、社会に出るに当って、どう生きる必要があるのか教える義務がある。
生徒は、義務である前に 『教えて貰う』 権利があるのだから、どんどん疑問を投げかけ解決していけるように助けて貰う義務がある。
そうは言っても、どちらとも関わりあいたがらない ウザイ関係 では、どうしようもない。
高校進学率が98%と、世界的にも高い水準でありながら、その実態は内容のとても薄い物で、唯高卒の資格を得ることでしかない。
その一方で、中退者率は何%に及ぶのだろうか。
文部科学省 平成21年12月22日発表の
平成20年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する 調査」等(小・中学校不登校の確定値及び高校長期欠席、 高校中退の数値の訂正値)の公表について
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/21/12/__icsFiles/afieldfile/2009/12/25/1288459_1_1.pdf
を読まれると良い。
この中で、公立、私立共に在籍者数に対し、不登校者率1.5%、そこから中退者率は全体の約2%と統計が出されている。
この結果をどう捉えるかが問題だが、たった2%しか中退者がいないとは、到底思えない。
私立に於いては、入学金や入学支度金、授業料に高額な金銭が必要で、それは学校運営の大切な資金であるのは言うまでもない。
それでいて、最初に徴収したものや退学するまでに収められた授業料分に見合うだけの教育や相談を与えていたのかと正直に問いたくなる。
いまや高校は世間的に義務教育と同じく、アルバイトをするにあたっても 『高卒以上もしくは高校在籍中』 が条件になっている。
それでも退学を望む子どもたちに、何故必要なのかを教えられないのだろうか。
上記の文部科学省発表の文章一つでも、 『読める』 のだろうか?
『読める』 とは、内容を理解出来ることであり、状況を知る、実感することである。
そもそも義務教育期間の9年間は、友だち作りや思い出作りの期間ではなく、それらは余禄なのであり、高等教育を受ける高校進学のためや大学入学、果てはブランド企業就職のプロセスに利用するものではない。それらは結果であり、余禄に過ぎない。
義務教育で教えられる科目を真に理解し、記憶し、応用出来たならば高校進学は必要ではない。
それ程までに基礎学力は、社会へ出てどのような職業に就いたとしても、起業したとしても重要なものであって、必ず 『読み・書き・算数』 は必要なのである。
ある小学校教諭が、テストのクラス平均点が悪かった時に、
『お前ら、このまま勉強出来ないでいると道路作業員とか現場作業にしか就職出来なくなるぞ!』
と、発言したことがある。
これは大きな間違いだ。
例えば、現場作業員と云えども、その職種や役職は様々あり、現場監督になった場合作業工程を確実に把握していなければ納期に遅れが生じる。
その時に、作業員を取りまとめ、年齢や経験、性格などを考慮し配置を考え、作業を進める計算をしなければならない。
また、従事者側もある程度の寸法や重さ、時間などの計算、支持される言葉の理解、材料の調達の分量計算、注文書・納品書・領収書など最低限必要な文字も読めなければいけないし、伝票や報告書・日課票への記入など書けなければ困るのだ。
言葉は汚いが、彼らは教師が思うような 『脳なし』 ではない。
日本の計算式や寸法の取り方には独特のものがある。
『尺』 がそのひとつだ。
家屋の間取りが最近では洋風にはなって来たものの、やはり図面を引く際に 『三尺六尺』 で計られている。
三尺=90cm、六尺=180cm。
畳一枚がその寸法であり、6畳間は縦3m60cm×横2m70cm。これが原型となる。
押入れは、ふすまが2枚であれば一間、1枚であれば半間と言うのだ。
※注:この寸法は、京間、江戸間と呼ばれる計算で若干地方によって誤差がある。
今では鉄筋コンクリートや2×4方式と云った建築様式によって、柱を自由に設計し、このような寸法でなくともワンルームやバリアフリー構造住宅の建築も可能になった。
しかし元来日本式の床に座る、畳の生活に長年馴染んでいるため家具などの調度品もそれらの寸法に合うように未だ造られているのだ。
布団は畳同様の寸法、シングルならば約90×180、ダブルは約145×180で製造されベッドも同様だ。長身の人が増え欧米化した体格に合わせて、長さだけが190cmや210cmも多く普及している。
こうした生活の中だけでも計算は簡単に必要なものだ。
そういう日々の生活から体験し、算数である 『縦×横×高さ』 を知ることはとても大切な事であり、算数や数学が苦手な子どもたちに興味を持たせる手立ては、実は身近な所にあり、脳の中に 『好奇心』 を沢山持ち合わせている小学生に何も難しく黒板やプロジェクターなど使用せずとも教えられるのだ。
体積や容積、立方体そんなものは、いくらでも身の回りにある。
ただ、教師になった人たちがこう云ったことを知らなければ、また興味を持たず教師になっていれば、マニュアル通りの勉強の仕方しか伝授出来ないのはしようがなく、また残念な限りだ。
子どもたちが将来どのような道を歩むかは、本人にも親にも、教師にも判らない未知の世界だ。
ならば、点数や評価主義ではなく、もっと中身のある身に付く勉強を与えてやらなければならないし、どの様な職業を選択したとしても可能なように導けるよう、私たち大人は世間を知らなければいけない。
与えられるがままの教育で育ってきた現代の大人たち。
子どもよりも世間知らずで、無知な大人たち。
『知恵は財産なり』
これを今からでも学ぼうと思う大人が居るのならば、きっと子どもたちに、子どもたちの目線に立って、学校に行く理由や勉強する意味を教えてあげられるのではないだろうか。
最後に一言。
一万円札ばかり勘定したり、眺めたり、宝くじで当たりはしないかと夢ばかりバクのように見て居らず、そこに描かれた人物福沢諭吉の有名な著書 『学問のすすめ』 をしっかりと読みなさい。
何故、人は学ぶ必要があるのか?
それは金持ちになるためではないと、ハッキリ書いてあります。
『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』
誰でも殆どの人が知っている言葉の本当の意味を、是非学び直して欲しいと願う。
生涯学習をするなら、まず自分の子、他人の子分け隔てなく、自分たち大人が全員で育てるのだと云う意識を持てば、必ず低学力やいじめなどの問題を解決する道は開ける。
まず、大人が学びなさい。
そして、子どもたちから現代史を教えて貰い、古臭い時代遅れの概念や固定観念を置いておき、古き良き日本の言葉や教え 『道徳』 を言い伝えなさい。
あなたが子どもだった頃、親や教師や周囲の大人が何を教え、与えてくれたのか、思い出して欲しい。
2012/10/23書きかけ項目だった記事です。
そもそも義務教育は何のために在るのか、子どもたちに教える教師も親も少ないと感じる。
何時の時代でも子どもの口から 「学校に行かなきゃいけない理由が解らない」 や 「勉強しなきゃいけない意味が解らない」 を耳にしてきた。
長く生きていれば、人生は楽しい事よりも苦しい事の方が多い事が理解できるのだが、まだ未発達で未経験の多い子どもたちには、楽しくない事を苦しんでまでやらなければいけない理由など解れという方が無理だ。
勉強とは、点数を取ることではなく、生きる知恵や生活するうえで最低限必要なものを身に付けること。
学校とは、自分の好きな仲間や楽しみだけでなく、社会の仕組みそのものを体験する場である。
故に、人間関係の練習の場であり、先輩、後輩、同級生の縦社会の人間関係や教師とのやり取りの中で大人社会を実体験するものであり、そこに 『楽しいこと』 だけがある訳ではない。
それらの問題への取り組み方を教えながら、気付かせながら、誘導していくのが私たち大人の役割だ。
しかし、実際の教育現場や家庭では、それら子どもたちの考えている事に耳を傾け、心の中で何を思い、日々を過ごしているのか観察してはいない。
教育指導要領に従って、とにかく授業に遅れが出ないよう、まるで大学の講義かのような速さで進め、テストによって点数をつけ、高校受験へと押し出すことしか学校では行われていない。
中学は国が定めた義務なのだから、教師は問題なく生徒を卒業させるのではなく、社会に出るに当って、どう生きる必要があるのか教える義務がある。
生徒は、義務である前に 『教えて貰う』 権利があるのだから、どんどん疑問を投げかけ解決していけるように助けて貰う義務がある。
そうは言っても、どちらとも関わりあいたがらない ウザイ関係 では、どうしようもない。
高校進学率が98%と、世界的にも高い水準でありながら、その実態は内容のとても薄い物で、唯高卒の資格を得ることでしかない。
その一方で、中退者率は何%に及ぶのだろうか。
文部科学省 平成21年12月22日発表の
平成20年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する 調査」等(小・中学校不登校の確定値及び高校長期欠席、 高校中退の数値の訂正値)の公表について
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/21/12/__icsFiles/afieldfile/2009/12/25/1288459_1_1.pdf
を読まれると良い。
この中で、公立、私立共に在籍者数に対し、不登校者率1.5%、そこから中退者率は全体の約2%と統計が出されている。
この結果をどう捉えるかが問題だが、たった2%しか中退者がいないとは、到底思えない。
私立に於いては、入学金や入学支度金、授業料に高額な金銭が必要で、それは学校運営の大切な資金であるのは言うまでもない。
それでいて、最初に徴収したものや退学するまでに収められた授業料分に見合うだけの教育や相談を与えていたのかと正直に問いたくなる。
いまや高校は世間的に義務教育と同じく、アルバイトをするにあたっても 『高卒以上もしくは高校在籍中』 が条件になっている。
それでも退学を望む子どもたちに、何故必要なのかを教えられないのだろうか。
上記の文部科学省発表の文章一つでも、 『読める』 のだろうか?
『読める』 とは、内容を理解出来ることであり、状況を知る、実感することである。
そもそも義務教育期間の9年間は、友だち作りや思い出作りの期間ではなく、それらは余禄なのであり、高等教育を受ける高校進学のためや大学入学、果てはブランド企業就職のプロセスに利用するものではない。それらは結果であり、余禄に過ぎない。
義務教育で教えられる科目を真に理解し、記憶し、応用出来たならば高校進学は必要ではない。
それ程までに基礎学力は、社会へ出てどのような職業に就いたとしても、起業したとしても重要なものであって、必ず 『読み・書き・算数』 は必要なのである。
ある小学校教諭が、テストのクラス平均点が悪かった時に、
『お前ら、このまま勉強出来ないでいると道路作業員とか現場作業にしか就職出来なくなるぞ!』
と、発言したことがある。
これは大きな間違いだ。
例えば、現場作業員と云えども、その職種や役職は様々あり、現場監督になった場合作業工程を確実に把握していなければ納期に遅れが生じる。
その時に、作業員を取りまとめ、年齢や経験、性格などを考慮し配置を考え、作業を進める計算をしなければならない。
また、従事者側もある程度の寸法や重さ、時間などの計算、支持される言葉の理解、材料の調達の分量計算、注文書・納品書・領収書など最低限必要な文字も読めなければいけないし、伝票や報告書・日課票への記入など書けなければ困るのだ。
言葉は汚いが、彼らは教師が思うような 『脳なし』 ではない。
日本の計算式や寸法の取り方には独特のものがある。
『尺』 がそのひとつだ。
家屋の間取りが最近では洋風にはなって来たものの、やはり図面を引く際に 『三尺六尺』 で計られている。
三尺=90cm、六尺=180cm。
畳一枚がその寸法であり、6畳間は縦3m60cm×横2m70cm。これが原型となる。
押入れは、ふすまが2枚であれば一間、1枚であれば半間と言うのだ。
※注:この寸法は、京間、江戸間と呼ばれる計算で若干地方によって誤差がある。
今では鉄筋コンクリートや2×4方式と云った建築様式によって、柱を自由に設計し、このような寸法でなくともワンルームやバリアフリー構造住宅の建築も可能になった。
しかし元来日本式の床に座る、畳の生活に長年馴染んでいるため家具などの調度品もそれらの寸法に合うように未だ造られているのだ。
布団は畳同様の寸法、シングルならば約90×180、ダブルは約145×180で製造されベッドも同様だ。長身の人が増え欧米化した体格に合わせて、長さだけが190cmや210cmも多く普及している。
こうした生活の中だけでも計算は簡単に必要なものだ。
そういう日々の生活から体験し、算数である 『縦×横×高さ』 を知ることはとても大切な事であり、算数や数学が苦手な子どもたちに興味を持たせる手立ては、実は身近な所にあり、脳の中に 『好奇心』 を沢山持ち合わせている小学生に何も難しく黒板やプロジェクターなど使用せずとも教えられるのだ。
体積や容積、立方体そんなものは、いくらでも身の回りにある。
ただ、教師になった人たちがこう云ったことを知らなければ、また興味を持たず教師になっていれば、マニュアル通りの勉強の仕方しか伝授出来ないのはしようがなく、また残念な限りだ。
子どもたちが将来どのような道を歩むかは、本人にも親にも、教師にも判らない未知の世界だ。
ならば、点数や評価主義ではなく、もっと中身のある身に付く勉強を与えてやらなければならないし、どの様な職業を選択したとしても可能なように導けるよう、私たち大人は世間を知らなければいけない。
与えられるがままの教育で育ってきた現代の大人たち。
子どもよりも世間知らずで、無知な大人たち。
『知恵は財産なり』
これを今からでも学ぼうと思う大人が居るのならば、きっと子どもたちに、子どもたちの目線に立って、学校に行く理由や勉強する意味を教えてあげられるのではないだろうか。
最後に一言。
一万円札ばかり勘定したり、眺めたり、宝くじで当たりはしないかと夢ばかりバクのように見て居らず、そこに描かれた人物福沢諭吉の有名な著書 『学問のすすめ』 をしっかりと読みなさい。
何故、人は学ぶ必要があるのか?
それは金持ちになるためではないと、ハッキリ書いてあります。
『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』
誰でも殆どの人が知っている言葉の本当の意味を、是非学び直して欲しいと願う。
生涯学習をするなら、まず自分の子、他人の子分け隔てなく、自分たち大人が全員で育てるのだと云う意識を持てば、必ず低学力やいじめなどの問題を解決する道は開ける。
まず、大人が学びなさい。
そして、子どもたちから現代史を教えて貰い、古臭い時代遅れの概念や固定観念を置いておき、古き良き日本の言葉や教え 『道徳』 を言い伝えなさい。
あなたが子どもだった頃、親や教師や周囲の大人が何を教え、与えてくれたのか、思い出して欲しい。
2012/10/23書きかけ項目だった記事です。
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